ここのところ気が付かなくても余裕がなく、注意する語気も強くなって、その分を取り返すかのように用事を思いついたことから済ませていくのですが、余裕もなく激しい口調で言われる人はたまったものではないです。
さらにそれをだれにごまかすでもなく、何か用事を手早くとりかかり、用事が片付き時が経てば、「用事が幾つか片付いたからよしとするか」と自らに言い訳するのです。

現実から目を背けるかのごとく、遠くをみて先のことを考えます。今おきていること、これからすぐおきようとしていること、それがどのようなものかわかるはずもなく、わかってそれにどれだけうろたえずにいれるか、平静を保っているようにみせかけることで背一杯で、何かから逃げている私をみます。

一つ一つ、明日から形にしていこうと思います。考えが頭に、その考えを明確に行動へつなげ、一つずつ小さくてもいいので確かにそこへ何かを、今はそう思います。

明日はそうであるような日にしたいです。
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中途半端は私のせい

 昨晩いつもより夜更かしをしすぎ、就寝したのが朝で起きたのも朝、わずかな睡眠時間でした。
そこからいつものように仕事、今日は行事があってそれが終わるまでバタバタしていたので、眠いとか、疲れたとかそんなことを考える間もなく、一日が終わっていき無事に明日へ引き継ぎをしました。今日のことは今日で明日のことは明日、明後日のことは明後日にすることにします。

一つのことに向かって、自らの得だけを考えることだけに最短最速な方、とりあえず自分のことよりその場と一緒にいる方達のことを考えて行う方、どちらも同じ結果へたどりつくのなら動機や目的はそこで問題となりにくいのですが、ただ自分を除く全てはどうなってもいい、自らがのみ良ければ、と周囲へしわよせを続けていくということは、どんな果実を実らせていくか。一般的に美味しそうな果実は皆欲しがり、とんでもない果実は実らせたくない上に誰がそれを欲するのか、とりあえず私はよい果実の反対にある果実は実らせたくありません。

雨の中末っ子をバイクで迎えに行って一緒に歩いて帰ってきて、長男と次男は学校の行事で楽しい所へ行けたようで、特に長男は大はしゃぎで興奮冷めやらぬ様子で、次男は無口ですが楽しかったことを伝えてくれました。相変わらず家内は職場における自らの分を弁えるということと、自らがどのようなものであり何を願い、問題のない立ち振る舞いをする自分自身が見つからず葛藤しています。

おぼろげながらいろいろなことがあると、誰かを通してその誰かは誰でもいいのですが、誰かと私の違いを少しずつ感じ、その回数・深さ・高さ・年数に比例して、違いが鮮明にもなり同じこともみつかり、理解できない・理解できる、望むこと望まないこと、自らにとって善い人悪い人普通の人やいろいろなできごとが揃うと、周囲もですが周りの方もですが、一番はいろんな時にどう願い何を思いどうする自分であるかを知っていくのです。



いろいろなものが中途半端なうえに支離滅裂ですが、睡眠時間がちっとも足らないのでもう寝ることにします


ヒミツ

 日中かなり暑いと感じるようになってきて、梅雨もまだですし、まして真夏でもないのでこのままの勢いで夏になるのではなんて少しだけ心配していました。

ただ夕方は風もあってやはり夏ではないから随分過ごしやすく、用もないのに外に出たいと思う前に外に出ています。家内や子供達が育てている花や野菜をみたり、目前にある人参畑は朝は人参があったのに、帰ってきたら全て人参は収穫され、いつもながら花と鳥と風と月を私は探して見つけることができれば安心しています。

女性は特にですが、男性でも心が美しいと私は思えばその方は一つの花として認識することがあります。女性は見た目がそれに比例しやすいですから言うことはないですけれど、男性が見た目ではなく言動やこころによって私に花開くようにみえるとき、私は負けず嫌いな私をそこにみます。

「私(に)も一つの美しい花を咲かせたい」

はじめの目標と変わっていますが、今日の気分でジャンル分けして目指すとすれば仏教詩人のような感じです。最初の目標は今日は内緒にしておきます。

大人には秘密がつきもので、普段全てをさらけ出しすぎていますから、今日のところは秘密にしておくのです。


枝葉に

 枝葉が繁茂しすぎてそこに目を奪われ、それを茂らせている枝や幹の存在が軽んじられ、幹だけでなく根の存在ですら感じることができなくなるようであれば、話にならないこともあります。

町内一斉清掃があって、私は今日仕事で参加できないから家内が参加してくれていましたが、地区内の公園の大きな木の枝や葉が事前に派手にそれでいて綺麗さっぱり切られていました。大きな枝と幹と、土中には根だけという状態です。
ちょっと切られて寂しくもありましたが、よくよく考えなくても年々生い茂り、縦にも横にも伸びて、木陰を作ってくれることは有り難いですが、茂りすぎて周囲を圧迫もしてということで切られたようです。それを末っ子と一緒にみて「派手に切られてるね」なんてお互い口にしながら散歩をしました。

大切なことが何か、私はよく生い茂る枝葉にみとれすぎたり、違うものに気を奪われ時間を無為に過ごしてしまうことがあります。
今日もまた笑わせることに夢中になっている私がいて、本質から遠ざかり願うことと違うところへいってしまったことを悔やんでいました。

一方だけに都合がよいことばかり、つまりは相手にだけ負担を強いる。そんなことばかりはもうあまり見たくないです。何やらよくわからないことがまたあって、考えてもそれはよくわからないので、気にしないで寝ることにします。

あれこれ

 よく有り難い指摘をいただき、それは今をもって私の中で輝き、知らずにその言葉が出て、私の身と心にしっかりと根差しているのであれば、同様に私から誰かへ、よくわからない何かとして伝わっていることがあります。それは伝わっていなくてもしょうがないことです。

特に気にしてもしょうがないことで急いだところでしょうがないのに、待って望みすぎる日でした。仕事が終わって落ち着かないので洗い物をしてみたり、掃除機をかけてみたり、お風呂へ入ってから表の道路の草むしりをしてみたり、それから晩御飯の支度を終えた家内と散歩がてら子供達の自転車を借りてサイクリング、この時期の各家の庭に植えられ咲く美しい花と緑と夕暮れの中、ゆっくりと移動して、田園風景の中を走り、近くのお寺の前を通り、家に戻りもう一度お風呂へ入って、ご飯をいただきました。

変わらず焦っても仕方がない上に待っていることが来たところで何もないのに、やはり待っている私がいて、しょうがないのでお酒を一杯ゆっくりやることにします。

いろいろなことを考えます。

考えてもわからないことを考えすぎたり、あれこれとこうではないかと考えてみたり、これだなんて思いつくことがあって笑ってみたり、誰かへその思いついたこと言えて善い共感しあえる時は喜びです。

できれば私の下手な考えが、誰かのしあわせになり、笑いになり、望みになり、達成する一助となり、理解している言葉となり、優しい言葉であり、何よりも代えがたいものでありたい。


そんな誰よりも欲張りなことを一杯やりながら願います。

今日

 一日無事に過ぎました。

特にどうするかをその時まで考えず、その時の雰囲気に任せるしかないと、何かを呼び水にしてみる何かだけを決めてみるとか、結局その何かもよくわからないままで、終わって上手くいっていれば、調子に乗って口が軽くなり、余計なことを言ってしまいます。

何を学びそれが何の役に立つのかと今していることを考えすぎれば、結局学ぶことをやめている私がいて、何もしない時間が長く続けば、何か他の役に立つことで些細なことでもいいから一つずつでもするか、元の目前の学ぶことを真剣に迷わず突き進めていればまだそちらの方がましだ。など後になり思うのに気分転換が進んでしょうがないなんて私がそこにいて困ってしまいます。
目前であっていることの前とそれと並行して行われている裏の顔を私は後から誰かに言われてはじめて気が付くことばかりで、気が付いた時には手遅れで、激しく痛い思いをしているとき、そんなことはよくあります。

もうちょっと(時にそれは誰かの為にもなるのかもしれないし)少なくとも私自身の為に小さなことから気を付けていきたいです。

明日は明日でしっかりと仕事をしていこうと思います。

随分と迷惑を

 昨晩久しぶりの友人たちとの集いは、酩酊するほどに飲んでしまい、途中から記憶がない上に、まあ家内が迎えに来てくれましたが、今日は偶然休日でしたが一日中、二日酔いでつらくてゴロゴロマッタリではなく、寝てばかりでした。

何かしないといけないと思いましたが、だるさと気持ち悪さの勢いが優勢勝ちとなって、つまりは最低限のことだけ、末っ子が帰ってくる時間となり、宿題や明日の準備を終わらせ、気分転換に自転車の練習にでました。
初めの頃とは大違いで、器用にまだ少し危なっかしいところもありますが、余裕をもって乗れています。ただ調子に乗りすぎている時は危ないことが多いです。
公園について、やっぱりしんどいので日陰になっているコンクリートのベンチに寝転び、見上げた空は青く青く突き抜けて、まだ酔っているのかその青が手に掴めそうな感覚で、ベンチはお日様に温められていてちょうど気持ちよく、周囲に咲くシロツメクサにミツバチがひたすら花粉や蜜を集める羽音を楽しみながらしばらくそこで寝ていました。

それにしても記憶が最後のほうないので友人たちに迷惑をかけてしまい、ごめんなさいとここへ謝っておきます。それといろいろなことがここのところ続いて、そのことにとらわれている私が出過ぎていました。

客観的に冷静に、仕事をこなしていきたいです。

前もって

 休日明けの仕事も特に問題もなく、少し残業があって末っ子を児童館へ迎えに行くのがいつもより遅くなりましたが、良い子で待ってくれていました。末っ子の二人の兄は中学の部活で遅くまで頑張って帰ってきました。家内も職場が私より遠いので残業とあいまって遅いことが多いです。

小学生になった「けいくん」にも兄二人は日々家事を手伝ってくれていますから、少しずつお手伝いをおぼえてもらっています。今日はお風呂掃除とお風呂をためることを一人で手伝ってくれました。一個ずつできることを増やし、周りに誰もいなくても最低限のことができるようになれば、家に誰もいないとしても泣き叫ばなくて済みます。(遊ぶこととお風呂はこれで問題がなくなりました。)

近くでの昨年から続くことが早く無事に終わればと願う日でした。

私は私のことを慢心せず、賢いと称するようなことは愚か者の私でありますから、つい人に良く思われたいなんていうことにとらわれおかしなことをしないように気を付けたいです。何故愚かな言動が気を抜かなくても出るのかと、相手の対応によって気がつかされます。本当に困った私です。明日は久しぶりに一年間同じところで過ごした仲間何人かで集います。阿呆なことは言っても問題ないですが、自慢・慢心・驕り昂るようなことは慎みたいです。もっともお酒が進めばそれもどうなるかなんて今からかなり心配です。

先に見ることはないですがここへ謝っておくことにします。

(酔っぱらっても酔っぱらっていなくても)失礼や嘘があれば大変申し訳のないことです。

よし、これできっと友人たちはできている人ですから、私のことを笑って許してくれるに違いありません。
(そうでないと私は困ります)

はじめてのピクニック(遠足)

 無事に「けいくん」は小学校初めての(動物園への)遠足が終わり、児童館へ迎えに行けば、300円のおやつが多くて食べれなかったことやいろんな動物を見れた楽しかったこと、大好きな母さんが作ってくれたお弁当が美味しかったことを笑顔で報告してくれました。
「けいちゃん、仕事から帰ってきたお母さんにそのことを言ってあげてね」
皮肉です。あの子は男のですから父よりお母さんが大好きです。私がその最初に迎えに行ったことによって初めての報告を聞いてしまい、人は何度も同じことを言うのを嫌う傾向にあります。
私が人一倍その傾向が強いですから私の血を色濃く受け継いでいれば猶更でしょう。
ですからあの子に家内がたずねていましたがあの子の邪魔にならないよう家内へあの子が行っていたことを二人が微笑むことができるようお伝えするのが私の責務です。
二人はそろって微笑んでいました。
家族が微笑んでいられることが増えることが私にとっての幸せです。

しあわせというの本当に矛盾しています。

幸せは相対的な言葉ですから、その反対は不幸せ、不幸と呼ばれるものが出現してくるということを暗示しています。
誰もが欲しくないものであるけれどしあわせを求めればそこが訪れる。

私達はこの世に生を受ければ死ぬことを免れない。そのことと同様のことです。
どこにいても避けようのないただの現実であり真理です。

私は欲張りだから家族や私にとってしあわせを必要以上に求めてしまいます。その高さ幅広さ深さの分だけ失えばそれが私へ必ず押し寄せてくるものであるのに私はそれを求めてやまないのです。

今日もまた私は私の身の程と愚かさを痛感してやまないのです。


「けいくん、遠足楽しめてよかったね」

本当に私は愚か者です・・・・

幾度でも

 平日に連休をいただいて少し心配もありましたが、忙しい日で来られる方も多く時間は矢のように過ぎていきしまう時間まで用事が続いて、連休の恩恵か仕事をするというあたりまえの有り難さを実感できる日でした。
職場において私だけがいるのであればマイペースで私の気分や進み具合に比例するだけですが、複数人いれば持ち場にいる方と連携がうまくいき、仕事もそれなりの成果が無ければ有り難いということも実感できにくいものです。

普段からのあたりまえのコミュニケーションの大切さを教えてくれています。私は欲張りですからもっともっと、そんなことを願います。それは皮肉なことです。よいことを求めすぎればその反動であたりまえ(普通状態)、悪いときはその差だけ堪えます。
そこに波なんてもとめず通常で素晴らしい状態が喜びでもなく感動でもなくあたりまえであれば理想だと考えます。理想ですからそんなことなんてないに等しいことですが、夢見てしまう私です。

私が読む仏教書に求める傾向と似ています。それなりの研究書でいて、インパクトがある(これは一つの私の魂をゆさぶるほどの衝撃をあたえてくれるものであること)、そのような書物を探しています。

何も知らない私であれば少しのもので感動や魂をゆさぶられたり、目が覚めたりといったことが頻繁に起こります。次第にそれは麻痺して、最初のくらいの衝撃であれば揺さぶられることに慣れ、さらなるインパクトを欲しています。


ただ一つ、いつ見ても何度見ても同様の衝撃が魂にはしる言葉は覚った方が残されていて、それを超えるものがあるのか疑いがないものもあります。

人間は慣れるということに慣れていく生き物だと考えることがあります。


ただ幾度みてもなれることがないものに、極めて善なるものと極めて悪なるものは、慣れることがないと実感しています。

おやつは

 新学期が始まって次第に新しい学校生活にも下の子供たち二人慣れてきているようです。
もうすぐ初めての遠足、小学校ではおやつ300円までと決められています。懐かしい私の子供時代も300円までで普段おやつなんて買ってくれないからその日が待ち遠しくてたまらなかったことを覚えています。

おやつを一緒に買いに行こうと誘ったのですが「けいくん」はどうやら一回自転車で先に出かけて買い物したので、彼はその辺りに欲が無くて(単に家が好きで外に必要以上に出かけない性格かもしれませんが)

「おとうさん好きなのかってきといて」

任されたので家内をつれて2・3用事もありましたから、家内に選んでもらいました。他所の子供達も同じように遠足300円分を買っている子が二人いて、それもまた懐かしく、ただお菓子を見ても昔ほど買いたいという欲求もなく、いろいろな意味で私が大人になってしまったことを少し寂しく感じました。ただ子供達をみると楽しそうで無邪気で可愛らしいから大人も悪くないです。

小さい子は私が分け隔てるようなところなどなく、見知らぬ私へ笑顔や挨拶、その純粋さに驚かされます。小さい子が神仏と同じように思われるところはその点にあると感じさせられます。

私の卑近な例でいうと、若くて美しくスタイルの良い方に私は必要以上に見ただけでやられてしまうけれど、ご年配のご婦人にはあまりやられません。小さい子たちは私のような区別がない言葉や態度で笑っているのをみると随分不出来で愚かな私を教えてくれています。

いずれ成長すれば私のように近くなることも増えてきます。幼子の特徴が失われていく。随分前に確か大学の頃、冬の地面から出る噴水を濡れることを厭わず、楽しそうによけたりくぐったり、そんなことをする子供達をみて涙を流していたことを思い出します。
「私は何故あのように真冬の噴水の水を楽しく笑って濡れることを一つも考えず遊ぶことを忘れてしまったのか」
しばらくあの子供達に釘付けになり、やはり噴水で遊ぶことなくそこから帰りました。

ただ私の子供達はまだ楽しさや純粋さを忘れていないことが多いです。子供達と過ごす楽しみの一つに過去の私をみれること、そんなことがどなたにもあるのだと考えます。

忘れているか、性別が違うからか、個性だからか、時代が変わっているからか、ただ変わらぬ大切なものをそこにみているのでしょう。

一杯やって明日に備えるとします。

誰の為でもなく(私を守るために)

 平日の休日ですので昨晩は調子に乗って夜更かしをいつものようにしてしまい、さらにはお酒も進みすぎて朝がつらいですが、仮名は仕事に行きます、子供達も学校へいきます。自らの本分を弁え実行しようとしているのに私だけだらけていれば示しがつきません。
眠い目をこすりつつ、寝ぼけた私は一つも頭が働きませんから昨晩就寝前に家内へ

「明日私が思いつくことで忘れないようにそこへ私がしなければいけないことを最低限は書いておいたので、明日絶対やっておかなければいけないことがあるならそこに書いて寝ていただければありがたい」

真面目な家内はかなり遠慮して最低限の用事だけ書いてくれていました。
眠い目をこすりつつ、まずは溜まっているゴミ出し、忘れれば次のゴミの日まで家内の大きな目が身に染みるので、忘れずにだして、その他公共機関へ出す書類や溜まっている振り込みなどをすませ、洗濯洗い物部屋の掃除を済ませ、小学一年になった「けいくん」が返ってきたら慣れない小学校の準備や宿題やるべきことを一緒にすませ、やることをやれば私は隙を見てごろごろします!

さて明日も休日なので明日は学校や部活・仕事で疲れて帰ってくる家族の為に帰って用事なく、自らの中身を養うための時間を増やすように最低限こなし、私はごろごろする予定です。

今日も夜更かししないように気を付けたいです。

やっぱり

 残業もありましたが無事に一日仕事を終えました。いろいろというか大変なことが身近にいる方の上に降りかかっている最中です。
私はそれをただみていて時に聞きたくないけれど聞いて、理解できないことを理解したくないけれど、近くにいるがためにそれに関りをもたなければいけなくなることもあります。

「(近くにいる人のことをおよそ他人事にして)私だけが生き残って害がなければ他の人はどうでもいい」

そのように非情に私は徹しきれません。道理がかなっていることはかなっている。おかしいことはおかしい。悪くないことは悪くない。相手が悪いということは相手が悪い。およそ自分に火の粉どころではないものがふりそそぐようなことでもついそんなことを言ってしまうことがあるから悩み事はなくなりません。
簡単な話だからです。私が同じように悩んで苦しんで答えを求めていれば、私は私を理解されたいと願うからです。私だけ他人どなたもが理解することが特別で、他の人はどうでもいいという事を私はあまり採用したくないです。

いつも答えは同じです。自らの言葉や過去から現在まで続けてきたことは自らがその報いを受け取るしかないのだから、善いことを受け取りたいのであれば善いことをできればすべきだと思います。

更なる問題はそう思っている私が善い言動をあまりしないから、善いことが少なくなって、阿呆になって笑うことばかりです。

さてこれからどういう結果になったとしても、やっぱり身近な方と笑って話せる私でありたいです。

ウォーキングというより山登り

 平日休日ばかりの私の出勤形態ですから、希望を述べてみました。

 「できればたまにで構わないので、家内や子供達と一緒に過ごせる土日祝日にお休みを頂けたら有り難いです。」

いつもは土日祝日は忙しい日で稼ぎ時ですから無理ですけれど、たまにならいいですよ、そんな理解があって今日は家内と子供達と一日休日を満喫できました。家内は昨晩遅くまで休日出勤の上お金にならない残業で疲れていましたから、遠出は疲れるのでやめて、近場のいつも行く神山温泉へ皆でランチを済ませ向かいました。

お腹一杯皆食べれました。

「もうお腹一杯なのでお出かけはやめて、帰って寝ようよ」

意外と家族は出かける気マンマンで雰囲気で却下され、日帰り温泉へ、そこは田舎で緑が美しく神と山と人と良質な温泉があるところです。むせかえるような萌える緑の匂い、誘われるように皆で整備された公園から山の頂上へ半時間ほどかかり登り、頂上に祀られている祠をお参りして、いい汗をかいて木漏れ日が美しい森の中を歩き、終わって流した汗を温泉場へ日々のくだらぬものと一緒に流してすっきりしたと家内が少ない言葉で教えてくれました。

気が付けば温泉に行く私ですから、子供達も大人になったら疲れたり何かあれば気分転換に誰かを連れて温泉へいくでしょう。一人より二人です。できれば大好きな友人とドライブついでにとか大好きな異性と行って欲しいと願います。

無事にあの子達が素敵な方と出会って温泉を楽しめる大人になって欲しいと欲張りなことを願う日でした。

 「理解してくれて嬉しい」
そんな瞬間だと思える時、その瞬間に気づく前から嬉しい反応をしている私を後から感じ、例えようのないその空気や相手の雰囲気、それは何とも言いにくいものです。

相手が言っていることを理解するにも、それも理解するということにいくつもの理解の仕方があることを気が付かされました。
相手が言うことがこちらが正確に理解できないけれど、その方は真剣に言葉を連ね伝え、その言葉ではなくその方の真剣な思いで理解できることもあり
「こちらは(言っていることは理解できにくいが)理解したよ」
いずれにせよどちらも全てではありませんが大切な何かを理解しているのは確かです。

「私はおかしなことをよく言います。勘違いもよくします。人の話をあまり聞かないことが多いです。冷たい所は他人より多いなんて思います。忘れることが多いし計算間違いもします。嘘だってつかないようになんて思うのにつくこともあります。賢くないのに見栄を張って賢いふりをしたり、偉くないのに偉そうなことをよくしています。とどめは怒りっぽいです。」

この言葉と私の持つ雰囲気や過去から現在へ続く行動を相手にみせると、理解される方と理解されない方とそのどちらでもない方またそれ以外の方がおられ、いずれにしても笑っています。(人によっては笑えない私もいます)

大切なことほど、感情的になりすぎず、落ち着いて、できれば後で何を言ったかはっきりと覚えているような私でありたいです。
短絡的な発言や態度はどこかへ投げ捨て気が付けば拾って大切に持っているなんてことは慎みたいです。





子供

 この季節にはいたるところで気にしていなくても鯉のぼりをよく見かけます。

家内が菖蒲を昨日購入してくれてあり、柏餅もありました。不惑が何年か過ぎようとしているのに、子供の日といえば私自身が嬉しくなります。家内や子供達にとって迷惑な大人になり切れていない私の為の日ではどうやらないようです。

快晴、もう日中は暑い位です。あの子達が今日元気に汗をかいて遊び元気なことは子供の日らしくていいです。少し転んで怪我をしてもそれは子供らしくていいです。勉強や宿題やお手伝いなどの存在を忘れるほど遊び呆けたとしてもそれは子供らしくていいことです。度を超えて遊びすぎて家内にかなり釘をさされたとしてもそれは子供らしくていいことです。
いっぱい遊んで美味しいものを食べることが楽しいねなんて言う表情をみせてくれるのは子供らしくていいことです。
私も子供と同じように楽しく一緒になんて思いますが、親であり父であり、みせるよりみるほうになっていることをあの子達によって再認識させられます。
菖蒲湯で菖蒲を頭に巻いたり、剣のようにもって遊んでみたり、はだかが似合うというのも子供らしくていいです。

ただ私の子供の頃よりお菓子スイーツの種類が増え、柏餅が最高に美味しいなんて言う子供は減っているように思います。私は柏餅をみると他人の分まで食べれもしないのにキープしなければいけないという子供の頃の思い出とともに食べようとします。

あの子達にとって子供の日、家内にとっての子供の日、私にとっての子供の日

皆元気ですから有り難いです。

家内と子供達

 残業も無事に終わって帰宅すれば、末っ子の「けいくん」がどうやら自転車で買い物へ家内と行っていたようです。補助輪がとれたとはいえ、危なっかしいので自動車がやはりよく通りますから、自転車で一人きりでのお出かけはまだ無理です。

家内の両親と兄弟の子供達(私の子供達からすればいとこ達)で一緒に泊まって、子供が5人も集まれば賑やかで大変だったようで、疲れていました。両親たちと別れて帰ってきても子供が家には三人ですから、ゆっくりまったりなんて母親はできにくいです。
家内と子供達の小競り合いが無くなれば、家内は楽になるでしょうけれど、それはそれで寂しいでしょうし、今は今でしあわせでいいんじゃないかと、買い物へ出かけた帰りに道端で子供二人が母親に抱き着いている姿を見かけ

「うちはその子供達より大きいけれどまだあんな感じだし、大変だし疲れるけど、やっぱり幸せだね。」

そう言って「私も残業だったからちょっと日々の書き物をしてくる」なんてことを言い訳にパソコンの前でまったり逃げています。

ここのところも(実は随分前から)「何か」はちっとも進んでおらず、ただ最近がとんでもなくいろいろなことがありすぎて大変だということを口実にして、ここが進歩がない言い訳として一杯やっています。

一日しか離れていませんでしたが、家内と子供達が随分離れていたように思え、家内はやはり近くにいると安心ですし、大好きです。もっとも家内はどうも私が感じ思う大好きとは違う愛情を持っているようです。やはり私の対応や言葉、一番大事なのは行動の継続と雰囲気のようです。

難しいことは考えず「大好きなんだからいいじゃない」それで一杯進めていくことにします。

言い訳

 昨晩いつもお世話になる方と長電話になって、お酒の入っていた私は身の程を忘れて思いつくがままのことを言って、自らを大きく伝えて、一晩経ってお酒が抜ければ、少し大きく言いすぎていたことを反省せざるをえません。

色んな事が周りでおこっていれば、それが耳に入ってくればやはりいろいろと考えざるを得ません。仕事が終わり家の前で「けいくん(三男坊)」が楽しそうに家内といました。どうやら二人は仲良く散歩に行っていたようで、一緒にお風呂に入って明日は自転車の練習をしようと話しました。

平日家内は仕事で時間をとられるので、土か日曜には時間をかけて沢山の料理をこしらえていることが多く、今日もまた色んな食材を使って、何品か大目に作っており、明日の用意もしているようです。

外は春というか次の季節へ、花の季節から葉の季節へ移り、抜かなければいけない草も沢山生えており、虫もよく見かけるようになりました。ここのところ、ぱっとせず私の中身は停滞しているような感じです。もうちょっと出来ることをしっかり行い、何でも笑って行いたいです。

今日は何やら知り合いは忙しく、無事に物事が進んでいるかが気になって集中できないと言い訳しておきます。

夜空のお月様

 ふと怠惰にふけり現実逃避の娯楽のみを凝視する過去の私のような私の子供達が眼前にあって、私は私の過去をみているようで自己嫌悪に陥り、子供達に八つ当たりした。

「貴方たちには私も遊ぶことが大好きだから、遊ぶことを容認し奨励している。ただ遊びたいがために『自らがなすべきことを成せ』そう耳にタコができるほど言い続けてきた。遊びたいのなら同時に自らの(中身を付ける)為に、目前の成すべきことを成せ、順番を問うているのではない、真剣な姿勢を父母に見せろ」

家内は家族全員でご飯を食べるように用意していましたが、怠惰にふける子供達に怒り心頭の私は、同じ食卓につける気分ではないので、明日は家内は仕事がお休みでゆっくりしたいでしょうから、皆の朝が楽になるようにという口実をもって

「明日の朝の食パンを買ってくる」

そう言い、同じ食卓から私は逃げました。

外に出て宵(初夜)であることに気づかされ、暗い中ふと曲がり角にさしかかり、田には水が張られ、そこに稲が植えられ、張られた水は鏡の如く星空と三日月をそこに映し私にそれを教えてくれていました。

水田に映る三日月、とある仏教者は水面に映る月、それも一つの真理でそれも月である、夜空に浮かぶ月だけが真理ではなく、水面に映る月もまた一つの真理である。

愚かな私は水田に映る三日月をみて、本物だと思う夜空に浮かぶ美しい三日月をやはり美しいものでこれこそ本物だとやはりおもってしまいます。

いつか、誰かの心の中にある月、水面に映る月、「他どれもそのどれもが真理である」絶大なる根拠をもって言い切れるわたしでありたいと、あの夜空の三日月を見て思う夜でした。


相変わらず私はただの愚か者です。

あえて

 四月は新しい門出を迎えた次男と三男の学校行事の目白押しで、家内も随分と職場に負担をかけたようで、仕事もたまり職場の方にも随分と迷惑をかけたことに気疲れしていましたが、子供達の成長や普段見えない姿を見れて帰ってそのことを子供達と話す家内は楽しそうでした。あの人はやはりあの子達の母で、冷たくきどって見せる私と随分違いあの人が行って良かったです。

のんびり屋な私なので、周囲が慌ただしければそれなりに動きますが、ゆっくりとした時間をゆっくりと周囲よりもさらにゆったりと時を過ごすことが好きです。
意地悪な言葉で言えば誰かが慌ただしくしていても、私は私の空気や私の時の流れの中で時を流していくことがあります。慌てる私も時にはいいですけれど、大抵何かを忘れ見失い正確な判断より遠くなってミスが大切な時間を削ってしまう傾向にあるから、出来るだけ私の時の流れをあえて作るのです。

単なるマイペースというか自分勝手というか、冷たいというか他人事というか、その辺に自分を置いておくことにします。

今日は特に何もなく私にとっては、ゆるやかな時の流れと青葉の生い茂るさまと、咲く花、活動的な虫達、若葉にみとれながら、何も考えずそれらを眺め、爆発的な成長をみせる筍とそれを見る方を見ていました。

明日は今日と違い忙しくなりそうです。

自分の時間を大切にしすぎないで、周囲と時間を合わせていくことにします。