自ら

自称
①自分から名乗ること。実体はともあれ当事者が自分でこうだと称すること 例「――天才」
➁自分で自分をほめること。自慢。広辞苑より抜粋


誰かが何かを言っていて、客観的に第三者や関係者がありのままをのべていれば、自称ではなく損得勘定にとらわれない他人が事実ありのままをのべていれば、信ずるに値することとしてとられることも多いでしょう。

何かをごまかすために、成したことをのべたとしても、それにより悪いことをしていいということにもならず、ましてそれによって私は関係ないとか、目前に立ちはだかる大きな複数の問題が消失するわけもないことです。

自らの言動の責任は、関係のないことを誰彼かまわず言い続けるより、相手から尋ねられていることを虚偽の報告ではなく、実際のことを全て報告するしかないことです。

過去・現実にあることと違うことを言えば嘘になり、嘘を本当のものにしようとすれば、更なる嘘か実際にそれを本当にするような無理の行いを生じて、悪循環の極みとしかいいようのない言動が出現します。

「自らの(貪)欲に素直なこと」と、「自らの純粋で真摯なこころに素直なこと」は、全くの別物ですが、時折間の言葉を省略して

「自ら(中略)に素直である」

と使われている言葉は、よくよくその方を見続けないと判断が難しいことがあります。

尊敬をされる対象の(皆が自然に敬意をはらっておられる)方は、普段の行いは人一倍気を付けなければ尊敬の念と実際の行いがもし悪ければ悪いほど、その差は恐ろしいことになります。

善人が悪いことを行わないのは、その差がどれだけのものかを自らがよく理解しているからこそ、自らを特別扱いもせず、他人事ともせず、自然にこころのおもむくままにされているだけのことです。

できた方ほど、自らが気がつかず変なことを言っていなかったか、悪いことをしていなかったかを近くの方へたずねられます。

誰よりも阿呆になって、自称する方もおられます。よっぽどでなければ相手がどうであるかはどなたもが簡単にわかることです。
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気を抜くというか

 「けいくん」がインフルエンザにかかり、偶然私の休日が月・火とありましたから、慌ててお休みいただいたりなんてことがなくてよかったです。明日からは家内が職場に言ってあの子をみてくれます。

長男坊は受験ですが家のことをよく手伝ってくれて、私も家内も子供達も本当に助かっています。あの子へ幼い頃から「遊ぶために、学びなさい(又はお手伝いをしなさい)」そう何度も行ってきましたが、それを理解して実践できているのは今のところ長男坊だけで、次男や三男はこれからです。
ちょっと明日休みだなんて気を抜くと、用事が終わってからお酒がすすみ、今日はお酒が抜けずによわりましたから、飲まないで明日の仕事へ備えることにします。

思いもよらぬことばかりがでてきて、自分を見失わないように

理解できないことが多すぎるからといって、取り乱さないように

仕事において、逃げるのではなくしっかりやるべきことをやるように

三日坊主にならないように、決めたことを忘れないように

今年の流行

 その時に芸能・歌・趣味・仕事・投資きっとそれは何でも、社会現象となることもありますが、今年の流行は何といっても記録にもはっきり出ているインフルエンザでしょう。
一昨日まで無事に子供達も私たちもかかることなく過ごしていました。一昨日から「けいくん(三男坊)」の調子が少しおかしいなと思っていましたが昨日に少し熱が出て、今朝も熱が出ていましたから病院に行って先生にみてもらうとインフルエンザB型と診断され、彼は今週は学校にはいけないと告げられました。帰ってすぐ隔離して、マスクと手洗いと消毒が家族に徹底されることになしました。

二日程たたないと誰にうつったかもわかりませんし、もらってきたものはもうしょうがないことです。彼も退屈な日々がしばらく続くから本でも一冊買ってあげようかと思います。いずれにしてもA型と違ってそんなに重症化していないようで、食欲もあって元気もあることが彼自身に深刻であることがわかりにくいから、明日以降も心配です。

その他にも心配事は幾つかあり、渦中というか本人がしっかりとやるしかないことが大抵ですから、私が問題の核心なら私がやればいいだけですから、私はそんなに甘くないです。

夜更かしせず、栄養をとってマスクと手洗いとうがいと家族皆きをつけることにします。
ここを見ている方も少ないでしょうが、人が多いところへ行くときにはマスクと手洗いや消毒など自己防衛にお気をつけてください。

うめ

 昨晩は1人で勝手にお酒が進み、気がつけば朝4時になっておりびっくり、ただ休日ならばごろごろとしていればいいのですが、今日は仕事で日曜ですから朝からパタパタと予定が入っていましたので、何も考えなくてよく、気がつけばいつもと同じように、というかいつもより真剣になっている自分がいました。

少しお昼の交代にいっていますが、道中の梅がほころんできて、もう他の梅も紅く咲いていそうな気配で私の顔もつい同じように笑顔になれました。

いつも教えてくれた同じことをこの時思い浮かべます。

「梅一輪 梅一輪程の あたたかさ」

本当その通りで、そう言って机に一輪挿しへ生けてある姿も一緒に浮かんできます。

善いことも、ふつうのことも、悪いことも、どれもが同じ人から出ていれば、それはその人へ帰り、後になればどれもが「おもいで」ただ冬から春になれば梅も桃も桜も咲いていきます。

まだ寒いですが、春が近づいています。空の青も春に変わって、木々も春の装いの準備がみてとれ、子供達も一学年上がって行く時期です。

わかっていない

 自らが何一つわかっていないけれど、実際に遠いところまで足を運び頼まれたことを調べる人と出会い、そのことがどんなことかを説明しようとしても、足を運ばれた方は頼まれただけなので説明しても言葉が寄り添わないことが早い段階でみてとれたので、言葉より「百聞は一見に如かず」ですから、現物をみていただき、ただそれでも何一つわかっていない方は全てを見ても「実際のあるものも」「説明の言葉」もピタッと寄り添わず、案内して説明した私が不安になりました。世の中こういうことがあるものだと、後になって一人で笑ってしまいました。ただ頼んだ方も頼まれた方も、双方が満足できていればなんて欲張りなことを思っていました。

 仕事をしながら、暇ができればあれこれ考え、思い願い求めることに際限なく手を伸ばすのではなく無限に思いを馳せます。言葉にするとかなりこれに矛盾というか愚かさがやはり出ていて、無限は限りなきことですから手を伸ばしても届かないことが決まっています。私はそこへ自らの無知(愚かさだけ)のある分だけ手を伸ばし続けるのです。
無駄だよとか、わかってないねとか、身の程を知ったほうがいいなどの言葉を向けられたとしても、私は何かに向かって手を伸ばそうと気が付けばしています。

本当その何かが何かが何年も書き続けても自分自身ですらわかっていません。

答えは決まっています。わかっていなくても、それが何の役に立つかわからなくても、無駄であっても、私は手を伸ばすのです。

 増谷文雄先生の本をお借りして、随分と圧倒されました。今までも先生の著作を何冊か読んでいますがどれも格調高く先生の上に先生の仏教があらわれているものばかりです。幾つかその中で引用して何かを出そうと思っていましたが、思いのほか家事に手間取って遅くなってしまいましたの明日以降にしようと思います。他の先生方の著作もいくつか進めていこうと思います。

金曜の夜は、家内も子供達もゆっくりできる時間ですので、あえて今日はゆっくりした時間をとっています。明日からまた自分のために、あらかじめなされるべき努力を子供達も私も致したいと願っています。今日はこの辺りで就寝することにします

チョコ

 遠出が終われば、いつもに戻って仕事です。昨日までの雪が嘘のように、今日は青空が美しく気温も高めで、お昼のお弁当は外のベンチで食べましたが寒くなく温かい程でした。

いろいろとあってあれこれと考え事を振り払うかの如く、目前のことへ没頭することを心掛け、気が付けば時の流れが早く感じて、ただいろいろなことが残っていることを再認識して一日が終わりました。

バレンタインデーですから、男性の私はもうオヤジなのでチョコを家族以外からもらうなんてことをあまり期待していません。家内からもらえればそれで充分です。
何日か前に

「今年はどんなチョコかったの」

「え、毎年チョコ上げても反応が薄いし、もういらないかと思って買ってない」

なんて答えが返ってきましたから

「いや、ほら照れくさくていつもそんなんだけど、実は毎年楽しみにしてるんだよ、100円の板チョコでもいいから欲しいんだけどな」

ちょっと疑っている目で見られましたが、しっかりと100円ではないチョコを買ってきてもらうことができました。我が家には男ばかりで、家族以外から子供達はもらえなかったですが、家族や親戚や知り合いから沢山チョコをもらえていましたから

「いっぱいもらえたからいいじゃない」

なんて言うと長男だけは

「本命からもらえないと意味ないじゃない」

なんて大人な台詞が返ってきました。

「じゃあさ、本命の子って誰」

その答えは今まで一回もかえってきたことがありません。来年からは高校生ですから、次の返事を聞くことが楽しみです。

御祝

 私が変わっているのは、両親が変わっているからではなく特に母親が群を抜いて変わっている人だからとしか思えません。
九州の最西地域にあって、当然田舎ですが彼女は私に「この世は広いことを教えたい」そんなことを言っていたことを覚えています。だからかアメリカへホームステイに行かせたり、中国へ弘法大師入唐求法の追体験の旅へ私が二つとも行きたいともそれがあること自体知らないけれど、勝手に申し込んでいました。

私を仏教の真っただ中へ放り込んだのも彼女です。

今回はその彼女の御祝ということで、招待を受けたので家内と一緒に遠出することにしました。久しぶりに会う父と母、特に父は随分老けていました。

私は母に似て、気が付いたころから自分勝手です。母と私と姉の三人は家族の中でも本当に自分本位で、自分勝手です。だからでしょうか、私は母と姉が苦手で近寄りたくないです。父と兄には何があってもなんて誰かに頼まれなくても思います。

忘れやすい私は、呼ばれてそこに参加していろんな方の顔をみて、母の御祝であることに気が付きました。特に両親に気が利いた事すら言わず、まともに話をせず、ただそこにいて私は自分勝手に仏教のことを話して笑っていただけです。

姉の旦那さん、つまりはお兄さんは私と相性がいいです。それも偶然ではないです。姉と私が似ているのだから相性が良くて当然だと思います。お兄さんは私の話をよく聞こうとして、いつもそれを楽しみにしてくれています。また一緒に美味しいお酒を飲みたいです。

両親が健在で会えたことは純粋によかったことですが、臆病で肝心な時に不器用な私は二人と話すことを避けていました。きっと私はずっと不器用なのではないかと思うほどでした。誰かそのことが分かってくれる人がいたかどうか・・・

私が私のことをわからないのだから、それを誰かに臨んで私を助けて手助けをしてほしいなんて欲張りな思いは望みすぎだと思います。

今度は子供達を連れて行こうと思います。

ゆき(ゆくことと降り積もるもの)

 久しぶりの遠出の計画は家内にお任せして、家内の言うとおりに用意をして一緒に出発をしました。当日私は休日ではなく忙しい日となり充実して、これからのことを考えさせられました。
それから帰って、お風呂に入り普段よりお腹一杯食べて、出かける用意をして出発しました。何も考えていなかった私でした。

家内と目的地へ到着して、自動車を置き出発してしばらくたってから、高速バスに乗っているのに下関から博多一帯の高速道路が積雪により通行不可であるけれど、このまま迎い、それによって一般道を通ることになるので最終目的地の到着時間が大幅に遅れると何度もアナウンスがありました。
家内も私も、夜間の高速バス就寝中の方も多いですから、私語も慎まねばいけませんので会話はせずとも二人の頭の中は
「このまま最終目的地へ到着できるのだろうか」そんなことを振り払うかのように到着までの深夜の時間を寝ることに没頭しました。いつの間にか寝ており気が付けば、山口県辺りに差し掛かっており、やはり高速道路はほとんど通行できずに関門海峡はトンネル(一般道)を通り、高速バスなのに一般道で博多を目指すと案内がありました。
家内の顔を見ませんでしたが、目的地までイスに深く座って身体を休めることが最善なので言葉を無くして寝ることに努めました。

博多に到着すると、久しぶりに再開する兄が来るまで迎えに来てくれていました。兄は変わらないです。自分のことをよく知っていませんが、私は彼のことを知っています。彼は自覚なく私にずっと優しい兄です。本当にそれが自覚がないことが私にとって一番の優しさです。

彼は私に言うのです。

「気が付けば遠くに行ってほとんどあっていないから」

彼は私にだから何もしていないしよくわからないと言っています。いつも会えば彼は私のことを気遣い優しいことをしてくれています。彼の無自覚さは他の欠点がいくつあろうとも私のとっては優しい兄です。

私の子供達は男の三人だから、違うけれど同じことを願います。

弟にとって、どんな形でもいいからお兄さんは優しかった。そういってくれるお兄さんであってほしい。私は彼らにいつもそう言い続けています。このことがわかる頃彼らがどうなっているのかは、今後の楽しみの一つです。

久しく

 今年は雪も平年より降ることが多く、いずれにしても今日も昼過ぎには雪がちらつき普段より寒いことを私だけでなく皆へ教えてくれていました。最近会うこともぐっと減りましたが、それでも優しさも理解も変わらず、ただ双方にとって時が流れていることそれもこれからも変わらないことです。
何かでお世話になり、私は一体何をお返しできるのか、そんなことを考えるより先に自らが学び続けていることについていつものように話し、理解を共有する時間を過ごし、それも同様です。

相変わらず善い人も変わりなく、普通の人も変わりなく、根性がかなりよくない人も今日も変わりなく、どこかだけ変わってほしいと願うのは私の図々しいところで、善い人・優しい人がそのままでないと私ではない人だって困ることもあります。欲は尽きない私です。

久しぶりに遠出をしないといけないので、今日も仕事は忙しい日でしたが、これから出かけてきます。



愚か

 以前何冊か山頭火の日記(本)を読んでおり、久しぶりにまだ読んでいない続きが出てきたので、目を通しています。35くらいまで私はお酒をほとんど飲んでいませんでした。最近は日々晩酌ということがあたりまえになっていて、以前の私を知っている人は驚きます。

山頭火は無類のお酒好きというより、アルコール依存症でもあり、酒に酔って何度も身を滅ぼしかけていますがそれでもやめることができません。彼の才能や人柄を認めたり、友人であったり、優しき方は彼が何度とんでもないことをやらかしても助け続けている事実を愚かな自らのふるまいと非凡な句の才能とともに記され、自らの愚かさについて考えさせられるものです。

新たにシリーズものに手を出す前に、増谷文雄先生の著作を一冊、変わらないどころか考えや答えを覆される、つまりはある種の目が覚めた感覚と高い次元にあるかのような文章には圧巻です。

勘違いと自惚れ、慢心、相手を軽んじ、自らが愚かであるのに、賢いなどと思いあがるような私がその辺りによく出現して、終わって更なる(自らの)愚かさを見せつけられ、成長のなさをみて悔いるのです。何度これを繰り返し、何度も怠惰にふけり、欲貪にまみれ、笑えないのに笑い、泣いて笑って、現実から目を背けることばかりです。そんな私がそこにあって、それをおおい隠すかの如く先生方の書物を読み進めています。

本当はパンセからの引用を載せながら今日は進めていこうと思っていましたが、引用する場所を見失う愚かさを記し今日は就寝することにします。



身勝手な

 昨日は長男の進学について学校で最終面談があり、先生とも笑って話が終わることができるほど、彼は中学三年間を頑張っていたようです。本番の試験はまだ一か月弱あり、普段通りなら何の問題もないことでしょう。

長男のことは問題はありませんが、いろいろとあってといっても私が誰に頼まれたのでもなく自分で遅くしたというか昨晩の食事は随分遅い時間で気が付けば日付も変わろうとしている時間になり、周囲の配慮にこたえられず少し迷惑をかけました。
子供達と家内は金曜は学校・仕事が明日からありませんので少しゆっくりしています。今宵は穏やかな空気のままにしておこうと、いろいろ思っても注意はやめて、私もいつもよりゆるやかに過ごすことに、家内にそんなことを言えば「いつもと同じじゃない」なんて顔をこちらへ向けられそうです。

比較について

何かと何かを自らの選択する範囲において共通することを並べ、共通しない同じものを並べ、違いを並べ、それによってそれ自体よりも違う何かをみようとする行為。

なんて私が思うままのことを書いてみて、偏った比較をしてみたり、比べてなんて頼まれてもいないのに比べてしまい、喜べるものではなくとんでもないものをも出現させてしまうことばかりというのが、大抵私の中にある比較です。

余計なものを付加させることなく、身勝手に決める結論に導くのでもなく、少し離れ冷静に両者をあるがままにみつめる。そんなことが人間は容易に可能で、そんな瞬間が欲しいです。

今頃

 一年以上経過して新たな事実がわかり、驚きながらも驚きを隠しました。氷山の一角と何事も表現されることは多いですが、本当にその通りだと納得しました。

「何か」とは「何か」

このことが善いこと、つまりは仏教であれば「覚り(菩提・涅槃・慈悲・空・善い方便)」であれば、善いことばかりが広さ・高さが計り知れないほど、つまりは無限にでてくることです。

「悪いこと」が主題となり、その「悪いこと」とは「何か」、これが悪いことであればあるほど、覚りと同様に、数えきれないおびただしいほど出現することもあります。

よって世間では教育として「悪いことはしてはいけません」そう小さい頃から幾度となく言われます。


大人になって人前で「平気で悪いことを私はしています」そんな言葉を近くで何人からも、恥もなく言われるところをみて、つい思ったことを私は口にしていました。

「大人(世間に生き、仕事をしている人)ならば、自分が悪いことをしているのなら胸を張って言えないものです。ましてその悪しき行為をどこでも皆悪いことをしているから私もしていますと恥ずかしげもなく人前で言う人が大人であるとは私は思いません。」

人が違うのに同じ言葉が出てきて、私はもううんざりしています。よって今後私はそんな答えは受け取らないことにしようと思います。私は子供達に「貴方のお父さんがこんな変なことを言っていたなんて言われたくないからです」と答えることにしています。

怒りの感情に任せて今日は書き連ねています。私は冷静ではないですから、冷静だとしてもミスも失言もあります。指摘されれば謝罪し、改めるべきところは改めていきます。

今頃新しい悪い事実がでてきて、私は相変わらず感情的に怒る日でした。




まっしろ

 朝起きれば家内が「お父さん、雪が沢山積もってるよ、気を付けて」バイクですから寒くないように出勤するように支度をして外に出れば、道路にも雪が珍しいほどに積もって、まだ雪が降っていました。
この辺りで道路に雪が積もるなんて年に一回あるかないかでしたが、今年は大寒波の影響か珍しく雪が降っています。今日は中学校から家内の携帯にメールで自主待機でも大丈夫とか、つまりは雪が積もって自転車での転倒による怪我や事故になることを恐れての連絡が来ているほどでした。普段降らない地域に積雪があれば自動車も自転車も混乱が生じるだけのことです。

原付でゆっくり職場へ、途中凍って危ないところもあり、「これはこけたら洒落にならないな」なんて思いながら慎重に運転して無事につきました。それからしばらくまだ雪が降り続いていたので心配しましたが、昼にはお日様が照り、日の当たるところはほとんど溶かしてくれました。仕事が終わって帰りの道路は何の心配もなく、普段通りに帰宅しました。

自らのとんでもない行動によって、普通にできない時に、普通にしている人は大物か何と形容していいかわからない人だとしか言えない日でした。問題のすり替え、現実逃避、過去と現実を正しく判断しない、反省・謝罪・改善などの言葉はどこにも見当たらない、その徹底ぶりを目の当たりにすれば言葉が消え失せてしまう光景なんてそれほどみたくないことです。

雪によって景色が真っ白で美しいことと、善いものが何一つ感じられることがなければ、それはある意味「まっしろ」です。冬が終われば春となるなんて、四季のある日本の良いたとえです。


ただ、世界は広く常夏もあり、常冬もあり、それは人間でも同様なことだってあるのではないかと、あの真っ白な雪景色をみて何かを思う日です。

またいつもの

 仕事のお休み、珍しくずっと寝ているわけでもなくそれなりの時間に起きて、洗濯を全部済ませ干して、家の中を片付け、買い物へ行き、末っ子の友達が遊びに来ていたので二人が仲良く時には口論になりながらも楽しく遊ぶことをみながら晩御飯を用意しました。

何やら家内がおでんを作ってほしいのか、そんな感じの冷蔵庫の中身で、不足で欲しいものだけ買って、おでんを鍋に二杯作り、子供達にたんと召し上がれ、仕事から帰ってきた家内にも同じように、平日の休みは主夫のようになっています。明日は仕事です。今年は冷え込む日が多く雪をよく見かけます。

私もそうですが人は欲があって、その欲はよいものばかりでもなく、欲が邪魔になるほど出すぎたり、欲によって身を焼かれるほどのものが生じたり、ほどほどでいいと思うときは問題ないです。
欲張りすぎていることに気づかないほど、あまりよくない欲を持ちすぎていることに慣れてしまえば恐ろしいことになることもあります。

いずれにしても、大人は最低限の自己管理をしなければいけませんから、何事もほどほどです。それはともかく、冬のおでんは温かくて最高です。

連日

 珍しく会話になって、相変わらずだったのにも関わらず、私は変わっていないことに怒っていたのか、変わらず言われることに怒っていたのか、いずれにしてもしばらく怒っていました。

いつもの如く聞いてくれる方がいて、本当に有難いことです。もし誰も聞いてくれなければ私はその辺りの空気に怒っていたり、やけになったり、ハチャメチャなことをしでかしたり、深酒をしてとんでもないことをしでかしたりしてしまうことも十分考えられます。
何気ない日常にこそ、何気ない会話にこそ、普段の付き合いの大切さの有難さがそれによって知らされ、何に対して感謝すべきか皮肉なこともあるものです。

皮肉なことに感謝して、有難いことに感謝して、いつもに感謝して、その感謝をしなければいけないのではなく、勝手に感謝せざるを得ないことを言動によって私に自然にしてくれる方に随分考えさせられます。悪くないのに良いこととは思いにくいが、大切なことには気づかされる。

明日はお休みをいただいていますから、それなりに用事をして気が付けば何もせず一日が終わりであったということのないように、早めに(理想は)寝ることにします。

二月三日(節分)

教育を次のように定義した。人の知恵は決して的はずれではない。「教育とは学校で学んだことをすべて忘れた後に残っているところのものである」 アインシュタイン (昭文社 世界金言名言辞典より)



普段思い描くことと、現実に起こる時の対処は随分変わります。冒頭の引用にあるように、学校で学んだものが全て役に立たないはず(的はずれで)はなく、忘れられないこと・何よりも大切に思えること・役に立つこともあります。
人が生きていれば、学ぶ場は限定されず、あらゆる場所で学びが存在することも事実です。それは生きた智慧とよばれる生活の知恵もあり、中には役に立たないことが役に立つ智慧というものもあり楽しいところです。

本日は節分、真言宗寺院では星祭り(星供養とも呼ばれます)が執り行われ、一年の無事(息災)を願います。一般的には節分には豆まきです。我が家も子供達に元気よく毎年豆をまいてもらっていますから今年もお願いすることにします。
豆をまいて、その後に豆をみんなで食べて、「意外と美味しいね」とか「食べ出したらとまらないね」とか、歳の数だけ食べれないとかいう年配の方もいるという日です。

日々忘れないようにと何かをここへ記しています。私はそのほとんどを忘れています。同じ人間が書いているのだから忘れれば同じことを書いてしまうことばかりです。


あの子(子供)達に、学校で習ったことを忘れた後に、どんなことを覚えていてそれが彼らの人生の中でどのようになるものか


あの子達とのこれからのこと(時間)をどのようなものにするかなんて考えさせられる文章でした。

いつもの

 よくあるパターンになり、お酒を一人で飲んでいると寝るタイミングを逃し、気が付けばお酒と趣味に没頭して、朝三時過ぎまで・・・。
朝から家内にその痛い現実を指摘され、早めに今日は就寝することにします。明日は節分、行事もありますから万全にしておかなければいけません

長男のお試しの難しい試験も無事合格しており、本番はまだ先ですがささやかにお祝いをして、あっという間に夜が更けました。昨晩の睡眠不足とお酒が残っているのか、ただの自業自得なのですが少し体もだるいです。
色々なことが日々あり、流せることと流せないことと、ふれれることと、ふれれないこと、普通でいられること、普通でいられないこと、うろたえはしませんでしたが、どれもが混在して困りました。明日はもう少しましな日であるように頑張ろうと思います。

読み進めたいと思う本にも進まず、今まで読みかけていたものを少し進めただけで、こちらもまた考えをあらためなければいけません。ここも何も進まないとさっぱりさっぱりです。

あれこれと思うことはありますが、もう寝ることにします。

波風

 朝から雨が降りバイクでの通勤が少しだけ気になりますが、幸いにもパラパラでしたからそれほど濡れずに済みました。二月に入り雪ではなく雨が降るということは割と冷え込みが厳しい寒い日ではありませんでした。そういってもやはり冬ですから外に出れば寒いことに変わりはないです。

私自身のことでいろいろとお手間をかけて、申し訳ないことです。ただ結果としては善いことになって本当に有難いことです。誰かの役に立つということは私には難しいことです。誰かが助けてくれるということはさらに有り難いです。

何年か読み続けている書物のシリーズがようやく今日終わりました。まだ他に読みかけている書物が何冊かありますがそれと並行してまた新たな書物を進めていこうと思います。読む前から楽しみです。何にするかは明日相談するとして、大体の目星はつけてあります。

今日は家内も昨日より落ち着いていて、安心しました。仕事で特に人間関係での悩みは難しいものですから、仏教的なものをおしつけれませんが、仏教の苦しみの超克は「現実を何ら変えることなく、ただ己のこころをおさめることによって、今までが苦しみであったことが苦しみとならない己とする」全てがそれで乗り切れるとは私は言いませんし、思いません。けれど現実が何も変わらなくても笑ったり苦しみが苦しみにならないことが増えれば、以前より随分笑うことができることは確かです。

周囲の波風に左右されやすい私ですが、一緒にかそれ以上に自らのこころが大きな波風がたち立っていられないよりか、周囲が波風だとしても自らの心が静まっていれば、以前とは違った対処や行動や考えが出てくることも確かです。

まあ、家内にそんな仏教おしをしても敬遠されそうなので、ほどほどにしています。




立っていられないのなら、座ったらいいのです。




それでもだめだと思うなら、這いつくばるか寝転ぶしか、先に逃げるかですか・・・

ここのとこ

 真面目な方とよくお会いして、こちらも最低でも同じかそれ以上に真面目にならなければとなり、自然と真剣な話となり場となり、終わってもいろいろと考えさせられます。

同一のものをみて、善とみるか悪とみるか

同一のものをみて、薬とみるか毒とみるか

同じ方と話して、自らが善いことをするか悪いことをするか



同じことへ接しても人が違えば極端に表現すれば、それほどの差が出現して周囲が楽となるか苦となるかも付随して来ることがあります。

しあわせ・善・よいことを願いすぎても現実との差が、自らが都合よく思い願う分以上に潰されそうになり、かといって反対をみれば周囲も世の中も自らですら暗黒に塗りこめてしまいそうになり、それは両極端の私が出現していることで、あるがままにあれば問題が無くなることを迷いゆがめ、逆さまにみて(転倒)いて、その分必要以上に悩み苦しみ迷う私がそこにいます。

そこにいて、その場で必死にタネをまこうと、もがいて何かをしようとして実際それが何になるのかと迷いながらもがくのです。悪いタネはどなたも蒔きたくないです。

けれど、迷い酒も飲んでいないのに酔っており、知恵を正しく使うことなく、物事を逆さまに見て、事実とは違うことを言えば自らが刈り取(受けと)らなければいけないものが出現して消えることがなく、さらにそれを否定してその事実とは違う嘘を言えば、雪を転がしていくかのように肥大化して、人間関係が冷たいどころではないものへ変わっていきます。

よいものは受け取りやすく、わるいものはどなたもが受け取りがたく、自分でもそうなのに関係ない方ならなおのことです。



私にとって、簡単なことが一番難しいと思う日です。