明日

 明日は休日で、いつもならばゴロゴロマッタリしたいというところですが、有り難いことに予定が詰まっていて、忙しくなりそうですが本当に楽しみです。

友人の明日のやらなければいけないことが上手くいくことを願います。心配するようなことはない方ですから終わってどんなことが聞けるか再度ですが楽しみでなりません。

不安なことは最近特に長男と次男が遊び呆けていることです。おやじ必須スキル、カミナリ落しを発動して、オヤジの威厳というよりオヤジが生きてまだ怒れる力があるということを家の中で発しておきました。これで万事解決となるなんて思うはずもなく、後は私のあの子達を認め信頼し愛するというあたりまえの時間をどれだけ増やし続けてけるかどうかだけです。

趣味やゴロゴロマッタリや現実逃避や遊ぶことに夢中になってあの子達の存在を忘れていることばかりで

「お父さんは真剣に何かやっていることがあるのだろうか」

なんて思われていることでしょう。それに対する酔っぱらっている私はあの子達へ

「真剣に遊び呆けていますよ」

こりゃだめだ、なんて思われているでしょう。ニッコリ笑って

「こんな風になりたくなかったら真剣に自らの為にできることは早めに取り組むのですよ」

ちっとも説得力がないのであの子達へなかなか伝わらないようです。


できれば私みたいにやらなければいけないことを長いこと目を背け逃げつづけ、進みたい道が何かもわからず選べる幅もなくなってしまうようなことは避けてもらいたいなんて情けない私の失敗をもってあの子達へ何かを伝えたいです。

本当は私が笑うことが少ない方が深刻に伝わるのでしょうけれど、皆のこころの前に私のこころが荒みすぎるので避けたいところです。やっぱり明日が休みとなれば一杯やるのです。
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怠惰

 先日まで長い間読みかけていた『仏教の思想5 絶対の真理<天台>』をながいことかかりようやく読み終え、その次巻である華厳へ進み始めました。

まだ周囲でいろいろあることを言い訳にして集中できず、長い時間をかけてしまったので次はもっと集中して読みたいのですが、冒頭に気になる本の紹介をしてあり、それを検索してみましたが絶版で一部の間で人気があるようで手が届かない値段になっていて、他に売っていないかと探していたら、時が過ぎるばかりでつまりは何も思いつかない現実逃避であったように思います。

以前中村元先生の『慈悲』を読んでいたく感動していたのですが、本のレビューに「悪魔の書」だとか書かれてあったことを思い出し、個人の趣味や好み相性が書物にもあるので中村先生に対するやっかみか、それとも大好きだという言葉の極にあることで表現したかったのか、私はあまり参考になるレビューに書かない人ですから、悪いことなら猶更書きたくないのでそれもまた個性の違いかといつもそのレビューの言葉を思い出せば考えさせられます。

角川ソフィア版の仏教の思想9とであって、いろいろな書を読んでようやく1から読み始めやっと6の華厳へ、その間気分転換に何冊か手を出しながら読みかけの書がその辺りに何冊かあるのでそれも何とか私なりに理解して読破せねばと考えていました。

ここのところ家では怠惰の極みで、趣味にふけってばかりであまり進んでおらず、近くにある「坊ちゃん」を再度読み始めてみたり、さらに近くにあった「若きウェルテルの悩み」に手を出してみては、「龍樹」(中村先生)を読みかけて、本当どれもが気分転換の中途半端で進んでは戻りの繰り返しからの脱却を図ることにします。

ただ昨夜は趣味にふけって夜遅くまで寝ていましたから、今日は(いつもですが)すべてを忘れて寝ることにします。


問題は明日もすべてを忘れているので昨日何を思い願いやろうとしていたかを忘れている(現実逃避と怠惰の極みの天才である)私に出会うこと間違いないです。

とある日の家庭訪問

昨晩仕事が終わってから、来客が使うであろう部屋を片付け掃除機をかけて、子供には檄を飛ばし

「部屋を今すぐ綺麗にしなさい」

次男と長男は私に雷を落とされたくない一心で、片付けていました。次男と三男の部屋はおかげでビフォーアフターに出れるくらいに思い出を残しつつ綺麗になりました。

「お父さんお母さん見て、見て!」

「綺麗になったね」

それも今日が長男と次男の家庭訪問の日だから、あの子達の部屋を見られる訳ではないですが、口実は大切ですし、来客の予定があれば綺麗にしておかないといけません。
私は朝から少し用事がありましたから出かけ、目につくと困るものを置く部屋は掃除はしたのですが物を沢山おいて見れる部屋にはなりませんでしたが、そこはそこへの扉を開けなければ問題がないはずです。

まず次男坊の先生が来られて、私は今日初めてお会いしました。初対面の印象としてはあの方は私の正反対に位置する武道家です。よく話す私と違って寡黙な方です。私より一つ上だとか、誠実そうな方です。(初見の私的感想です。)

あの子(次男)のこれまでの傾向や実績や嗜好性をお伝えし、あの子の最大の苦手分野である勉学をどうか宜しくお願いいたしますとお伝えしました。もっとも家で責任は私にありますから、面倒をしっかりみないといけないのはあたりまえのことです。(あたりまえのことが私にとって難しいとすぐ言い訳したくなる私が最大の課題です。)

終わって長男の先生がお見えになり、二年の時と同じ先生でこれまでも三者面談などでずっとお話ししましたから、これといって自己紹介もお互い必要もなく、最初から先を見据え話をしていましたから、取り立てて言う話もないので、高校への進路の具体的なことについて話し合いました。

ただ昨晩と用事が終わって先生が来るまでに家事やお花を買って玄関に飾ったりお茶菓子を買いに行ったり、何やら今まで家内が主婦であった時のことを同じようにやっているといった日でした。ただ違う点としては、私にはいらぬことを言いすぎる口・饒舌な口が後に反省材料となることを残してしまったということです。


次回はもっとしっかりあの子達の為もありますが後悔(懺悔)になることを避けるためだけにも、上手にやり遂げたいです。


今日の

 誰かと話すことは、その誰かが誰でもいいとはならないのですが、お互いを害することのないようにと気を付けているのならば、話は楽しくなることばかりです。

優しいからか、自らが苦しんだり・悩んだり・怨んだり・怒りなどに長く染まりすぎたるすることからよく笑うことができるようになった方であれば、言葉にしなくともある程度の前提を省略して深く先を話し合うことができます。

私は私と話をする方がどのような言葉の返し方であるかが、その方の個性が出れば出るほど楽しいです。私と違えば違うほどそれは楽しいです。それは一緒だと私のように愚かで現実から目を背けひねくれたところがあるのかとつい勘ぐってしまう程の愚か者だから、答えは違う方がいいのです。
違う答えに私がどのように対応していくかという私を見るのが好きという、ただの私の知らない私が好きだということになるのかもしれません。あまり考えたことのない問いに

「即座に何を思い、どのように考え、どうしていくのか」

そんな答えを思い付きで出会ったことのない考えに出会う瞬間が好きなようです。この場合その私に出会うと今度は今まで同じ話しかしなかった相手にも知らなかった私の出した答えを今まで知っていた方に、知らないことに対してどのように振る舞うのであろうかという問いをぶつけています。その相手が自らの知らないものに対する相手の答えや反応にまた楽しむ私がいて、それはどんどん重なりつながっていくのです。

どうでもよいことが世界を変える瞬間と大袈裟に言えば言うのかもしれません。

私はそこでまた自らの世界に閉じこもり何かを理解できず、何かわからないのに書に没頭することにしています。本当何かよくわからないのに、気が付けばよくわからない何かは時折みえないけれど複数の人が目にみえるような感じれるようなものになっていることに気づかされることがあるので、本当によくわからない話です。

まったくもって何かよくわからない阿呆な私の今日の独り言です。

体験

 いつもいる場所で近くに長い時間人が入ればその人に良くも悪くも普通にも影響されることはあり、家内は随分いつも職場にいる方にやられて帰ってきます。

家内以外の人には優しいけれど、家内には根性が悪い振る舞いばかりしてくる。「こちらは誰にでもできることをしようとしているしその人にもずっと優しくしているのに、何故そのようなことをずっとしてくるのか意味がわからない。」それは仕事を始めてから一年半程経っても相手は変わらず根性悪いような振る舞いばかりで、本当にその方の行動や思考が理解できず悩まされています。

「無理だと思ったらいつでも辞めていいよ、他にも仕事(職場は)あるのだから」

そういつも私はオウムのように言うのですが、どこにいっても根性が悪い振る舞いばかりをしてくる方はいると思います。私は割と我が強いのでやられた分はすぐにやり返すというより、いつか別の形で真っ当(正当)な方法でその方にお返しすることに熱意を燃やし仕事に力をいつも以上にそんなことがあれば注ぐことにしています。

私だけではないと思いますが、仕事において人間関係で特に自らが苦手・嫌・相性が悪い方でも仕事であれば接点を避けれないことは往々にしてあります。
割り切るか、腹が立つようなことや怨みになりそうなことや怒りそうなことはさらりと流すか、違う大切な仕事に集中して他のことを構えないほどの世界を作るか、かわすか、場所を変えて大事な仕事にとりくむか、人によって対処は変わるでしょうけれど、仕事は仕事お金をもらって仕事をしていれば普通の水準を維持せねば、対価であるお金はいただけないどころか自らを必要とされなくなることもあるので、対処は難しいです。

家内だけでなく家内より随分前から働いている私でも、やはり根性が悪いことを続ける方と時間を過ごせば怨むし怒るし腹が立つし、理解できないし、けれど仕事は仕事ですからそんな人の前であればいつも以上に気を付けなければいけないことは体験上身に染みて理解しました。

今日の休日はゆっくりできました。明日からの仕事も気を付けてやっていこうと思います。仲間を大切にどんな方でも最低限は報告・連絡・相談と挨拶を疎かにすれば私がどうにもならなくなることも最近嫌になるほど体感したことを忘れないようにしたいです。

あまり・・・

 四月十七日 (月)曇りのち雨

いつもなら月曜辺りが休日となりますが、忙しいので休日が二・三日先となって、問題もあまりないことは有り難いことでした。
日に日に寒い日も減り、朝晩日が長くなって、一雨ごとに気づかぬうちに草が沢山生え、交代で咲く花の様子をみることができます。

私自身の問題は片付けなければいけないのですが、今すぐでなくても近くにいる方の問題に比べれば少し時間の猶予があるほうです。

「誰かと誰かが仲が良すぎるから」

あなたたちの仲が良すぎるから、こちらは「悪いことや無茶をしていい」そんな話は私はよく分からないです。減らず口の私は「そちらも負けずに仲よくしたらいいですよ」なんてことを思うくらいで、いずれにせよその他いろいろ(悪くない理由ばかり)があったとしても、だから滅茶苦茶したなんて同じような話は私は理解に苦しみます。私もそうですが、悪いことをすれば悪いことを行う方自身が責任をとらなければいけません。

言いたい放題・やりたい放題・とりたい放題、身勝手な三つの砲台を現代人が持ちすぎたり使いすぎれば、先のことをあまり考えなくても答えはすぐにそれをみている人に聞けば教えてくれるでしょう。現実の話、否定しようのない本当のことであればあるほど、私は何も言えません。



ちょっと何かをいろいろと最後に受け過ぎた日でした。今日は一杯やらずに早めに寝ることにします。

比喩と象徴

 (私にとって)まったりとしているけれど、仕事はそれなりに忙しい日となって一日が無事に過ぎたことが有難いと思える日でした。

目にはみえない何かを言葉(話すこと)によって、みえていないけれど一緒にみるように、私をみるというより言葉によってあらわしていく世界、何かが真理であればそれを言葉であらわすことは私にとって無謀ともいえることです。そこで何かを何かに変えていく作業を比喩といい、何かを目に見える形としてあらわすことを象徴化することいえます。

簡単に言えば地図記号でもあるように、神社を鳥居であらわす。これであれば地図を見ているけれど

「海の上に浮かぶ神秘的な鳥居、そうあの厳島神社のようなものですよ」

これもあの鳥居を知る人ならば普遍化している一つの象徴です。

では仏教を象徴するとなると、これはあまりにも雑多でそれでいて日本人にとって普遍化しすぎるあまり、多種多様なものによってあらわすことができます。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)

お寺で響く鐘やその妙なる心地よい音色


汚泥より生じ、その泥に何一つ染まらず咲く純白の蓮の花


全ての悪しきもの滅し燃やし尽くす炎をまとう憤怒尊の炎

一切の戯論(取るに足らない話や議論)を断ち切る(智慧の)剣

正しきことを知らしむるために落ちる雷(稲妻)

不当な落雷を防ぐことのできる自らを守る絶対障壁

年齢に関係なく(幼子から老人)愛され許される慈悲の一端である「心配ないよ」という微笑み

大きなお寺にある、五重塔やお堂の建築が大いなる屋根と華麗なる荘厳は私達が生きている世界に遠い過去から果てのない未来まで貫いていく偉大な真理をあらわすために、象徴としてあるということ

本当に人より随分と遅く気付く愚かな私です。


意地っ張りでとらわれ迷う私は、意地を張り続けるのです。

私は私の信ずる狭く偏ったものでこの素晴らしい世界を除き続け、その果てしない世界と私の世界は同じものだなんて、根拠のないことを拙い言葉でそのあたりの空気に自由にえがいていくのです。

誰も理解してくれなくても、私は割とそれが楽しいです。



あちらこちら

 忙しすぎず暇でもなく、特に問題もなく仕事を終え、明日もまた仕事で忙しい予定ですが家内と近くへお風呂に行こうと約束していましたから、仕事が終わって家内を見るとまだ子供達の晩御飯の用意の途中で、せかしたり待つというのもお互い疲れます。
家内が買ってきて植えてなかった苗を植えたりその辺りの草を抜いてみたり、結局草も全部抜く前に家内の用事も終わったので、雨が少し降る中久しぶりに二人で出かけました。
その間、子供達には晩御飯を食べてもらい、「もし遅くなったら、歯を磨いて先に寝てて」そう途中で二回ほど電話しました。子供達も大きくなってきたから留守番のほうが都合がいいなんてことが増えて、複雑な家内の気持ちです。

出かける場所へ車のナビで普段通らない道を通る設定にして、雨も少し降っており七時近くでたから道中にライトアップされた沢山の枝垂桜の場所に立ち寄ったとき雨も強くなって、真っ暗でしたが、ドーム状に枝垂桜が咲き、その下をくぐったりそこを眺めて暗く雨が冷たかったですが、家内は随分喜んでいました。最近お互いの休日が合わないからこれからは夜に今回のようなことが増えていくかもしれません。

それにしても夜で車を運転しながらでも至る所の桜が咲いて、通り過ぎてみるだけの桜でも美しいもので、昼間なら本当に言うことがないのでしょうけれど、欲張りな私ですから昼間は昼間でもっと欲張りなことを願ったり言っているのだと思います。
咲いた桜はそれ以上咲かず、この雨で散っていくでしょう。また来年会えることを楽しみにしています。

徳島へきて確か15年になると思いますが、早いものです。私もその年数歳をとり、住んでいる場所や周囲徳島の名所などを新しく知った分以上に、いろんなことを忘れています。

咲いて散って、また咲いて散って

桜を見る見知らぬ人の話が聞こえてきて「桜が咲いて綺麗、私らもいずれは散っていくねえ。ああそうか散る前に私たちも花を咲かさないとね」そう言ってその方達は笑いあっておられました。

この時期「こんなところにも桜の木があったのですね」いたるところで桜が咲き美しいです。日本人は本当に桜が好きなのだと家内と二人で話して帰りました。

朝から晩まで、桜が舞い散る光景ばかりの日でした。

散る桜

 満開であった桜を二日ぶりに見ると幸いに散っておらず、美しいままでした。

異なる点は風が吹くたび、桜が舞って通りがかった外国人の方が写真に収め、日本人の方も幾人もスマホなどで撮っていました。私は風に流れるさまを、咲いている桜が揺れ花びらが空へ飛んでいくのを何度もみていました。
桃の花も随分散っており、桜と桃から若葉が出てきて、以前みた梨の花は満開になっており、育てている蓮からは芽が出てきていました。

昨年は花をみて何かを思うことや美しさに心奪われるという心の余裕がありました。今年は特に昨年末からいろいろとあって今もまだいろいろとあるので、花を見た瞬間に花を楽しむ余裕が本当になくて、随分時間が経ってようやく気が付かされる春です。
良い方向性のいみでなく
「(あたりまえのことがあたりまえでなくなれば)あたりまえであったときの有り難さが随分身に染みる」
そう近くにいつもいる方とぼそっと話をしていました。

早くいろんなことが善くなるとかそんな理想は欲張りなので、あたりまえのことがあたりまえであって欲しい。そんなことを言葉を交わさずともお互い願っている日であったように思います。


今日は飲み過ぎず早めに就寝することにします。

理解

 今日もまた有り難いことに適度に忙しく、さらに私が好き放題に言ってもそれを受け止めてくれる方達でそのことがどれだけのことかと考えさせられました。

いたって簡単で、私のことを嫌いな方・苦手な方・面倒くさいと思っている方・恨んでいる方・相性の悪い方・避けようとしている方・都合の悪い方、そんな方は私が好き放題発言すればどんどん関係と空気は澱むどころか悪化する一方で、つまり私のことを理解しようと少しでも思う方でないとそのような関係や今日のような一日になりません。

私は生きるために理解されたいのではなく、理解されるために生きているようです。

その理解されたいという思いが低俗で愚かで拙く間違っていることばかりですから、こちらを苦手や面倒くさいとか邪魔だとか歯牙にもかけない方が沢山おられることも事実です。

家内曰く

「あなたはいつでもプラス思考のかたまりで自分が大好きだから」

それは家内にとって私に対する最上の嫌味でもあり、私を好きだという言葉になっている一つです。

いつも思うのです。私が私を嫌いになればその果ては、自らで命を絶つしか道が無くなるでしょう。悪いことを思い願うより、その反対に位置するものを楽しく誰に頼まれてもいないけれど理想や楽しさを一人思い描きまた一人で笑っています。私を理解しようとする方は

「(また何をみてきたの)どうしたの」

そう優しく尋ねてくれます。

まだ来ていないことで阿呆なことや思いついたままの世界を誰もが笑っていなくても笑って話すのです。


誰もが楽しんでいなくても私は楽しく笑うのです。


「楽しいですね」


私はプラス思考ですから、一人楽しく笑うことが多いです。つまりは阿呆です。

 四月七日 (金) 晴れのち曇り
 職場の前にこの時期はいつも桜が見事に咲き、他のことに気をとられ桜が満開であることに気づかずにいると見知らぬ訪れる方が

「綺麗に咲いている桜が目前にいつも見れるなんて最高ですね」

そんな言葉で私は満開の桜に気がつかされます。ちょっと用事で他のところへ物を移動するときに、桜の側を通り眺め、こころの中がさくら色になったような気がします。

仕事帰りに紅い紅い桃の花が咲き、その向こうに淡い淡いさくら色の桜が咲き、目線を変えれば柳は萌えるような緑で、道の脇に美しい濃いピンクの桃が一斉に咲き、色んなところに植えられたチューリップも可憐に咲き、春爛漫です。

モクレンの種類も少し前から咲き散ったものも多いですが、紫のものが咲いて目を奪われました。ちょうど農道を通って帰ります。梨も咲いていたように思います。

花が咲き乱れ、一つの花も一本の木に咲く花々を単体で見ていると、何故か私は女性を思い浮かべます。私の中で美しく咲く花と女性が近いイメージなのだと思います。

人であれば見た目の花を想像しているのではありません。私にとって女性の優しさ・思いやり・包容力・品性・立ち居振る舞い、人によってバランスは変わりますが、優しい方は美しい花に例えられ光ってみえます。

本当に花粉症でさえなければこの時期外でお弁当を持っていき、「花見でイッパイ(色々な意味です)」に何度も行くところです。


花が咲き誇る頃に夢中になっていれば、蝶が舞っているのを見かけました。


「花開きし時蝶きたり、蝶来たりしとき花開く」


ニワトリと卵でどちらが先かなんて問答は私には必要のないことです。


花も蝶も美しいものそのもので、どちらが先にこの世に生じてきたのかなんてものは美しいものを美しいと感じるのに答えなんて無粋なものです。

素直

 最近仕事に出ている家内も対人関係の問題で悩む日が続いています。
私は男で一応一家の大黒柱ですから、仕事をしていないと家族や自らを養うことができないですから、仕事に関しては家内より先輩となります。どのような職種であれ先に行く人つまりは経験者が語ることは無駄にならないと私は思います。

ただわからないことに対して、言われたことの意味が理解できていない時は言われたとおりにせず自らの思いや決断を優先すれば痛い思いをする確率はかなり高くなります。
失敗を避けたり、責任をおいたくないのであれば先に行く方の意見を意味は理解できなくても言われたとおりにすれば、少なくとも自らの責任はなくなり、その意見を言われた方が責任をおわなければいけません。つまりは

「(自らのくだらないものは全て捨て去)相手の言う通りにすれば問題はほとんど無くなります」

ただ私みたいに素直でないのであれば、痛い思いを素直ではない回数分するだけのことです。


そろそろ私の様に痛い思いを続けてばかりなんてことを他の誰かには思わないです。ただ言い訳として痛い思いは人を育てることもあります。同様な痛い思いをした人の気持ちを理解できることもあります。同様の人と一緒に泣いたり笑ったり怒ったり恨んだりできます。


この世はいつも移ろい変わりゆくもので、流れに逆らえば木端微塵になることもあります、善い流れをみつけその流れに乗り流されていけば問題はないという理想をいつも夢見ています。

理想と現実と素直


前者二つはともかく、若くても中頃の歳でも老いても、(善いこと・道理・目前の方に礼を失わないことに)素直であることが時に自らを守る最上のことだと思わされます。

足跡

 昨日までの仕事が割と慌ただしくしていたので、仕事も今日は落ち着いているかと思っていましたが、それは初めだけで昼が近づくにつれ慌ただしくなり、夕方にはさらに残業が終わるまで忙しい日で、いつも近くにいる方が風邪を引いたみたいですが最後まで頑張っていました。仕事を始めた時とは違って責任感を持つようになり、以前よりは芯がみえるような気がします。

私はそんな偉そうなことを言える身分ではありません。ただ私を棚に上げ。自らを比較の対象としなければ好き放題いえます。もっともそんなことを楽しめる方にだけ言うことにしています。冗談を冗談に取ってくれない人に冗談は私が冗談では済まされないから言えないのです。

いつも近くにいる方も私に冗談をよく言います。付き合いが長くなったから泣き言だっていうこともありますし、人前で言えないことも言うこともあります。もっともそれは私にとっても同じことなので、気心が知れた仲であることが有り難いです。

思ってもいない方や身近な方によくお世話になり優しくしてくれることが有り難いです。ただ何年経っても私という人間をみているのに観ずに接し続ける方もいて、その両者の違いには優しい方の優しさの高さ深さ広さ大きさの分だけどちらも応えます。

誰もが自分に優しくしてほしいだろうと思います。

誰もが自分を害って欲しくないと思います。

誰もが自分を理解して欲しいと思います。

誰もが自分のことを信じて欲しいと思います。

だからふれあう方に優しいという人だっています。自らにはそうしてほしいのに他人のことはお構いなしという人だっています。


どちらもその方の言動の継続によって、個性というか性根がどのようなものか、そのようなことを苦しいことも楽しいこともとんでもないときも年月を一緒に過ごせば、いくら普段に口で何を言っていようが、苦しいときやつらいとき悲しいときとんでもないときにその方の個性や性根を何度も何度もみれば、自らのことを自らで口で言うより周囲にはしっかりとしたその方の足跡が残っています。

善い行いの連続には善い足跡

あたりまえの行いの連続にはあたりまえの足跡

悪い行いの連続には悪い足跡

極めて悪い行いの連続には極悪な足跡


過去を消すケシゴムや悪い足跡を消せるものは売っているのは見たことがありません。当然善い足跡だって消せないものです。他人のことより問題は、いつだって私の今と過去の足跡です。

振り返ってみる私の足跡は、誰かと一緒に見て笑ってたどれるものでありたいです。

気を付けて

 少し離れたところまで友人を早朝より車で送っているとき、高い山々の頂に白く雪が降っていることを教えてくれて、徳島(平野部)で今の時期に積雪が見れるとは思っていませんでした。二日前の冷え込みの時に降ったのだろうと話し別れました。

行くもの、止まるもの、何かもとめるのに大きく広く移り変わる世界で動きつづけ見出すもの、騒動散乱する心を見つめ学びと知恵により静へと、送った帰りの車でそんなことを考えていました。

遥か高い山の頂きのさらにその上にある月をちょうどお互いが反対から頂を目指し登っているようなものかと、お互いの裾野にある登山道にたどり着きそこから登りだせば、互いの姿は確認することができず、声を出しても届かず、ただ頂の上に輝くあの美しい月はみえ、順調に互いが頂上付近へ近づくことができれば姿も声も何をみていたか目指していたかも言葉を交わすことなくとも理解できるのだろうと、今までもこれからもきっと互いが求める何かが同じものであれば年齢も生き方も性別も国もどれも違っていたとしても、瞬間的に同じ何かを理解しあえることが存在するのだろうと

相変わらずよくわからないのです。思うがままに言葉をつらね、その自らの言葉に知らないけれど確かに私である言葉がでてきて驚きます。

「確かに私はあの時、こういった」

再度確認するとすればそんな言葉です。普段ではない時にこそ知らないけれど確かに私の言葉や行動が強いもので、どうすればと考えようとしましたが、やはり「ただ学ぶべし」先人の言葉を頭から離さないように、もっと今まで遥か遠くに感じれた言葉が以前より身近なものと感じれるようになったものの、遠く感じる言葉の数は膨大です。ただ何かはわからないけれど身近なものから少しずつ進めていくことだけはおろそかにしてはならないと感じさせる日でした。

お久しぶり

 忙しい日となることが事前にわかっていた日ですから、あらかじめ準備していました。私一人ではどうにもならないことが多いですが、三人寄れば文殊の知恵ですから三人で補い合って笑って一日が過ぎていき、珍しい来客がありこれもまたいつもの流れですが、泊るところが決まっていないのならと家に誘って話を聞くというより、まあ聞くことを嫌う私の性格のせいかとめどなく話し続けている始末、明日はいつもより早く起きて彼を車に乗せた場所へ降ろし、彼の二日目の歩き遍路となるでしょう。

実を言うと彼のことは知り合ったときから苦手で、現在もなお苦手です。ただ以前より私もあの人も歳を取ったせいか、まあ私のところへご厄介になっているせいかもしれませんが、謙虚なところが目立ちました。彼に若い頃見えた無茶は今日見た感じでは感じるところはありませんでした。ただやはり苦手であり、過ごした時間の短さのせいと見苦しい言い訳をしておきます。

私が大好きな友人の友人ですから、そういえば学生時代の一つ上の先輩の友人でもありました。

どうして人の話をずっと聞くだけということができにくい性格なのかを話し終わって考えさせられました。困ったものです。ただ今日はお酒を飲むことはやめました。沢山一緒に食べて、私だけ一人で話して、ここを書き終えてお風呂に入ってから寝ることにします。

最近学びを進めようとしていることが、なにかしらの形になるというにはまだ学ぶ時間の継続と何かが必要となってくるでしょう。
誰かと何かのせいにして言い訳ばかりで逃げてしまう天才の私ですが、逃げながらもほんの少しずつでも学びを



何かは終わってみないと決まらないことばかりで、よくわからないことばかりです。

冷たい

 以前(学生の頃)、忙しくしている人が近くにいるのに、コタツで寝転びこっそりと現実逃避していました。暖をとりに来られた方が私に気づき、「向こうで誰それがばたばたして慌てていたよ」私を責めるでもなく教えてくれました。
身体は温まっているけれどこころが冷たい私は、「見ていないけれど、どうも彼のやり方だと初めにこういう感じでちょっと良くない方向へ行って、それが問題へと発展して、対応できなくてばたばたしてるんじゃない」そんなことをぼそっと呟いていました。教えてくれた方は「それだけ見ていなくてもわかっているなら、いってあげたら」頭でわかっていたとしても現実から逃避している私には、あたりまえは遠く、まして善いことや他人のことをなんて思いつかない冷たいことばかりでした。これは今でも家内からは、私が「冷たい」と言われたり言われなくても思われていることがあります。

今日は珍しく雨が降り続き、かなり冷え込む日で職場から見える咲きかけた桜の開花も止まっているかのようでした。

愚かで怠惰な現状をみつめることなくして、ただ目に映る方や近くの方の現状を切るような言葉は冷たく鋭く、気心が知れた方ならば「ウワーざっくり切りましたね」と教えてくれます。

冗談にとってくれれば、冷たくなく一緒に笑えますが、いかに冷静を装い無関係を装い目線をそらし、その状況を嘘を言わずに短い言葉でありのままから揚げ足を最後に一つとれるか

これが今日の「冷たい」という冗談の日でした。

無事に仕事が終わって家に帰ってみると上の子二人はいつものように仲良く遊んでいました。共通の趣味を持てばびっくりするほど仲良くしているので、家内と二人でそれをみて驚くこともあります。

六年離れて生まれた「けいくん」はその輪になかなか入らせてくれず一人でいますから、難しいことです。ただあの子ももうすぐ一年生ですから新しい出会いがあって、きっと今よりいろいろと楽しいことも増えてくるでしょう。

仕事中に友人から電話があって、古い友人が訪ねてくるようなことを言っており、近くにいる皆で会うのなら一緒に行くよと返事をして、割とその古い友人は以前から私は苦手で、今も苦手です。
何故苦手なのかわかりませんが、気が付けば言い訳して避けようとする自分がが出てくる確率が高いのでその方を苦手なのだといつも私は思います。特にその友人は私に危害を加えたことはないのですが、つい避けてしまいます。ちょっと私の中にあるくだらないものは捨て作ることもなく、何も考えずに会うつもりです。

明日の仕事も忙しい予定です、一つ一つ落ち着いてこなしていくことにします。

(さあ、一杯やっているけれど、さらに一杯やることにします)

攻めず

 少し困るくらいなら悩むことも少なく、それもまた簡単に忘れて次のことへ

「困窮する」例えてこの言葉となるのなら、それは悩むどころか怨みや怒りなども付随して、いくら困窮や怨み怒り悲しみを捨てたと思っても離れない、そんな言葉です。

普通に私はお給料をいただき仕事をしており、その中で一般に使われている意味ならばサラリーマンと呼ばれるものですから、上司の指示に従わなければいけません。ただ仕事で悪いことを行うことは、私もあの子達の親ですから避けなければいけません。もっともそれは誰もが同様です。

こちらに結婚して引っ越してから、それなりの月日が経ち、以前はよく自らの心中にある怨みや後悔、それは他人が私に擦り付けたわけでもなくいつだって自らで作り続ける負の思いなのですが、それによってよく潰れそうになりました。

今は以前よりましになったというか、すぐに一人で夜に泣くか、人前ならば笑って流せるようなことが増えました。結局私は苦しみというものが、その時によってとらえ方や感じ方処理の仕方が違っているのだと思います。それはきっとこれからも違って行くような気がします。

一日一日さらりと問題になる前にいろいろなことは流し、仕事をすすめ、何かをみつめていきたいです。

どうやら私の弱点である、困難から逃げ続けた何年間の技術が最近役に立っています。逃げながら仕事をこなしていけばさしあたって大きな問題が片付くまで、そんなスタンスで臨まなければ正面衝突すれば私が砕けそうな気配です。

お給料をいただいているのだから、全て放棄なんてできません。いただいている分はしっかりこなし、一日一日送っていくことにします。

 物事が上手くいけば喜んでくれる方が多いのですが、上手くいくことや周囲や相手より自分を優先させる方がいて、そんな方が権力があれば、そのような方と身近で関わりを避けることができない人ならば、不遇な目にあいたくないのであれば悪くしかなっていない事実や現状をありのままに伝える方も少ないです。当然私だって自らも家族も不遇な目にあう恐れがあるのであれば悪口でもなんでもないのですが、そのありのままを口にすることはためらいます。

私のことは私が気を付けていれば問題はなく、ただ知らない方であれば巻き込まれて慌てふためき奔走する人を何人も見れば、誰もが損害の少ない解決方法をやはり考えてしまいます。
どこまでいっても皆が気を付けたとしても当人が気を付けなければ、誰かがとんでもない目にあうことは避けれないことです。

今日もまたそれを考えさせられる日でした。




明日はお休みですので、変なことはすべて忘れ一杯早めからやって楽しく酔っぱらう私なのです。

悪気と知恵を使う

 現実に対して理想を思い描き、それに向けて努力し少しずつでも前に、不平不満だけこぼしてばかりで何もしないより、馬鹿にされても今後のことを考えるのなら誰かが少しでも前にと行動していることは無駄にはならないと私は思います。

問題を一人で抱えすぎることも問題ですが、時には問題が多い方がその人は大きく成長することがあります。潰れるか成長するか逃げるか、他にも選択肢はあるでしょうけれどどれかよりの答えをよくみます。

冷たく近くにいる人には「もっと背負え」と願います。

簡単に言うと何もせず揚げ足を取り続ける人になるより、問題を我がことにおきかえ少しずつでも改善しようと努力する人間であってほしいという私の偏りでありおしつけてきな思いのおしつけ、そうでなければ困っている方や頑張っている方などを何一つ理解できないのでは困るなんてまた偏りをおしつけがちです。

では私が背負えばいいのではと言われます。私が背負えば私が逃げるか成長するか勉強になるかのことです。私は違うものを考え違うことを行って、没頭し笑っているなんてかなり変わった態度をとります。

これは本当に面倒くさい私が出現しています。

今日は悪気がないことと、知恵を働かせることと、その人によって異なる使い方を空いた時間に例えて話して皆で笑いました。明日はもっと忙しくなるので、慎重に一日を無事に過ぎるように努めたいです。