何もない日

 仕事の休みは大抵平日で、その休日ががやってきて、いろいろあったことに家内が気を使って、今日はゆっくりするようにと配慮してくれていました。ある程度実際はある程度以上に、ゴロゴロというより布団より出ず、けれど落ち着かないので洗濯物を干して、掃除をして、家の中で片づけやすい場所から手を付け、外に回って少し片づけて、夕食の一品にスープを作り(これがまたちょっと薄味でした)いつの間にか夜になっていました。

静かに過ごす日になるだろうと思っていました、少しだけ心騒がすようなことがありましたが、有難いことに穏やかに過ぎていきました。
あれこれといって、悪くない人を悪く言うことには本当に腹が立つという私をみて、変わらないことを感じ、思い出してやはり腹を立てていました。これからは少し難しくなりそうです。

もうしないだろうといってしているのなら、何もかわっていないということです。近くの人にもっと現実と周囲とこれからをみつめるようにお伝えすることにします。
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 お酒を飲みすぎたり、調子にのりすぎたり、物事が上手くいっていると思い込みすぎれば人は饒舌になります。他に代表的なものに何かをごまかす時でさえ饒舌になる人もいます。その他にも良いことで饒舌になる時などありますが、いずれにしても私はよく身を滅ぼすようなことを頼まれてもないのにしやすい傾向にありますので、自らが気を付けなければいけませんなどと考えているそばからお酒を飲んでいればさっき思っていたことは月よりも遠い位置に存在するかのようです。

うっかりしなくても私はぼろが出ます。ぼろとは私の隠しているあるがままともいえ、あるがままの方がそれは楽です。大人になり仕事をしていれば、ぼろのままでは問題が続出するような私は、それなりの品性を借りてこねばいけない始末、本当に阿呆です。

人が楽しめないことを笑ってみたり、人が許せないことを許せる一面もあり、後で考えれば思い返して笑えることもあれば、情けなさに涙しか出ないこともあり、悔いにしかならず、それは時折ひかりをみることもあります。

人の目は光っていないもの光ってみることができる、これは目というより脳というより、受け取るこころが目に映るものや感じたものに光をみるといった方が私にはぴたりときます。

その光は一つではなく、優しさ、こころの美しさ・純粋さ・真摯であること、何物も貫いていく姿勢、あるがままであること、数え切れない種類でしょうが、光は光です。

光をみるというより、光に包まれている私そのものを見るといった感覚が適切で、私はその時自らをみることができず、不思議に思います。

ここからはもっと変な私の世界がはじまっていきます。そこに何かを指さしそこに光を一緒に見たいと願います。理想はおろかな私を指さすとそこに光と真理が相手にうつっていれば、愚かな私の存在も笑って時を過ごせしあわせになれます。
「私は私の愚を守ろう」そんなことを山頭火が言っていたことにあこがれてやまないです。

誰もがあたりまえなのでしょうが特に今日は

 いろんなことがあって、落ち着かない年となっているのは確かです。明日のことも明後日のことも確実なことは何もわからないことばかりなのは、予定・予想という言葉通りで、あたりまえのことなのに、明日のことを考えると不安です。

不安を忘れるかのように、少し遠くまでウォーキングへ行き、帰って少し疲れたことと時が一時間程すぎたことに気が付かされ、とりあえず紛らわすために、お酒を飲もうとしたら家内が何か察したのか
「飲みすぎないように」
「わかりました」
飲みすぎないように注意しようと思います。今年になっていろいろあって、ただ変わらぬことは誰かを信じるしかないということです。それは楽天的な信じるではないです。
たとえハッピーエンドにならなくても、自らが信じた人やものに最後までついていくという安易な考えに身を投じるだけのことです。沈むなら最後まで一緒に、笑うなら一緒に、泣くなら一緒に、恨むときも一緒に、ただ死ぬときは一緒にというのは自らにも相手にも望んではいけないことだし、望むことはないです。それはその時勝手にそれぞれにいつかはわからないけれど訪れるだけでしょう。

安易で愚かな私は、誰かに重荷を背負わせ、信じるという重荷を背負わせ、今宵はそれで眠ることにします。

今日もまた

 望んでいないことですが、内も外も台風が吹き荒れる日でした。
私は本当に計算ができず、言わなくていいところで後のことを考えず自らが正しいと信ずることについ気が付くより前に身を投じています。投じた後に私が気付いたとしても、それはやはり投じた後で、後で悔いても過去のことに属することがらになり、終わったことはどうしようもないことです。

愚直に真摯に、一つずつ、欲張らず、素直であってほしいと誰かに願う日となりました。

邪魔になるものは大切なもののために捨てこれから臨んでほしいそう願う日でもありました。

これからそれぞれ関係した方々には、自らの言動の一つ一つの意味を問われることが続くことになります。善いことをした人にはご褒美があって、普通の人には普通のことがあって、善いことの反対をした人には善いことの反対のご褒美がやってくるというだけのことです。

私はいつになったら、計算が上手にできるのか、そう自らに問う日でした。

感情的

 余裕がないせいか、焦りのせいか、私の中身がないせいといえばそれまでですが、感情的になればその感情に振り回され、しばらく落ち着くのに困った時間が必要な日でもありました。

私だけが私の感情に振り回されるのであれば、被害は最小限といいたいですが、近くにいる人もその感情に振り回されるかその余波を受けるか、いずれにしても困ったものというか、困った私としかなりません。

同じことを言うにしても、落ち着いて冷静に伝えることと、感情がほとばしりすぎて冷静さを失い伝えることでは随分印象も受け取り方もいろんなことが変わってくるでしょうし、感情的なことが全て悪いとは私は思っていません。時に感情的なことだって何より必要不可欠なものであるとも信じています。
でもまあ、私にはもっと冷静さが必要です。品性を損なわず、礼を失わず、嘘を言わず、本当のことを言いすぎず、言葉も長くも短くもなく、なんて理想をかいてみます。

現実は話は無駄にながいこともあり、言葉が少なすぎというかなくなっていたり、軽んじている態度や言葉が出て、気が付いたときにはその報いを私が受けて痛い思いをしています。

本当馬鹿だし愚か者です。

秋の気配ならぬ何かの

 休日でしたが、急用が入ったらしく、そのため休日だけれども充実していました。特にお金が入ってくるとかいうことではないのですが、いつもとかよくだときっと私は嫌になりますがたまには無給奉仕もいいものだと思いました。(たまにはですよ)

ここのところというか昨年末からずっと、さまざまなこと、いろいろありすぎて、その波もまた今まで生きてきた中でも割と高波ばかり続き、波に乗るどころか、溺れそうになり、必死にやり過ごそうとしたり、おさまることを待ってもまだおさまりそうもなく、長くなっています。

これだけの話になると、関わる人の判断が容易となる特異なことが起きています。善か悪かその間か、およそここまで三つに綺麗に素早く分かれるようなことは珍しいとしかいいようがないです。
知らずに判断がなされ、知って判断がなされ、そのことが続けば、その方がどのような方かわかりやすい問題、他にもわかりやすいことが幾つかでてきて、考えさせられます。

「何気ない日常が懐かしく有難い、早く何気ない日常へ戻りたい。」

そんな言葉が思い浮かび、またその回数が増えるような時を過ごしているとも言えます。じっとしていてもよくないので家内と一時間弱ほど健康のためとあれこれ考えすぎないように、ウォーキングへ行ってきました。

平静に保たねばいけないと思わなければいけない。しばらくそんなことの回数が増えそうな気配です。

 ある人をみて、考える生き物である人間であれば、そこに何かを考える。

ある人が嘘を言えば、それが本当のことなのか嘘であるか、そう考える。

真実ではなく嘘(虚言)であれば、考える人はなぜその人は嘘を言わなければいけないのか考える。

この世に生きる人たちが、人間的完成(覚り)へ向かうために自らがどうなってもいいから嘘を言っているのであれば、嘘も方便であって、その方の嘘は嘘とならない。

ただ、皆が善くなるではなく、自らだけが不正に利益を得ようとつまりは嘘をつくといった手段を択ばず、嘘をついているのであれば、何故そんな誰もが採用しないことを採用するのか考えさせられる。そこには明確な原因が精査すれば出てくるだろう。

善い行いばかりしていれば、嘘を言う必要もない。今までしてきた本当のことを言えばいい。皆が信じてくれるだろう。

皆を嘘を言って信じさせ、利益だけを自らが手放したくない。手段は択ばない。周囲は考えさせられる。


嘘には人間的完成(さとり)へその方を向かわせるためについていいことと、誰もが聞いて可愛らしく許せる嘘がある。

一人の社会に生きる人間として、大人として、ついてはいけない嘘は明確に存在している。


自分自身・自らをとりまく現実・自らが行い続けてきた誰にも消すことができない過去から目を背け、さらに嘘を言い続ける方がいる。

何もわかっていない理解できない愚か者ばかりではない、世に生きる人は理解している。


自らの結末は自らどのようにするのかを誰もがみている。

易と難

    九月十日 (日) 晴
 今日も有難いことに、仕事は忙しく、ふと今日は体育祭の長男と次男それを見物へ行く家内と「けいくん」がどうしているか気になりましたが、気にしたところで仕事ですから見に行かないので気にするのをやめ本業に専念、忙しければ時間はあっという間に過ぎ、いつの間にか夕方になって、最後もまたいろいろとやらなければいけないことがあったので、慌ただしく最後終わらせて帰りました。

 近くの人へ難しいことを言うことをやめ、易しいことを多くではなく一つだけ言うことを心掛ける日となりました。思えば難しいことを複数求めるにしても、易しいことを一つ求め、けれど結果は同じ事を求めている私をみて、それは自らに向けてどうなのか問われれば、本当に自分勝手な私です。

けれど誰かが何かを求めているのであれば、余計なお節介として考えれるだけのことは考えてみます。

自らが思う答えが出ないなんてことはよくあることで、誰かがこころから満足する答えが出せたかなんてそれもまた難しいこと。
何かにとらわれる前に、明日しなければいけない用事を忘れないように書き出し、家内が仕事から帰ってきて笑ってくれるようなくらいは何かしないとです。


もっと同じ言葉や行動に見えたとしても、過去の私とは違う同じ言葉と行動の私が出現できるようにと願います。

もう少し

 休日明けの仕事、良く寝て仕事に臨み、しっかりと昨日終え、満足しすぎてお酒を飲みすぎの上に夜更かししてしまい、今日もそれなりに忙しく、無事に仕事が終わりましたが、ちょっと何かいろいろと処理がおいつきません。
いつもなら会話を聞けばツッコムことができるのに、聞こえてくる話の処理が苦痛になり、返事どころではなく、その場から離れる私を見て、飲み過ぎと夜更かしを再度反省いたしました。

よって今日はお酒を飲まないのです!(何回これを繰り返せばよいのか・・・)

ここ最近は浄土、特に浄土真宗について知識を深めているところです。浄土に囲まれて育っていないので、私に浄土の教えは難解で、親鸞聖人の文・手紙の言葉がピタリとなかなかこず、ありあまる有難い教えに悩まされています。

気が付けば私は真言宗の近くでそこが土台となり、かつ真言宗という井戸から世界を眺めています。私にとって、とらわれからの脱却も難解の中の難解です。

どれもが美しく素晴らしく、とらわれなく自由自在であれば、難解・迷い・悩み・苦しみは以前より消失しますが、美しいものをみつければそこにとらわれ、醜悪なるものをみればそこから離れようと、些細なことで一喜一憂し、うろたえ、さらなる迷いが私は頼んでいないのに自らで迷いを作り続けています。

いつものように開き直ることにしています。

迷うときは迷って、悩むときは悩んで、泣きたいときにはよく泣いて、笑うときには笑って


本当に今日は体調からくることもありますが頭を悩ませることがある日でした。もう少し悩んでみることにします。

時に同一のものに

 何度考えても、思い返しても、意味が分からない行動に遭遇、といってもそれはもう昨年から遭遇しているのですが、同じなのですが様々に形が変わっていて、本質は同じでも表面は違ったものに見えがちなだけのことです。これだけの時間が経過して、それに振り回されれば、何というかよくないけれど本当天晴です。

誰かにもその反対を貫き、天晴であって欲しいと願う日でした。

子供達は明日から休日、けれど文化祭や体育祭など、家内はそのお弁当や見学などの準備で大変です。私は仕事ですから仕事を頑張って行うだけです。

また今日はよくお世話になる方の一人に、「ここは戦国の世か、監視や盗み聞き、間者みたいなのがおるな」なんて言われていました。戦国の世も現代も人間が生きているのなら、変わらないことはあるので致し方ないことでござりまする。

私が信じて大好きな仏教も、その辺りからびっくりするほどの進化はしていません。(政治に利用されたり・利権による宗派の別れなどを除く)
燈明と線香とお堂と仏像と僧侶と仏教を愛する方・信ずる方・好む方・なんとなく仏教と共にある方・その他いろいろありますが、それは本当に何でもいいです。近代テクノロジーを利用して仏教の素晴らしさを広めている方もいます。
仏教はさとりを求めていくもので、「さとり」とは簡単にいえば完成された人間を目指していくことです。寛容融和をモットーとしていますから、お神様も仏様も同じ家の中で祀り、クリスマスやハロウィンでさえ拒むことはないという寛容融和を現し、根底にあるものさえ外さなければ、さらに寛容・融和・異端はさらに広がっていきます。

「さとりを目指す」

「慈しみのこころから出る、慈しみあふれる言動」

「自らがこの世で大切なものであるから、我が身にひきくらべて近くの方を大切にする」

「時に正しいものでも問題となるなら捨て去り、悪いものならなおさら捨てる」

「両極端のことにとらわられず、その間にある道を縦横無尽に進んでいく」

「生老病死、怨み怒り悲しみ幸せ笑い、意の如くならざるもの(苦しみ)の泥の中で、その泥を養分として美しく生き(咲い)ていく」

根底は他にもいろいろありますが幾つかあげてみました。


どうしても反対のものをみると、その反対に位置するものが鮮明にみえてしまいます。
闇があって光があり、光があって闇がある。闇も光も同一のものを時に指すものであることが思い知らされます。

 外が雨だと、外へ出て何かということのやる気が私はなくなり、今日は動かないことばかり、つまりはごろごろ、平日の休日だと子供達も家内も家にいない時間が多く、家の中は静かで、一人を満喫というかよく寝ました。
何かにとらわれ何をしていいかともならず、思いのほかゆっくりと流れ、明日のために夜もしっかり寝ないと明日にこたえます。

 工事の音、雨の音、子供達のにぎやかな声、家内の存在する音、静かに休憩したいときにすべての音から遠ざかりたいと考えることがあって、賑やかな音に近づきたい考えることもあって、カミナリが聞こえ強い雨脚は強くなり、ことさら私は外に出たくないと思い、休んでいましたと長い言い訳を記します。

自らの続けてきた足跡がその報いとなっているのに、自らの言動を認めず、目をそらし逃げ誰かと何かのせいにすることをやめない。本人よりも近くにいる方達がその言動を見てきたのだから、いくら本人が違うといってもどうしようもないことです。
信じて欲しいなら、どうして他人へ優しく、欲を慎み、良いことをしなかったのか、そんな簡単なことを忘れるではなく、そこからも目を背け続けているようです。

自らの行動も、言ったことも、それを消せる消しゴムはないです。

ここまできて、受け取らなければどうなるのか、私にもよくわからないことばかりです。

天に

 自分自身が何を言っているか、その本質を自らが理解せずに発言していれば、その理解していないだけの報いがその本人へ向けられていくことになります。

嘘を言っていれば、嘘の数や大きさだけの報いを

悪いことをしていれば、その数と大きさだけの報いを

自らの権力を振りかざして弱者を黙らせる行為となれば、本人はその報いを受け取らなければいけません。


世に生きる大人はだれもがそのことを知っています。だから嘘も最低限しかつかず(犯罪になるようなことは慎み)、愚かな振る舞いは慎んでおられます。

それをわからずしてするとなれば、やはりその言動の報いは自らが責任をとれるからされるのでしょうから、これから覚悟をもってされていくのでしょう。

本当に天晴な日です。

皆でその日を笑って楽しむことにします。

(天に向かって唾を吐けば、誰に落ちてくるか自らに問うてみたらいいだけのことです)

一人

 外の地面が気のせいか濡れているように感じ、雨を久しぶりに感じ、まだ色々なことが何も変わっておらず、自らの言動の責任から目を背け、誰かと何かのせいにする何かが、その辺りの風と共にやってきて去りぬではなく去らないのです。

気が付かなくてもすでに長くなり、ただ決まっていることはこれからどちら側に属しても、中途半端な覚悟では手も口も出せないことです。それと関係ないといいたいですが、ここのところうまく眠ることができず、今日は早めに就寝して身体を休めようと思います。

大人になって、しがらみ・損得勘定・理解できない加担・どうにもならないことをどうしようもないことをもって出現させる言動の連続、どなたもが生きていればいろいろあるけれど、善悪概念の悪に近いことの連続をみせつけられれば、考えさせられるどころの話ではなく、さてこれから自分の子供たちへ本当のことをその方達は現実ありのまま伝えれるのか、そんなことも私にも子供たちがいますからつい考えさせられます。私は子供たちに説明のできないことはしないように気を付けていこうとしています。

 懲りなければ誰にもとめようのないところまで、行くところまで、そんな覚悟が最初から伝わってきていました。


私はただの傍観者(の一人)です。

収穫

 昨年、引っ越しが終わり、新しい場所で過ごすことになり、家内は猫の額ほどの家庭菜園をする家のそばに畑を手に入れました。この夏、ミニトマト、ピーマン(パプリカとも言っていたが)、パセリ、しそ、オクラ、枝豆などが無事に実って、家内も子供達も私も楽しめました。

いつの間にか虫達もやってきて、「けいくん」も兄達も私も好きなダンゴムシが大きくなり、少しずつ増えていく様子を見て、微笑んでいました。田舎で育った私は料理で使わなかった野菜の切れ端などを畑へいつも捨てにいっていました。

なんということでしょう

植えていなかった野菜がいつの間にか生えてきていました。家内へ

「きゅうりかな?、かぼぎゃかな?まあ雑草ってわけでもないし、邪魔になってるわけでもないからこのままにしとておこうか」

そういってその芽はどんどんツタが伸びて行きました。しばらくそれを見守っていると、黄色い花が咲き、やがて小さい実がなりました。

「かぼちゃかな?」

それは少しずつ大きくなって、家内と二人で何がなるのか楽しみにしていました。

やがてソフトボール位になったとき、だんだんと地面に接している面積が大きいせいか腐れて行きました。

「結局何かわからなかったね」

それからそれを抜くわけでもなく、しばらく気にすることをやめていました。家内が

「お父さん、あれは私が思うにメロンだと思うよ」

「本当?」

それから日に日に眺めていると、瓜のようなつるつるだったものに、編み目が少しずつ入って、きれいに店で売っているようなメロンになっていきました。

「いつ収穫するの」

毎日腐る前にそんなことを聞いていると、今日家内が

「今日収穫してみたら」

「けいくん」と次男が二人喜んで収穫して帰ってきました。よくみるとまだ少し早い感じでしたが、収穫してしまえばもうどうにもならないので、室内で少し様子をみることにします。

(食べれるといいんだけど)

ある優しさ

 予想しても、予想通りになることも少なく、悪くなる予想は予想通りなんて当たってもそれは凄いのかもしれないけど、悪いことは嬉しくないです。

何事もなく仕事も終わって、それなのに何事かあることが拭い去れない日々が続いています。

「心配するという優しさ」

「盗人にも三分の理」

悪いことを続けた人が自らの報いを受け取っていないのに、つらい思いをしているのではないかという優しさをみた日でした。

「優しいですね」

「私は優しくないよ・・・」

相手がどうであれ、相手の気持ちを汲み取ろうとする行為を見れば、私は優しいという傾向にあります。けれど罪は罪、悪いことの責任はその悪いことをした本人しかとれず、過去は誰にも変えようがないことです。



 辞退したことを悔やみ、前に出ることを嫌い、それなのにそのことを後悔することがある私をみて、進歩がなく情けない私がいて、それではいけないと、目前にあることに力を注ぐことにしています。

過ぎ去ったこと、それが悪いこと・普通のこと・善いこと、いずれにしてもとらわれすぎて何もしない私は本当によくないです。誰かに対して不平・不満をこぼしても、自らが何も成そうとしていないのであればそんなことを言えるはずもないことです。

夕方にも驚愕する光景を目にして、理解という言葉がこの世に無いのではないかとすら思えました。明日もまたできることをしっかりと行い、自分だけでなく周囲の方のこともおろそかにすることなく、一日一日をしっかりとしていきたいです。

その時その時、今日は出会ったことはないけれど、後輩といえば後輩にあたる方と偶然出会いました。

彼は道に迷って、自らの求めるもの・自らの理想、どのように生きていくべきか、本当に迷っていました。意地悪な私はいろんなことで彼に試すようなことを残して、けれど迷いながらも彼にはひたすら前に進んで、どのように自らがあるべきかをもがいて欲しいと、そのために「他人が問題ではない、自らが(何を成そうとするか成しているかこれから何を続けていくか)問題だ」なんて、自分ができていないのに、ドリンクとお菓子をお接待して別れました。

別れて、落ち着いてから、今日初めてであったけれど、「家に招いて、いろいろと話を聞くのもよかったか」なんて思いましたが、後の祭りです。

彼の道中安全を願います。

 解決にはまだほど遠く

けれど自らの行いを思い知らされる時というのは、世の生きる人に例外なく訪れる瞬間があります。

ある程度の時間の経過というのは、その訪れる瞬間の連続であって、自らが善い行いをしていったのであれば、称賛・尊敬・何か善いものを受け取る権利が発生して、その反対のことを成し続けた方は、悪いものの連続に報いが生じ、それをどれだけ自らが離れようとしても、己の影が自らに付き従うがごとく、離れようのないものです。

その時が来て、自らの報いに喜ぶか嘆くか

それはその方の生きてきた足跡がどのようなものであったかによります。

他者のことはともかく、私は私の報いを受けとらざるをえません。それがどのようなものであるか、それは私ではなく他者がわたしをみて(みつづけて)判断され、やがてその時に報いがくるだけのことです。

「そんなはずではなかった」

「こんなことなら、もっとやれることが・・・」

他者の現実はどうであれ


自らの現実と自らをみつめることから目を背けた結果や行為はどうしようもないものです。




本当に皮肉なことで、私は愚か者の中の愚か者の現状があって、嘆くことから避けれないことばかり


外は風が強く、星はきらめき、お月様はそんな私の事とは関係なく、美しく輝き宙に輝いていました。

何が

 立てていた予定通りとはいかず、用事を終わらそうと動いても終わらず、仕方なく先延ばしにして、出来なかったことは出来なかったと報告して、少し浮かない感じで他の用事をして、夕方になって有り難いお誘いを受け、お腹一杯皆食べれば何も言うこともなく、後はそれぞれがやらなければいけない日々の事を行い、歯を磨いて就寝するだけです。

先日から書き進めていた書き物を昨日終え、終わって満足よりこれからに一抹の不安をおぼえ、だからといってとりたてて何かもないので、身近にあるもの、目前にあるやらなければいけないことを一つ一つ確かにこなしていくしかないです。
私にとって、迷うのが悪いことではなく、悩むことが悪いことでもなく、ただ問題から目を背け続けたり、誰かと何かのせいにしたり、つまりは自分の為に今何かをやらなければいけないのに、何もしないことが悪いことです。

遊ぶこと、笑うこと、楽しむことなど一見役に立たないことに思えそうですが、悩み・迷い・逃げ続けるというその中にあって、大切なことを忘れないために、遊ぶ・笑う・楽しむことが私に必要です。もっとも自らの愚かさを嘆くことはもっと必要でそれがないと、成長もなくどうにもならないです。

その時に何が大切か

わからなくてもそれが何かの意味すら分からなくても、何の役に立つのかわからなくても、続けるしかないです。

理解する

 ここのところ真剣にする話を思い返してみると、気が付けば
「他者を完全に理解するということは難しいというより、自らのことですら理解できないことばかりであるのに他者であればなおさら理解することはできない」
なんて言った後に
「どうせ理解できないのならば、自らと何がどこまでどのように深さも幅も何もかもが違うのか、それを楽しめたら理解できないと悩むこともどこかへ行ってしまっていて『どうして理解してくれないのか』とか『理解しようとしないことが意味がわからない』とかで、理解しあえないことを対立やそれ以上の負の感情へ発展させるより、自らの理解と視点・深さ・幅・広さ・高さなどの違いに感心し、そう思えなければ、自らとの違いにどれだけ笑って楽しめるかのほうが随分楽になれます。」
なんてことを最近気が付けば話しているということを近くに伝えると、ふっとあることに気が付かされたのです。
(頼まれなくても一人で喋っていますからいつものように調子に乗って)
「私は理解したいと願い、けれど自らですら理解できないことが多いことに気が付き、他者であればなおさら難しいことが多いことに気が付き、けれど私はその誰かと一緒に楽しく痛いから、『理解できても楽しくいたい』『理解できなくても楽しくいたい』けれど、どれだけ願っても相手との理解の差が笑える人と、どうやっても笑えない人だって存在するから、私は嘆いているんだね・・・
私は理解よりも、「楽しく相手と過ごしていたい」そう言っていたんだね。

真剣に誰かに何かを伝えようとすると、その思いに呼応する方も存在し、回数が増えていけばそこに私の傾向や願い、現状の理解の程度、伝えたいこと、何を追い求めているかを自らが気が付いていないのに必死に伝えようとする私を今日はみるのです。

ただそれは愚かな私にぴったり寄り添い、勘違い・思い違い・現状の理解・学びの程度に従い、本当に恥ずかしくなることが多々あって、それを消せる消しゴムがあれば消したいし、できることならそれは忘れてほしいなんて思います。

時折そんなことを理解する方が現れ、揚げ足取るのでもなく、失敗を笑うのでもなく、ただ理解しているのでもないけれど、理解したいと努める方もおられ、理解よりもただ優しく接し続けられる方もおられ、恥ずかしいことよりも涙がでそうになるほど理解ということが身に染みてきます。

身勝手な私の夜は老けていくのです。

うどん

 昨晩お誘いいただいて、長男と二人でうどんをご馳走になりました。有り難いことです。思いのほかお腹一杯になって、前日の睡眠不足もあったのか、晩8時には寝てしまいました。
家内は実家へ次男と三男と帰省しており、今日の仕事も有り難いことに忙しく、一日はあっという間に過ぎ、息をするかのように笑う回数も何度もありました。

 帰って実家の片付けや運転をして他県から帰って来た家内は疲れていました。いつもなら休日だから晩御飯を作っている時間ですが少し横になって休んでいましたから

「うどんでも皆で食べに行く?」

自分で作ろうとしていましたが、それ以上疲れられても後に響くので、何度か言ってうどんを食べに行きました。昨日三人で悩んで頼まなかったメニューの品を長男と二人頼んで、大人の私は十分楽しめましたが、長男は辛いものは少しまだ苦手のようでした。

私としては、あのうどんは「あり」です。今度友人におすすめしてみようと思います。

明日から子供達は学校が始まるので、宿題が終わっていない子と明日テストがある子は勉強と宿題をそれぞれしています。いつものようにためすぎないように、今回は家内と二人で早めから言っていましたから、サザエさん一家におけるカツオくんみたいにならなくて済みました。

今度は自分主体でもう少し早く取り掛かってくれればなんて、上をのぞむ夜です。家内がお土産に植物セットが安く売っていたので買ってきてくれていました。暑いから早めに植えないと枯れてしまいそうです。