とある休日

 仕事が無ければ休日の醍醐味としては、オヤジの得意技といえば「ゴロゴロする」です。オヤジは雷を落とすし、ゴロゴロしてゴロゴロっぷりを皆に披露できる素晴らしい人なのです。

夜になれば仕事をしていなくても何かすぐに口実を作り「一杯やらなければいけない」へ誰にも頼まれてもいないのにすぐにそこへ持っていけます。

正直なところ、怠惰だけだとオヤジとは周囲が認定してくれないことも事実です。よってオヤジがオヤジであるためには家事や育児と用事をこなさねば、オヤジの威厳は(特に家内には)保てないのです。

時には数少ないですが、知性あふれる言葉を出さねばいけませんし、寛容融和であることも態度をもって示さねばいけません。オヤジは一応一家の大黒柱でありますから(お給料がその呼ばれ方に比例すれば私の扱いはもっとよくなるはずです)、表面上偉そうにできます。

春休み中の子供達に簡単な昼食とそれなりに用事をさせ、私も用事に出かけそれから「けいくん」の自転車の練習にでかけました。あの子はもう補助輪無しでスイスイのれるようになり、まだ危なっかしいことも多いですがうまく乗れている時の顔は本当に楽しそうです。少し雨が降ってきましたがそれでも何も言うこともなく夢中になって、何度も何度もこけてましたが痛いなんて一言も言わずに、誰もいない公園を独り占めにできていたので気兼ねなく満喫していました。
後何回か練習すれば一緒にサイクリングも行けそうです。最近は車社会で交通量も多く、自転車がかなり自由自在に動かせないと道路は危険です。

オヤジは鷹のように俯瞰的にあの子を見下ろし、的確な指示を飛ばすのです。

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なんだろうなあ

 たまたま長男は学力テストの成績が思ったより良かったようです。あまりそこまで信じてなかった私は

「ねえ、あんな順位取れると思ってなかったよお父さんは、あなたも思ってなかったんじゃない」

「うん」

うんがいい話ですね。

明日からはそれはそれとして、学期末テストが始まると言っていました。

「次も頑張って、良い順番をとったらまたいいことあるよ」

「そうだね」

長男より次男のほうが勉学に関しては心配です。まだこれから小学校になる三男はどうか入ってからのお楽しみ。

ここのところ家内が私とあまり話をしていないと話をしたがっているようです。その場合話をしたらいいだけなのですが、私は一人の時間に没頭して一人の世界を楽しむことにとらわれがちです。結果家内は私に対して不満が積もっていくようです。

わかっているなら・・・と思いますが、わかっちゃいるけどやめられないのです。

原稿を仕上げなければいけませんが、何故か手を付けたくない私がいて、つまりは手つかずです。

今日は怠ける私をみて、明日は明後日仕上げて見せる私をみて、明後日に必死に仕上げる私をみることにします。

一つの餅

何回も来られている方で夫婦別々に来られるのですがお二人共と仲良く、話が弾み、本末でいうと仕事なのに本を忘れてしまいそうになるくらい何かをお互い同じだけれど違うことを深く考えながら話すのです、ただ本をおろそかになりそうになればお互い笑うしかないです。
いつも近くにいる優しい方とは全く違う人で育ちも国も年齢も違うのですが、共通する何かを私はそこにみています。
短くその辺りでよく聞く言葉にすればよくわからないけれど「あの人とは気が合う」というものでしょうか、そう私が告げると
「この話が理解できないということは苦労していないということではないですか」
そう即座に言われました。

苦労という語そのものより「ご苦労様」の方が他人の労や骨折りなどをねぎらう語として使います。ただ「私は苦労した」この使い方は伝わり方が自らが判断する苦労ととれるので
近くにいる方が「あの方は随分苦労されたのよ」という使い方がまだしっくりきます。

先ほどの話の苦労よりは、私の話がいずれにしても偏りがあるので、その「偏り」が気になって先を聞きたいか、その偏りに光るものをみるかという、
まあこれはその「偏り」をその方(みずから)寄りにその方が思えるかどうかということだなんて思います。


自分のことを考えていることが皆のことを誰よりも考えていることになっている。それは一つの私にとって理想です。

実際は計算高く思われたり、冷たく思われたり、絵に描いた餅のようであったり、ただの言いたいだけ考えたいだけ、余計なことを言ってしまっているだけということばかりで、理想と違う自らが出現させた現実に悩み困り苦しみます。

「何も言わなければいいんですよ」


本当言葉を発さずとも、そこに限りなき言葉をだせれば、いうことがないのです。相手の方とそんな話になってすると

「けれどそうなったら有り難すぎて近寄れないし話すことも出来ないので(こちらが)困りますね」

「理想ですね」

身の程をわきまえず私は今年も愚か者です。

 昨日の奮闘(日頃の運動不足の祟りですが)で上半身が恐ろしく筋肉痛の日でした。
無事天候に恵まれ職場も忙しかったのに理解あって休日がいただけたことに感謝です。もし雨で延期なら今日が運動会で今日だけは忙しすぎて運動会を諦めるしか無い日でしたから余計に有難いと感じました。

些細なことに腹を立て迷惑をかけることがあります。そんなことを近くの方に相談しました。

「些細なことでないよ、誰だってそれは腹を立てる。まともなことをして悪くなり、まともなことを言ったら言った本人が悪くなる、そんな馬鹿な話は無い。」

現実それを理解してくれる人が少なくても、客観的な誰かがそう言ってくれるだけで私は救われます。
現実ありのままを言って言った人が報われず、やればやるだけ揚げ足をとられ、何もしない人が権力を傘に偉そうに振る舞うことが正しいなんてことに私は付き合いきれないなんて思います。

世知辛い世に生きる人ならば

「長いものには巻かれろ・出る杭はうたれるのだから・損をするような言動を慎しんだほうがいい。」


なんて言われるのでしょう。

よく思います。本当のことを言わなければ考えもせず理解もない。誰かが言わなければ微塵も理解しようとしないことなら誰かがやらなければ、ただその先頭の誰かは正しいことだとしても、もれなく不遇な目に合うことが多いです。

「(自らは何もせず、恩恵や権力や財力をかさに)誰かを悪く(揚げ足を取り続ければ)言えば、悪くいう人たちが善くなるなんて理論はこの世に存在しない。」

絵に描いた餅を夢見る私です。世の中に面白い質問がむけられることがあります。

「貴方、(権力や財力を)もってるの?」

私の答えはいつも同じです。

「いえ、何もないです」

向こうの答えもいつも同じです。」

「こちらは(権力も富も誰よりも多く)持ってんだよ(だからお前は何も言う資格はない)」

その問答に、私はもう付き合わないことにしています。ただ言葉や態度は違うけれどそんな問答をよく見ます。

その人たちにはそれが正義でしょうけれど、私にとっては負け犬の遠吠えですがおかしな人達にしか思えません。





(酔っぱらいは愚痴がすすんでしょうがないです。)

ゴロゴロ

 休日の前日の晩は随分と肩の荷が軽いというか、浮かれている感じです。けれど休日の前日がいつもそうかといえばそうでもなく、昨日は休日前を満喫しすぎて、晩2時過ぎまでお酒を一人で飲んで浮かれている始末。

休日にやらなければいけないことを聞いていてもすぐに忘れて趣味に没頭してみたり、ゴロゴロしすぎてみたり、とにかくゴロゴロしていみたり、とにかく寝ていたりするので、家内へやらなければいけないことを紙に書置きしてと頼んでいました。

朝起きてというか、夜更かしのため起きることもなく惰眠ぼむさぼっていた私に三男坊が起こしに来てくれました。まだ幼く小さく可愛いあの子に頼まれれば嫌と言えることは少ないので、一緒に階下へ。
あの子も今日も休日、割と私の横で一緒に長く寝ていたので家内が気を使って私とあの子を起こさなかったようです。朝ご飯をあの子に用意して、メモに書かれた本日やらなければいけないことを次男坊と私とで行うのです。
「けいくん(三男坊)」はまだしっかりした手伝いより遊ぶことのほうが大事です。というかですよ手伝うと物事が全く前に進まないので、その時は次男坊と外で遊んでもらい。一人で用事を進ませる。子供を誰か見てくれるということは本当に有り難いです。

先日知り合いの方と子育てのお互いの環境についてどう違うのか話していました。その方は私の母より少し若いくらい、子育ての時は大阪にいて長屋だったから皆が面倒をみてくれて本当に助かったと言っておられました。誰かがわが子をしっかりと困ったときに何度も何度も面倒見てくれたことを感謝されておられました。

私は見知らぬ土地へきて、誰かがそのようにみてくれる人はいませんでした。これも時代の流れなのか、私たちのやり方が悪いのか、そういう環境なのか、ただ誰も見てくれなければ二人で頑張っていくしかないだけのことです。むしろ子供たちがうるさいとか子供たちを育てる人たちを煙たがる人のほうが目について嫌な思い出ばかり増えていったなんて、その方へ愚痴をこぼしていました。

あの子達が生まれ、ようやく見知らぬ土地が知った土地へと変わり、誰一人知らぬから知った人が親しい人助けてくれる人が増えていきました。やっぱり私の問題のようです。

悪いことばかり思ったり、誰かが助けてくれるなんて思っていたり、何もしていないのに理解されたいなんて思っていたり、そんな時いいことは少ないように思います。けれど誰かが理解してくれるというか、後になって「大切なあの人」と思える人にであるのはそんな時のように思います。

 この暑さ、海岸近くの広い鳴門金時畑ではスプリンクラーが作動し、
そのすぐ横にこれもまた広めのレンコン(蓮根)畑、一昔前なら農業用水の確保や散布はどうしてたのだろうか、
なんて後で誰かにたずねるとか現実的に畑をする予定はないのだけれど、気になることは多いです。

紅い蓮は、何日間かわたくしたちやお参りの方を喜ばせてくれました。緑の中に一つだけ紅く咲く華を立ち止まって
写真に納めている方を何人も見かけ、それが嬉しかったのです。

昨日には散り、「はちす」(蜂の巣に似ていることから)は花が咲いていた時は
黄色に近い鮮やかな黄緑でした、花びらが落ちてからは葉や茎と同じ緑色へ変わって、
種を残すために光合成をする面積を増やしているようです。

いつも隣におられる方も毎日眺めておられ

「七つ種がなるんじゃない(みたとこ)」

これからまだ成長して、やがて枯れていきますが、次につなげることができる種が残っていくはずです。
(葉・茎・華の写真が残しておりますので、そのうち品種も特定しようと思います。)

その他にも数鉢、育成しているものは無事に越冬させ、来年に期待しています。

お日様が燦々と照るので、水撒きにいってきました。蓮の立ち葉をじっくりみながら水をあげていたのですが、
葉の陰に緑のアマガエルが隠れていました。本当葉の緑とかえるの緑は同じような色です。そのカエルをよけて
水を上げようとしたらもう一匹緑のカエルが跳ねて出てきました。

一本の大きな立ち葉の茎に並んでじっとしている姿は、愛嬌を感じてしまいました。
やせガエルではなく、割とふっくらした感じでしたのでエサが足りているから余計にそう思ったのかもしれません。


やせ蛙 まけるな一茶 これにあり



仲良く並んだ割と肥えた小さな蛙が二匹仲良く共存している姿とは違います。
ここは対抗しなくていいんですが、適当に何かと何かをかけて(まあみずを私がかけたんですけれど)一句

「あおがえる みずからよけて 日向ぼこ」



蛙に慈しみを持つ句と蛙をみて和やかになり持ち場にかえるわたしでした。



(おやじは一杯とギャグが大好きなのです)




要注意

 今住んでいるところへ引っ越してきた時、駐車スペースと倉庫の間に小さな小さな山椒の木が生えていました。誰かが植えたというわけでもなく、本当に小さなものでした。

特にわたしも家内も、植えたわけではないので、抜きもしませんでしたし、育てもしませんでした。ただ時と共に山椒は少しずつ枝葉が広がってきました。そんな時アゲハチョウがどこからともなく飛んできて卵を産み付け無事に孵化し、幼虫はまだ小さい山椒の葉を食い尽くしてしまいました。枝だけになった山椒は枯れてまうだろうと家内と話していました。そのうち山椒の木の存在を忘れた頃、以前より山椒は大きくなり、探さなくてもあるということが一目でわかる大きさになっていき、またどこからともなくアゲハチョウがやってきて卵を産み、たくさんの幼虫がそこで大きくなっていきました。無事にさなぎになって孵化するとこまで見たのは一回だけですが、おそらく気づかれないところで飛び立っていった蝶も何匹かいるのだと思います。

今年の春過ぎて、気がつけば小さい黒い幼虫が何匹も目につきました。脱皮をくりかえしやがては緑の大きな幼虫になった姿を見てはいつも子供たちと楽しんでいました。

ただそれからぱたっと幼虫の姿を見ることができなくなりました。

「幼虫まださなぎになるくらい大きくなっていなかったけど、何匹もどこに行ったんだろうか」

家族もまた見つけることができませんでした。いつもならまたどこからともなくあらわれ、次の卵を産み付けていくのに、今年は幼虫が大きな青虫になる姿をみれませんでした。

「鳥にでもたべられたのかしら」

家内がそう心配して言っていました。詳細はわかりませんが、彼らも自然と天敵などの脅威があるのだなと姿を見なければ痛感させられます。しばらくするとまた黒い小さな幼虫が見えました。

「今度はりっぱな青虫になって、できれば蝶になれるといいねえ」

毎日時間があれば、幼虫を一回は見に行くようにしています。一匹今丸々太った青虫になっています。あの大きさだともう次はサナギでしょう。一生懸命山椒の葉を食べています。ミカンも山椒も枝にはトゲがあり迂闊に近づけないような木の葉を食料としています。また山椒は薬味にもなるくらいきついものですが、いつも美味しそうにもしゃもしゃと幼虫は食べ続けています。

小さかった山椒の木は、今は7年位たったことにより本当に大きくなりました。何匹ものアゲハチョウの幼虫が来ても葉が無くなる心配はないくらいです。

ただ彼らが蝶になることは、本当に難しいのだと何年も見ていて思いました。


「幼虫さん」

気を付けてね、天敵や人・動物など

「要注意ですよ」


無事に蝶になって欲しいと思います。

思いつかないときは・・・

 日々続けていることが何かなんて、気がつかされることがあります。

「溺れる者は藁をも掴む」



その言葉通り、わたしはうまく生きることができず、いまこの手で何かをつかもうと(すがろうと)することばかりです。気がつけば、その掴んだものがわらしべ長者みたいであればと夢を見ています。

誰かつかんだものを良いものに交換してくれる人に出会う現実というのは稀なこと。

困ればまたわたしは藁を掴み(すがりつき)、立ち上がろうと(いや立ち上がって前に進みたいと)しています。人は慣れるものです。その藁(ワラ)できればいいものを掴みたいと。

真理につながる藁(ワラ)ならば、こけた甲斐も・失敗した意味も・こやしになるだろう。


中身が伴わなければ、掴んだ(すがった)藁を出すのです。


ぱっとしないものであれば、その藁をみて、笑われるだけのことでしょう。



できればわらわらと人が寄るような(または笑われたとしても)、

「これは真理(へとつながる藁)だ」

と言い切れるわたしをみたいです。

さばを

 ゴールデンウィークです。わたしは仕事です。ただ子供達はまだ幼稚園小学生中学生ですから世間並みに連休となり、私も家内も実家が遠いですから、子供達が小さい間の連休は家内は子供達と実家へ帰省することは多いです。

何日か仕事が終わって帰っても出迎えてくれる人もいませんが、たまには静かなのもよいものです。明日になれば皆返ってくるのでそうもいきません。

今日は有難いことに出会う方々に何故かいろいろいただきました。欲しいと思っているときには手に入らず、全く思っていないときにいただきものが重なることはよくあります。

家内が不在ということは晩御飯を作らねばいけません。誰かからマクドナルドのポテトとマックナゲットをいただき、あるものとそれで晩は済ませるかと思っていたら、鯖を一尾いただきました。

家内がいないということは鯖を(わたしが)さばかねばいけません。うーん普段(まったく)料理をしませんが腕のみせどころですね(見せる人もいませんけど)。

困ればインターネットです。「サバのさばきかた」で検索と、流石上手い方のさばき方は手際が良すぎです。まず魚を調理する前に包丁を研ぐところか始めました。一流の人は道具を大事にするものです(腕が悪いなら道具の切れ味でカバーです)。

食べる専門のわたしも(ネット上の)先生のおかげで、あら見事に三枚におろせました。骨の部分はお味噌汁に早速致し、身の部分は塩をふり、水気をとって、酢(みりん・砂糖)に漬け込み明日楽しむことにします。

今日は遍路の記事の続きを書こうとおもっていましたが、慣れない料理や片付けで、サバをさばいたという他愛もないことを書き残して一杯やるのです。


(思いついたら書くか言わないと前へ進めない病気にかかっているようです。)

のびる

 「他所の子は大きくなるのが早い」

お小さい方がおられれば、見るたび(出会う度)にそんなことを思うものです。わたしも同じような頃があったのだろうと思い返すことは多いです。

世間話でもよく聞きます。赤ちゃんでまだ寝ているだけからハイハイをするようになれば

「這えば立て 立てば歩めの親心」

(わたしは)ついつい言ってみたくなる言葉の一つです。


近くにある庭の竹のまわりに、たけのこが何本も生えていました。旬と筍は感じが似ていますから関係があるのでしょう。
どちらかと言えば「竹の子」のほうが(私の頭のなかでは)感じがぴったり。

一杯やって明日休みのわたしは(いらないことを)言ってみたくなります。

「いやあ、子供と竹の子と(くだらない)欲望はのびるのが早いものだ」


家内が先日「たけのこご飯」を炊いてくれました。たけのこの煮物、長男が

「これ(たけのこご飯)凄く美味しいよ、和食最高だよね」

大絶賛していました。たけのこをいただいた方・自然・楽しめわたしたちそれぞれに本当に感謝です。


やっぱり

「他所の子(の身長)や頼んでいない雑草の成長や目が覚めた人の成長は本当にのびるのが早いもんですね」




やっぱりしっくりこないな

「竹の子や他所の子や天狗になった時の鼻は、のびるのが早いっていいますよね」


(ぱっとしないのでこのへんで、もう一杯やることにします。)


定番

 春がくる前の寒い時期、今頃母は生まれました。母の三番目の子供として同じ月日に私も生まれました。

恒例のご挨拶です。「誕生日おめでとう」そう言えばそう返ってきます。お得なことといえば家族がその日を忘れないことと覚える労力が一つ少なくなることです。母のお祝いがあれば「そういえば」なんてお得に私がついてきます。

今実家より遠方で住んでいるため、うっかりしているときを除いて何かを贈ります。花であったり家内が何かを買ってきていたり、今回はうっかりしていましたので、ちょうど珍しいものを目の前でたまたま売っていたものを近くの人が買うといっていましたので便乗して、即座に送ることにしました。品物だけ送るというのも抵抗がありましたので、近くにあった便箋にすらすらと手紙を書くのです。

「誕生日おめでとうございます」
          (花よりうどん)

            ◯◯・◯◯


(◯には私と家内の名前が書いてあります)

中学から家を離れているから、久しぶりにてがみを書けば他人行儀な言葉になる私です。ただ珍しく贈答用のうどんを目の前で売っていたのも縁です。ちなみに私も贈答用ではなく家用に小袋に入ったものを購入しました。

このあたりでは「たらいうどん」が有名です。正確には住んでいるところより西地区の山際になります。これもまた何かの縁で家内が立派な「たらい」をいただいていました。

「たらい」といえば回す。

「たらい」といえばお寿司。

いやいやこの辺りなら「たらいうどん」ということで貰って使わないのも勿体無いですから、手巻寿司と「たらいうどん」に早速つかいました。

何でもそうです。新しいものですし、白木の木目が美しく、テーブルに並べればちょっと豪華に見えます。たらい一つで意外と変わるものです。


喜べるもの、私は何でも受け取ってしまいます。




喜べないもの、近くにいる人へたらい回しです。
(おそらく見ている人が思っていることでシメれたはずです)

不携帯

 最近の日本人はおかしいです(何って、特にわたしがなのだけど、ツッコミは後でお願いします)。

「けいたい」と言えば、携帯食料とか思う人の割合は少ないです。大抵の人は携帯電話のことを思い浮かべ、安易に「ケータイ」と呼んでいます(無論私もです)。

私は現在の日本では少ない携帯電話を持っていない、つまりは「ケータイ」を非携帯どころか、非所持という形態の人種です。私が80くらいの老人ならそれもあるだろうなんて思う人も少なく、何処へ行くかわからないからGPS代わりにもたらされたり、携帯の普及率に伴って恐ろしいスピードで減っている公衆電話の数、ただ「ケータイ」を携帯していれば公衆電話なんて昼行灯ですから、よく通る場所にある公衆電話くらいしか覚えていません。

久しぶりに合う友人・先輩・後輩・親族など、連絡先を安易に私へ尋ねます。一般的な言葉なようです。

「ケータイ教えて」

私が独身で素敵な女性を見つけたら見かける度に言ってそうな言葉です。

「ケータイは持っていません。」

「ウソー」

嘘のような本当の話です。私のことをあまり知らない人は疑いを持ったりしています。疑いを持たれたとしても持っていないものは持っていないし、持つことによって縛られたり依存している人を見れば、持たない楽さを知っている私は言うのです。

「ケータイがなかったって問題ないよ」

ただ相手は、「無いことが問題でしょう・・・」なんて思っている人も多いです。

ある意味現在に生きる人の中で本当に特殊な形態を示しているなんて思います(この辺でオヤジギャグが言いたいだけの人かと突っ込んでいいです。)


ただ安心して下さい。

「ケータイは持っていないですが、仏教はいつもケータイしています。(私と共にあります)」







どうも安心できない人が見えるような気がします。
(安心して下さい。)

カレンダー

 我が家のお風呂を出てすぐの場所にカレンダーが掛けてあります。何故そんなところにと思う人もいるかもしれません。私もそう思います。

子供たちにも当番があり、記憶力のいい小学生の我が子二人は交代でお風呂を掃除しています。仕事から帰れば、私はお風呂に入ります。お風呂掃除が出来ていなければ

「今日のお風呂当番って誰だろうか」

と二人へ尋ねます。二人共が

「僕じゃないよ」

「うーん、どちらかが本当のことを言ってて、どちらかが嘘をついているということはお父さんにもわかるよ

どっちなの」

やっぱり

「僕じゃないよ」

「うーん・・・」

それ以降掃除をしたらカレンダーに名前を書くようになっており、お風呂の近くにあるのです。

昨日お風呂の前から長男の声がします。

「お父さん、明日(カレンダー)に重陽ってかいてあるけど、何これ」

「広辞苑で引いてみたら」

「早速引いてみるよ、えっと、『じゅうよう』のっていないなあ・・・」

「それ読み方違うんじゃないの、『ちょう』とも読めるしねえ」

「あった。あった。節句の一つかあ、端午の節句とか他にもあるもんなあ」

家内「そうよ、だから菊の花を買ってきてるのよ、お酒に浮かべて飲む予定」

どうも家内は事前に準備しているようです。

WIKIを見れば

邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。



ということは


今日は一杯飲めるのです。

なかなか自分自身が長寿でありたいと思ったことはあまりないです。だからといって早く死にたいとも思っていません。自然に健康に気をつけていればそのうち寿命が来るだろうくらいに思っていることばかりです。

私の両親は有難いことにまだ健在で、おじいさんは92くらいで亡くなりました。おじいさんの兄弟たちも比較的長生きです。
家内は私に長生きの家計だから時折私を見て

「きっと長生きするわ・・・・」

何を見ていっているのか、何を言われてもプラスにとるあたりも大きな原因の一つではと最近は思います。

いやまてよ

カレンダーを見て

「このカレンダーは誰んだー、彼んだー」

とかいうあたりかもしれない・・・・

思い当たることが多いので一杯やることにします。

なるほどですね

 (私の)憧れの一つに、聞き上手がある。

できる人からすれば、簡単なもので

「聞いたらいいんですよ」

困った誰か(私なんだけど)それに反論することすらある。そこは

「なるほどですね」

としっかり相槌がうてればいいだけなのにと思うことは多い。ということで


近くの人で実験をしてみました。

普段の私に「なるほど」という相槌の言葉は皆無に等しく、「なるほどですね」も同様です。近くの人が私に何か言っていたので

「なるほどですね」

そう言えば、もっと話すどころかきょとんとして話を止めます。おかしいな・・・
きっと発音がわるかったのかな、少しアクセントや強弱などに気を付けて、何かまた話をしてきたので

「なるほどですね」

また話がとまります。あろうことか「聞いてないでしょ」なんて言われる始末。

確かに私はその時彼の言う通り「なるほどですね」を言わなければいけないことにとらわれすぎて、肝心の話が二の次に、単に「なるほどですね」が言いたいだけの人になっていたと・・・

「だからしっかりしないと(気を付けないと)」

そういう目と雰囲気を出される始末。


(私は)わかりました。





「なるほどですね」









(一杯やって深く反省することにします。)

里帰り

 里帰りから帰省

徳島から長崎までいつも家族を乗せて車で帰ります。運転が好きな人なら車が便利というし、運転する手間や長時間拘束されることを嫌う人は飛行機や新幹線でいかれます。

そこが理解できていませんでした。私が思う強さくらいに別の交通機関で行く人も思っているんだろうなんて最近は思います。

「車で(自分で運転して)行ったらいいじゃない」

口で言い返されなくても人によれば

「本当に飛行機で行ったらいいのに」

「新幹線で行けばいいのに」

「高速バスで行けばいいのに」

まあ人によれば

「お金かかるから行かなければいいのに」

言わないけどれも、そんなことを思う人もいるのだろうし、思わない人もいるのだろうし。人のことはわからないことは多いです。ただ一つわかることは自分の思いだけが全てでは無いと思っていない時の私は全く綺麗ではないです。
思い込みと偏りが発生して、あろうことかそれを押し付けしようとしています。寛容という言葉の反対、よっぽどの人でないとそんな私を受け止めてくれる人はいません。

どこかにそれすぎた話を元へ戻します。

600kmほど運転して帰った私は、少し疲れました。実家へ帰省のときはいつも車だから毎度のことです。ただご馳走(晩御飯)とお酒を父や母が用意して待ってくれていました。姉と(姉の)子供二人も時を合わせ帰省していました。
子供達が全員寝たあと、母と姉と私でお酒を飲みながら話を夜遅く(正確には朝方で飲んでいたのは姉と私だけ)まで気がつけばしていました。

話し込めば出てくる(私の仏教)の話・・・

ただ他人に話す時と、身内に話すことにはかなり違いが(私には)出てきています。相手が出来ていたり、私を受け止めてくれる人であれば加減無く善いことも悪いことも現実のことも話しすぎてしまいます。そこでの問題は私の現実が一番問題です。私は過去においても現在もですが品行方正ではないです。善いこともすれば悪いこともしてきました。善いことも言えば悪いことも言います。あくまで私の主観だから悪いことしか言っていない人だと思う人もいると思います。

家族は私が生まれたことから小学生になって中学生になって高校生、大学生と大人になってから、簡単な事です。私自身が成したり発した善いことなんて数えれるほどあるのかなんて思います。ただ悪くいったり悪いことをしたりなんてことは山ほどあります。そんな私が善い言葉を発してもやっぱり現実の私とは差がありすぎます。他人には気をつけて話をしても家族には飾らずに話せば他人よりぼろが出るなんて言うのでしょうか・・・

相変わらず発言しすぎて後悔する私を見ました。正確にはうまく言葉を発することが出来なかったとまだ言葉にこだわる自分を見ました。

帰省中(きせいちゅう)の道中、時期的に伸びすぎた植物を伐採するために高速道路や一般道路でも道路整備のための看板が出て片側車線を規制中(きせいちゅう)が多かったです。

何日か仕事をせず双方の実家へ里帰りして仕事をしていないと、落ち着かない私も見ました。仕事をしないで楽をしてたら私は寄生虫(きせいちゅう)みたいだ・・・




両親や大叔母さんと久しぶりに会えて墓参りができたことはとてもよかったです。



ただ他は私とかオヤジギャグはさっぱりです・・・

幼虫

 昨日久しぶりの休日でした。
三男坊とお庭の山椒の葉をいつもの如く眺めていました。アゲハ蝶の幼虫がたくさん繁殖しています。ぱっと見ただけでも小さく黒っぽい幼虫が八匹、脱皮が何回か進んで緑色の大きな幼虫になったものが四匹ほどいます。

初めは恐る恐る眺めていた「けいくん(三男坊)」も最近は、彼(または彼女)等が人へ害をなさないことを何度も見ることによって学びました。

「けいくん、わけもなくつついて警戒させちゃダメだよ」

図鑑で角を出すことを学び、実際に緑色になったばかりの幼虫から黄色い角が出てくることを楽しむようになっています

「幼虫達も成長するために一生懸命だから、あまりつついちゃだめだよ」

幼虫からしたら、あの子(けいくん)は要注(ようちゅう)意人物です。

「害をなす」という言葉よく聞く人もいるかもしれません。その反対の言葉はわりと有名です。意味を知らなくても聞いたことがある人も多いはずです。

害する(ヒムサー)ということばに否定(のア)がつき、「アヒムサー」(アヒンサー)という言葉になります。

漢訳すれば、「不害」となり、他者に害をなさないなどの意味として使われています。インドに興った宗教、仏教と姉妹宗教のジャイナ教などにも尊重され、マハトマ・ガンディーによっても「非暴力」などに訳された言葉でも有名です。

お経ではもっとわかりやすく、「不殺生」(ふせっしょう)生き物を殺さないなどに訳されています。

殺す殺さないまでいかなくても、非暴力までいかなくても、他者へ「害をなさない」という意味が私にはぴったりきます。

「(私に)害をなして欲しくないから、あなた(目前の方)に害をなさない」


これができないと




「ふがいない」私が出現しているのです。

よそう

 予想外な出来事は嬉しければ望ましく、悪い方向性のものであればちょっといらないと私は思います。ただ思っても悩んでも苦しんでも何かしなければなくなることもありません、何かしてもなくならないときもあります。どうしようもなくてもただ月日が流れれば解決することはあります。

大抵予想外のことであれこれと思案していれば、家内は私に一つの例話を持ってきます。

「あなたと結婚する(付き合う)と周囲の友達に伝えたとき、あんな遊び人で特に女性関係に器用な人とはやめたほうがいいと、皆に言われた。」

私「いや、皆知らないから好き放題言うなそれ、今だって(結婚して13年くらいたつけど)すごく仲いいしうまくいってるし問題ないじゃない、それは皆やっかみだったのではないかなあ」

真剣な眼差しの家内
「いや、皆反対してた。」

私「それならなんで結婚したの」

家内「うーん、だまされたかな・・・」

私「誰に」

こちらを見つめる家内
「・・・・・・・・」

そんなことを予想外の例としてだされてもねえ・・・・

私はいつもそれに応えます。

「愛しているからいいじゃない(愛があるからいいじゃないも可)」

どうもそれだけでは、満足できないらしいです。

いつもお世話になる優しい年配の方が私に独り言のように言っておられます。

「人間はないものねだりだから・・・」

欲望が根深いことを長い人生体験によって、私へ教えてくれます。喉が渇いてしかたがないときに水を欲するような渇愛(欲望)、おのれと相手と周囲を焼き尽くすごときあつく赤い炎の如き欲望、喉が渇いて仕方がないのに海の水を飲むが如き短絡的なやりかたでは、人は満たされない・・・。けれども何かを欲してしまう。

欲望を滅すとは全てなくすのではないことを意味しています。全てなくせばそれもまた一種の両極端の極端となり、そうかといって欲望すべてを思うがままも極端となり、どんなに美味なものも大量に出されれば嫌になることもあります。多からず少なからずが正しき付き合い方となり、仏教で言う「正しい道とは何か」の問いの答えの一つに中道を説くことはそう言う意味もあるようです。両極端から離れ(両極端から距離をおき、冷静に極端と己を見つめる)中ほどの広く自由な境地を進む。

ひとつの譬えが思い浮かびます。それぞれ人間には心に善き種を持っている。我が心の欲望の炎が燃え盛り強ければ強いほど、種を焦がしていく、その種は何回焦げても無くなることもない。燃え尽きることもない。ただ優しい慈しみの雨がその近くになければ、善い種は発芽しない。

何万回焦げてもいい。

それでも慈雨がくれば芽はでてくる。


悪い時ほど自分で(善い)種がないと思い込む(悪い種しか自分にはないと思い込む)

根拠がいつもなければ、私のように愚か者といわれるだろう。それでも根拠がなくても善いことを見つめたい・信じたい・望みたい。


そんな私は愚かだけれど好きでもある。


(あんまり変なことをいうのはよそうね私)

バラ

 近くで「バラまつり」があっているようです。町内にあるバラ園はいつも遠巻きに見るだけでいったことがありません。

庭につるバラとバラの木があり、綺麗な花を咲かせています。バラの木にはピンク色の華が咲ききったバラよりつぼみのほうがバラらしくもあり、美しいです。

ああ、庭のバラも咲いているけれども、見渡せば他の家の庭のバラも綺麗に咲いています。バラの咲く時期をあまり気にしたことがなかった私、今はバラの咲く時期でもあるのですね。

昨日の母の日に長男坊と次男坊はお小遣いを出し合って、家内に小さな花束をプレゼントしていました。

真っ赤な立派で美しい、少し模様のあるバラ、初め家内は玄関に飾っていたのですが、日当たりの関係もあるしいつも皆がいる目につく

「置くなら食卓がいいんじゃない」

「そうね」

晩御飯時に子供達に

「綺麗だよねこのバラ、いいもの買ったね二人共、やっぱ花屋のバラはなんか違うよねえ立派だ。」

私は残業があって花屋にいけなかったので、近くのスーパーでカーネションはいつも買ってるからバラ二本を買いあの人へ。庭のピンクのバラも二本切って玄関に飾っていましたがやはり買ってきたバラは違うものです。

何でしょうね、今年で私も40歳になりますが、最近になってようやくバラが美しいなんて思うようになりました。これからも今まで気が付かなかったものが美しいなんて思うのでしょう。私の実家の母へは家内が気を利かせて事前に花を送ってくれていました。些細な気遣いは女性にはかなわないとよく思います。

すると私の特徴は大胆な実行力や突飛な発言力やすごく長く寝ることやすごくまったりすることかな


まあ変なことばかりしていたら、家族がバラバラになってしまいますから気をつけたいです。
(まったくまとまりがつかなそうだから、くだらないことを言って今日も一杯やるのです。)

依頼

 ご縁あって三回目の話のご依頼をいただきました。
今までの依頼の状況から推測するに大体一年おきくらいに声をかけてくれています。ただ最初から疑問があります。

「私の何が良くて声をかけたのだろうか」

人前に出れば普段ならよくしゃべる口なのですが、そういう時は慎んでいますから聞けないのです。(ちっとも自慢にならないですけど)ですから勝手に推測するしかありません。

家内と私の関係が楽しそうでよかったのか(他にあまり例をみないあたりとか)

仏教好きなところがよかったのか

知的で聡明なところがよかったのか(マテマテ)

はてさて容姿端麗なのがよかったのか
(ツッコミのコメントは只今受け付けていません。)

考えすぎて動かない時が多いことがよかったのか

大抵器用なのに肝心な時には不器用なのがよかったのか

そのあたりは当人でないとわからないことですが気になるところなのです。

一回目は確か、「家内と私と仏教」というタイトルだったように思います。

二回目は確か、「(その時の私が思っている)仏教」だったような感じです。

三回目はタイトルをなんとつけましょうか(一回目と二回目をバランスよく足した感じです。)


第一回目はとにかく必死で一時間終わってみれば、皆に(主催者の人にも)大変喜んでいただいたことを覚えています。必死な人は時折まぐれあたりがあるもんです。(最初にそれとは・・・)

第二回目は一回目と趣向を変え、仏教一色でいきましたが、どうやら硬すぎてこけました。唯一慰めの言葉として「終始一貫して格調高い仏教の香りがした。弥勒さんの話は面白かったよ。」まあそんなとこです。(まぐれは二度続かないようです。)

第三回目今回は私としては好感触はありました。一時間ほど話をして終わりましたら、主催の方に「もっと話してくれてよかったのに」と悪くないことを言われましたから、まあ大失敗ではないのでしょう。(当たりでも普通でもないの半々だったのでしょうか・・・)

私はそのへんによくいそうな無名の人です。普段あまり大勢の人前で話はしないです。ただここには思ったことを書き連ねています。

書き続けて今日が499記事目になるでしょうか、あらためてここの記事をざっとみわたせば、私は「私」という言葉を乱発していることに今更ながら気がつきました。

家内が私を見てよく「本当にあなたは自分のことが大好きなんだから」と言う意味がわかってきました。

私は隙あらば私を好きなようです。私が好きなものを触れ合う人へ好きでいてもらいたいなんて気づけば口にしたり、文にしたり、態度にしているようです。

私がありすぎる私というのが、私の多くを占めていそうです。

久しく仏教関係という記事を書かないようにしていました。私から仏教をとって日々のブログをあらわしてみようと試みていましたがそれはあらためて難しいことだと気がつきました。私という言葉を書き続けるように、(私が思い考え信じる)仏教も隙あらば(隙がなくても)出てきています。

「偏りがありすぎる」と言われる所以もここにありそうです。「おしつけがましい」部分もここにあるようです。ただそれが好きだなんて言う人もそんなところにあるのかもしれません(もっともそんな人は少ないんですが稀におられます)。


いずれ私から私と仏教がなくなるくらいな、思慮・言葉・態度・文章であればと願います。


私-(仏教+私)= 答


図式化すればこうです。



その答えは何になるのだろうか

(色々試していきたいです)




はいしゃ(続)

 気がつけば月日が立つのは早くもう2月も終わりそうです。

昨年末に はいしゃ という記事を書きました。

タイトル通り、その続となります。

ずっとこのブログを読まれているマニアックな方で記憶力が相当良い奇特な方なら、ああそんなのあったあった。最近ここを知った方なら読んだことはないでしょう。
ですので過去の記事へ飛ぶようにリンクを最初に載せ、続きは、追記へ載せておきます。

(何故そんなまどろっこしいことをするのか、カテゴリがオヤジの場合は茶目っ気も普段より増量中です。)

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