遅ればせながら

 家内はいつも私が一年の中で一番忙しい時期に誕生日があって、暑い上に仕事も一番忙しくて体力も削られやすい時に家内は心から私に祝ってほしいとその日を一年で一番楽しみに待っています。

鈍感な私は暑い・忙しい・明日のために早くやすみたいなんてことで、家内のそんな気持ちを気づかずよく怒っていました。最近ようやく賢くなった私は、忙しくても暑くても疲れていても早く休みたくても、その日は頑張ることにしています。ただプレゼント代わりにいつも家内が行きたい料理屋さんへ

「仕事が忙しい時期を外して誕生日の前後に行こう」

ここ何年かはそう必ず伝えています。

 偶然平日に私と家内の休みが重なり、なおかつ子供達は学校が始まり全員いない日でした。

「今日がチャンスだよ(だって子供達の食事のお金がかかりませんから)」

色々と調べて、あれこれとそこのお店はどうだこうだと言いながら

「お店に行って食べることも楽しいかもしれないけれど、こうやっていく前にあれこれ決めている時が一番楽しいのかもね」

「そうね」

家内は今日楽しそうにしていました。他にも家内の車を洗車したり、ちょっと普段しないメンテナンスをしたり、家の包丁を全部研いでみたり、誕生日が過ぎていますが、余裕のある時にできることを行う日となりました。
(勿論誕生日当日も、帰って家内へ誕生日用に晩御飯を作ってあげたので、今年は機嫌が悪いことはありませんでした)

夫というか旦那であることは、思いのほか大変なのですね。
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体調管理は自己責任

 季節外れの風邪は私に体調不良をまず訴えさせ、倦怠感、疲れ、元気を出そうとしても身体が言うことをきかないというのはつらいことだと痛感し、よく食べよく寝て、少しずつ元に戻ってきましたが、今度は鼻水とセキに代わり、幾分だるさはなくなってきましたが、風邪はひかないに限ります。

少し前に「けいくん」が鼻水をよく出していましたから、かなり彼が怪しいと勝手に犯人にしている私です。そうだとしても違ったとしても、自己責任ですから自らの管理不行き届きを露呈しているだけです。

あと二日仕事を頑張れば夏休みに突入できます。もうひと踏ん張り、今日もしっかり食べ、水分をよくとって、よく寝ることにします。暑い時期の風は体を冷やさないように布団を欠けば大汗が出るし、かといって冷やしすぎれば治りにくいし、その調節を誤ればさらに長引くか悪化するかなんてことになるので、少し温かいくらいで、当然治ってもまた罹らないように注意しましょう(特に私)。

目先のことも普通のことも、考えなければいけないことも、先のこともいろいろあるから、本当いっぱいいっぱいです。

家内と仲良くして、家内に癒されることにします。

家内に言われそうです。
(ちょっと自分が弱い時や心細い時だけ、私を利用して・・・)


本当身勝手な私が今日もここに(まだ生きて)います。

 月曜からの仕事で家内は随分と職場のことで悩んでいます。「あまりに合わないなら、無理せずやめていいんだよ」そう言いますが、真面目な性格ですから何とか頑張っているようです。
職場における対人関係は仕事が忙しいよりも、大問題になることもあるから家内が胸や頭やこころをいためることもわかるような気がします。

家内は仕事後終わって帰って子供達に晩御飯を作ってから、一緒に散歩にでかけました。自転車を走らせる人、ウォーキングへ行く人、いずれにしても気候がよいからふらりと外を歩く方も多いです。緑を見て、花を見て、風を感じて、ゆるやかに時が流れ、ただ私にしても家内にしても、それぞれ持ち場における問題などの悩みで迷い、とらわれて、自らをがんじがらめに見えない鎖でしばっているようです。

現状が何一つ変わらなくても、もっと自由で、楽しく、笑って仕事が出来る時間が今よりは、心も体も楽になるのに、無理せずにある程度で現状が自らの成長によって打破できればと願います。

大人になっていくことに楽しいことだけでは大人になれない、ある程度の何かは良くも悪くも必要となって、その泥から蓮が芽を出し、やがて花を咲かせることができるか。理想です。

どこでも泥はあって、綺麗なものもあって、欲張りに私のことは棚に上げて、家内には職場(それが今の職場でなくてもどこ)でも美しい花のようであってもらいたいと願っています。

月は仕事

 (自らが気づいていないために起こる自らの不出来なこと、つまりは)痛い言葉をしっかりと逃げることなく聞き、自らに自らの速度でよくなっていくように反映させていく人をみると、それは年齢や段階を問わず素晴らしく、それを私ができるかどうかという自らへ問いを向ければ逃げてしまいそうです。

最近家内と話せば、上手くいかないどころかあまり考えられないようなことを行う人の相談をしてきます。別にそれだけならいいです。家内は主婦として長く家の内で過ごしたがゆえに、比較の対象が私ということになって、相談というより私の痛い所の指摘をするきがないけれど、相手の悪い所を私も同じようなという例え方に必ずなって、論点がずれる上にその人と私は関係ないし、何やらとばっちりや矛先がこちらに向きそうになれば、「ああ、大切な用事を思い出した。やってこないと」なんて言ってそこから退避するのです。当然かなり家内は不満足です。

日々ここへ何かしら書き連ねることも退避する理由の一つになっていますから、何が功を奏するのかわかりません。さらに家内は満足いかないでしょう。

私自身いろいろあって子供を始めて授かったときに、仕事をクビになって、そこから新しい仕事をしながら何年かもがいていました。
現在も始めや中頃程ではありませんが、もがいています。
家内には仕事なんて
「楽しいことばかりではないよ(楽しいこともいっぱいあるけど)、根性が善い人もいるけど必ず悪い人がいるよ、皆それぞれあるよ」
家内には末っ子の「けいくん」(小学一年生)が随分こころを豊かにしてくれているでしょう。

「おかあさん、きょうはいっしょにねよう」

「おかあさん、だいすき」

「ぼくはさ、おかあさんといっしょがいいんだよね」

先程も一緒にお風呂に入って笑っていました。あの子は随分助けてくれています(本人はちっともそんなこと考えていませんが)。

いろいろある前に、早めに寝ようと思います。

・・の日

 一年の中で「・・の日」という行事が幾つかあります。

家庭によっては幾つどころか毎日が記念日ということもあるでしょう。その場合はどこかのパクリで「毎日がスペシャル」となってその方達はしあわせで何よりです。ただ現実問題としてスペシャルにしようとしたら割とお金がかかるのでコスパ高くいこうとしても、やっぱり現実的に金銭を圧迫します。この場合は後先を考えない人達かよっぽど余裕のある方達であれば何の問題もないです。

ここのところというか、私の家内は仕事を始めてからずっと「理解されるために生きている」そう違うことで訴えてくる家内は、慣れない仕事や職場と対人関係で、理解されていないと自らが思い込みすぎるきらいがあって、日々葛藤や矛盾と戦い疲弊しています。

よってここは声高らかに、家内の旦那である私は宣言するのです。

「今日は名実ともに、(私の母ではないが)あの子達つまりは三人の母である貴方は今日は割と普段しない贅沢なおかずを買っても許されるという特別な日です。

『さあ、この大型ショッピングモールにある食べたい普段憧れている好きな食材を食べきれないほどに選ぶがよい!』

ご遠慮なくどうぞ♪」

ここはですね家内つまりはあの子達にとっても、家内が笑っていればあの子達も心から笑えます。多少の出費は考えないことにしましょう(ただ普段花を贈っていますが、そこは予算的にご馳走に回す分割愛させていただくことの了解はえています)」

食べれないだけ買えば、残りは育ち盛りの子供達はご馳走にはめがないですし、食べきれないということはありませんが、ここはあの子達ように不足の無いようにそれなりなものを保険として購入しておきました。

食事が終わって、子供達と家内がお腹一杯になって、満たされていれば何よりです。
(当然計算高い私は彼らの満足できることを隠れ蓑にあの人達以上に満喫できるよう自らへの配慮を怠っていません!キリッ)


いろんなことがそれぞれの人の上にあります。


悪いことも悲しいこともうまくいかないことも怨みが骨髄までなんてことも、悲しみが世の中すべてを満たすほどのことも、ただそれでも私は阿保になって泣きながら笑っていたいです。

今日はあの人がわらっていればそれでいいです。

現実は

 見るもの触れるもの、時を同じく過ごす方、友人、家内(伴侶)、育ててくれた方々、今過ごす場所でお世話になっている方に気づかないことで相互に影響があって、わたしとは何かの答えに周囲にいた方いる方のことを話せば、それは私のことではなないけれど私を描く輪郭の一つのような世界があり、いろいろと考えさせられます。

長男を病院へ送り迎えで待つ時間、仕事が終わって家内を迎えに行き待つ時間、家内がどのような経緯で若かりし頃購入したのか、ゲーテの書物に読み耽って、時がたつことを忘れさせてくれるもので、家内が大好きですが、もっと好きになりました。たまには仏教関係の書物以外も良いものだと再認識させられ、本分であるものもしっかりと進めなければいけないということも同様です。家内がいつ購入していたのか夏目漱石の文庫版「坊ちゃん」も読み進めて、更なる現実逃避をしています。

知人はこれからしばらく続いていたことが佳境へ入るようで、取り巻く環境やその場所でこれから落ち着いていけるようできることを手伝いたいと思います。誰かを悪くしようとしているわけではなく、「ただその場所が善くなるように問題を片付けたい」その一心です。彼は自らのことですから一心不乱に最後まで取り組んだらいいです。私は違う見方をいろいろと考えていきたいです。

よく食べて、よく寝て、よく頑張ること

取り合えずよく飲んで(一杯やって)明日の仕事も頑張ることにします。

夜の散歩

 また怠け癖が出ていた家内とのウォーキングを再開しました。沢山着込んで、明日の燃えないゴミをもって、ゴミ捨てと会話と運動を兼ねた星空が綺麗な夜の下、マスクをした二人が歩くのです。家内が

「マスクした二人が歩いてたら不審がられないかしら」

「いや、最近ご年配の夫婦とかマスクして歩いてるし、普通じゃないかな」

「そう」

夜風はまだかなり冷たいけれど、家内は会話が弾んで楽しそうでした。もっとも職場にいつもいる方がいつも根性悪い言葉や態度ばかりしてくることに日々頭を痛めているようです。

「何故あんなことばかりしてくるのかしら」

「根性悪は根性悪いことを続けるから、根性悪っていうんだよ、やめたら根性悪って言われないじゃない、あの人達はそれを言われ続けるために命をかけてるとこがあるから、仕方ないよ」

「やっぱり意味わからないし」

「それの意味が分かるし共感できるって言われる方が私は困るので、それはずっと意味が分からないという答えが貴方からでてきてくれないと、私が困るしねえ」

「意味は分かるけれどやっぱり(あの人は私にとって)意味が分からない」

答えは決まってることを自らが心の底から理解できたとき、相手も自らもそれでいいと思うものだけれど、その答えに自らがたどり着くまでに、いろいろなことが必要となるものだと私は思います。

例えばそれが怨み・苦しみ・忍耐・辛い時間の長さ・良い人との出会いや別れ・普通の時間・本当にいろんなことが必要です。


まあ私は夜空に浮かぶ綺麗な星を見て、美しいと思えたので今は問題ないなんて考えていました。


「とらわれている人は大切なことをみることができない」




本当それはいろんなことに当てはまり、私の過去なんてそれによって大切なことが目前や自らの上にあったのに私だけが気づいていないそのもの、そんな時が長すぎたように思う夜です。

セールスポイント

 家の中が引っ越しの影響で半分くらいまだ無精で片付いていないことやインフルエンザにかかって寝こんだり怠惰にふけりやすい私の影響で、家内と一緒にウォーキングもしばらくごぶさたしています。

今日は家内の冬にウォーキングしても寒くないように、あの「着て動くとワッシュワッシュいうジャージの強化版」を購入にでかけました。
ワッシュワッシュいうものは、皆の予想通り「ウインドブレーカー」と呼ばれるものです。私が高校時代友人の確かマスモト君の知り合いが

「ウインドブレーカーって皆いってるのにさ、可愛らしい部活していた女の子が、監督が『ウインドブレーカを明日は持ってくるように』って言ったら『あのワッシュワッシュっていうやつですね』って聞いてて皆だいばくしょうしたんだよね」

それから私の中では「ワッシュワッシュいうものだよね」に呼称が変わっています。

近くの大型ショッピングモールのスポーツ用品店の途中に家内が

「ここのお店ちょっと見ていい」

「いいよ」

小規模です。何が見たいのかわかりませんがセーターのような変わった柄の胸の中心に、ゲゲゲの鬼太郎のお父さん「目玉のおやじ」が目に飛び込んできました。見たところそれ以上インパクトあるものやお洒落なものは見当たらないので家内へその目玉のオヤジの服を指さして

「なるほど、貴方が見たかったこのお店の目玉商品は、目玉おやじのこれだね!」

何故か家内はそれから「目玉」を思い出してはしばらく大笑いしていました。

「私の近くにいる人にさっきのいったら、冷たい目でしばらく見つめられそうだけど、貴方ずっと大笑いしてるね、笑えるならそれにこしたことないけど」

「冷たい目で見ることが多いなら、貴方と結婚していないわよ(そういって目玉を思い出してまた笑っていました)」


なるほど好みというのは本当にわからないものです。

予定外

 職場の出勤の関係上、思ってもいなかったことですが休日をいただき気分的にゆっくりさせていただくことができました。両親も私も一年ずつ歳をとっています。あたりまえですが家内も子供達もそうですし、家内の両親もそれは同様です。

引っ越しで使わなくなった箪笥と古いエアコンを実家に欲しいと言われていたので思いがけない休日に家内と車へ乗せて新年の挨拶
にドライブもかねて四国から岡山まで日帰りしてきました。
職場で知り合う方で老齢の方になってくると膝に水がたまったり腰痛に悩まされたり耳が遠くなったり目も薄くなったり、髪だって白くなり、薄くなってくることを教えてくれることは多いです。私の両親もそうですし、私も少しずつ黒い中に白いものが混じってきつつあります。

「歳はとりたくないねえ」

まあ私が何度そういったとしても生きている限り、歳をとるということは避けれないことですから、自分を棚に上げ他人を見ていろいろと自分これからのことを考えることがあります。

歳はともかく、家内と今も仲良く過ごせることが有り難いです。



正月ですから難しいことは考えず、家内と一杯やることにします。

いってらっしゃい

 幼稚園・小学校で幾つかの重症にはならないけれど感染する病が流行って、お休みの子が目立っています。先日末っ子の「けいくん」も軽い嘔吐をして、偶然金曜で日曜にはすっかり元気で家内と私双方の会社に迷惑を掛けず助かりました。
引っ越しをしてから環境が変わり色々なことを進めながら仕事をして少し疲れたところに家内も流行りの何かをもらってしまい仕事を休まなければいけないことになって、当然こちらに家事と三人の世話がもれなく回ってきます。ある程度お手伝いを上の子二人がしてくれるようになっているので、随分楽になりました。

性格上自分はともかく、目前でだらだらしていたりすれば割と注意します。

「だらだらしていると、遊ぶ時間が減るよ(あたしゃグズは嫌いだよ、という勢いの感じで言います)」

言われる方が嫌でしょうけれど、言わなければ言わないでずっとだらだらしているので、だらだらしている限り注意します。きっと私のそんな言葉を大人になって「お父さんのあのせかすのが嫌だったとか、せかされたり先に言われるから嫌でわざとしなかった」とかどこかで言うことでしょう。

家内が仕事を久しぶりに初めて出張で、体調のこともありますがいろいろと準備をしていました。少しずつ仕事を身に着けて、いろいろあったとしても、根性悪な人に出会ってもうろたえることなく、善い人に出会えて涙を流してほしいし、今までとは違う何かと出会って他人や周囲を通して自らこそが自らを深く知って欲しいと願っています。

皮肉なことに根性悪な人がずっといたり、困難なことが多いほど自らを深く知ることになって喜べるのは何回もいうように本当に皮肉なことで悪いことに会うことは誰もが望まないことです。

朝早くから東京へ飛行機で行くとか言っていました。

「いってらしゃい、仕事しっかりしてできるだけ楽しんできてね」

酔っぱらいはもう少し夜更かしをすることにします。

変わり続ける相変わらず

十一月下旬には結婚記念日があって、いつもささやかながら家族皆でご馳走を食べお祝いをしています。ご馳走のための口実に子供達もいつも大歓迎で喜んでくれます。

明日までにやらなければいけない段取りも忘れ明日へやらなければいけないことは預けて、行事や引っ越しで遅れましたが家内と二人で子供が寝てから乾杯します。
結婚して15年、知り合ってからだともう少し年数が増えます。これからも一緒にいれば人生の半分になって、お互いが白い髪になるまで一緒にいることができれば、大半となるでしょう。

振り返ってみてもよく些細なことで口論をしました。理由はその時は何よりも許せないと思っていましたが、今になればほんの些細なことで、今ならいくらでも回避やスルーできることで、結局それは後出しジャンケンのようなもので、積み重なるものがあるからこそ流せる幅が出来ただけなのがわかります。

けれど私はまた些細なことで口論をすると思います。だからと言って彼女が嫌いになることではなく、やはり好きだからこそ好きになりたいからと自らをごまかすように自らの思いを角のある痛い言葉を感情に任せて言ってしまうでしょう。

「好きなら、そんな言い方をする必要はないでしょう」

何て言われそうです。

もう少し(本当はずっと)私に付き合ってもらうことにします。


乾杯♪

二人でグラスを鳴らすのです。

降り続く

 今年は我が家では用事が例年より多く、いつもよりバタバタしています。家内が働き出したこともそれに拍車をかけているので、不慣れな仕事が終わって家内の顔が疲れていることが多いです。
あの子達三人に夕食を出し、二人で気分転換もかねて用事のためにお出かけ、少し落ち着いたようです。帰って末っ子を寝かしつけそれからは日課のウォーキングへ、ただ暗い外へ出れば雨も降り空気がかなり湿っていました。

今日は風が無く傘をさし、話しながら歩くことができ、とりとめもない話やちょっと誰かに聞かれたら困る話、職場での愚痴、これから自らがどうあるべきかなんてことを話していれば、時間も距離も早く進んでいきます。

「あなたと私といろいろありすぎるけれど、仲良すぎるんだから(それだけでも)いいんじゃない。」

いろいろあって悩み・困り・理解できないと嘆き・困ったことをする人の対処に悪戦苦闘する家内へ、何度も告げました。

「これからも何があっても、仲睦まじければそれでいいと思うよ」

あの人へ告げているようで、やはり自分勝手な私は自らへそう言い聞かせているだけのことです。ただ私はそうありたいだけです。


「長男と次男と三男とあの人と私」

身勝手な次男坊として生まれた私は、好き勝手に実家から遠く離れ暮らしています。もう少しあの子達にも時間を割いていこうと思います。



あるき

 ここのところ動くことがそんなに好きではないですが、仕事が終わって家内とウォーキングへ太陽が沈み暗くなりかけたらでかけます。動かない私からどんどん体力が無くなっているので、ここはあまり望んでいないけれど体力を維持するために少しずつ歩く距離を伸ばし、時には子供達の前では言えない家内が処理できない大人の嫌な話などを聞き、職種は違うけれど仕事は私のほうが随分前からしていますから対人関係・仕事の進め方・私なりの人としての在り方、そんなことを話しながら歩きます。
今日は台風の影響か随分未明から朝まで雨がひどく、昼過ぎてようやく雨もあがり、先ほどの歩いてきた時には風が強く、いつもなら汗が流れるところが、少しも汗をかかないくらいに風が割と強く吹き抜け、もう少し気温が下がってこんなに風が吹けばかなり服を着こんでいかないとと、今後のウォーキング予定の計画を立てながら強い風の日が終わろうとしています。

明日はこれまた運がよく、子供たちは学校が始まって半日いません。家内は私と平日に久しぶりに休日があうので喜んでいました。あの人は真面目で不器用で割と堅く、本当正反対なところが多いです。ウォーキングもですが、ランチの約束を家内としました。

最近は何やらバタバタとしていて、ここもさっぱりです。やっぱりさっぱりな時はスポーツから迎えてきて、一杯やるのです。

真夏の花火

 上手を言われることは何かしらのもどかしさでもあり、時には我を失い見誤ることもあり、過信したり、本質を見誤り、人を見る目を失い、すべて悪いことになるとは思いませんが、自らを正しく見つめることから遠ざかることがあります。

信じることが無ければ人として人らしさを失うことばかり、見誤ることの多い私はおかしいことを正しいと思い込みよく腹を立てます。終わって考えればうかつなことが目立ちます。
難しいことです。後出しジャンケンのようにも思え、ただまあ騙されてもいいかと開き直り思いを持ちすぎなければ意外とうまくいくことがあります。

隣の町の花火の音がパンパンと夜の空に響いていました。二回から花火をみて(今日は実家に帰省している)家内のことを考えていました。あの人は花火が好きです。あの人と花火が好きなのだと、その時はじける火花が夜の空に消えていくのをみて頭によぎりました。子供達も夜空の花火を喜ぶだろう。

あの人の悪いところも普通のところも良いところもすべて含めて、ずっと好きでありたいです。

感情的でころころと違うことを言い、良いことをしたいと約束をするのにその約束を忘れ、準備を怠るのに調子に乗りすぎる愚かな私を好きでいてくれるあの人に感謝しています。

花火は幼少の頃の思い出やあの人との思いを、きらめくようにパンっと私の頭の中に花開いてくれるように感じます。
すぐに消えてもいいのです。また花火が上がれば、欲が満たされてはまた同じ欲が生じその連続が一つの永遠と思えるような短い時間でもそれが心地よいです。


私は相変わらず欲張りで愚かなままです。

たまに

 久しぶりに家内とお互いの服を買いに出かけました。子供たちが三人生まれてから一日一日大きくなる子供達の服は必要不可欠であって、私と家内は太らない限り(痩せすぎない限り)大人だから今まで買った服があるから急いで必要なことなんてこともなく、必要以上のつまりは身の丈以上のおしゃれや見栄を張らなければ、服を次々買うことはないです。
ただ仕事で使う服はやはり仕事をしていればどんどんくたびれ色も褪せ、家内が仕事を初めたことも主婦であれば質素にしていれば問題ないことですが、私服が仕事着となればやはりあの子達の母親でまだ若い女性ですから必要以上はいりませんが普通に着ていけるだけの服を買いにでかけました。

女性はショッピングが好きだと実感しました。

私はその待ち時間の間近くの配慮されたソファーにかけて読書しながら付き合うのです。一人で行って来たらと言えば機嫌を害い、ソファーに座って近くで待っていれば何かあれば見て声もかけてあげれるし、似合うかどうかもすぐ言ってあげれます。
「同じ時を同じ場所で過ごす」
あたりまえのことを効率重視で私はせっかちで別れて済ませたりします。時間の節約と効率は上がるのかもしれませんが、目に見えないものを大切にすることを忘れてしまえば、私そのものが忘れ去られてしまうものだなんて思います。

あの人の笑顔が夏のひまわりのように輝いている瞬間を見たような日でした。

(ごく)たまにはお互いの私的買い物も悪くないです。



ただ贅沢は(私の稼ぎの関係上)敵です。

いつものパターン

 夏休みに遊び呆けることもなく、スポーツに汗を流し、(短い時間だけれど)毎日宿題・課題を続ける子供達も遊びが必要になってきました。(建前はおいといて本音は毎日ゲームとかネットとか読書は勉強した時間の何倍以上ちゃっかりしてるんだけど。)

今日も海へ連れて行ってあげたいと思っていましたが生憎の曇り空と雨、じゃあ(ストレス発散のために)友人を呼んで遊びたいという要望が長男坊と次男坊からきましたので、それを快諾し、見ていたら注意したくなる性分ですから、私を一人でほっておけない(仕事以外で私を一人にさせたくない愛情の多い)家内と一緒に、この時期どこも冷房が効きすぎて身体にこたえるようになった私達はしっかりと二枚くらい多めに着込んで、快適なところで読書を二人でするために出かけました。

「いわゆるデート」というものですね。

(子供達をダシにして、二人の時間を有意義に過ごすと)

本当にこの時期の人が沢山存在している屋内施設はどこも冷房が寒いくらいです。周囲を見渡すと若い子やお洒落な方は、薄着一枚で楽しそうにしています。オヤジになった私からすれば、あれは自殺行為ですね。

働いていたり動いていたり、日中に先程までいた方ならば、砂漠の中のオアシスでしょうけれど、静けさを好む(ただ動くのがすきじゃない無精者)の私からすれば、極寒地帯ですよ本当に。

でもまあそのおかげで『法華経入門』菅野博史著(岩波新書)を読了しました。初めて法華経解説を読んだ本は渡辺照宏先生の
『法華経物語』 渡辺 照宏 (著) であったと記憶しています。次は確か現代人の仏教〈5〉『いのちの世界・法華経』紀野一義(著)でその後忘れてしまいましたが、何か法華経関係の本を読んだような気がします。

今回は初心に帰り(というか本をそれから割りと時間を書けて幾つも呼んでいたら大事なことを忘れてしまっているので)、タイトル通り大好きな先生方以外の方が書かれた本を読みたかったのです。

よって『法華経入門』を時間を書けて読んでいました。先が見えかけた頃に紀野一義先生の『法華経を読む』講談社現代新書を平行して読みかけていました。

親しい友人が仏教好きで、気になる本を読むために買い溜めています。私はそこでまだ彼が手を付けていない本でまだ時間的に読みかけた本が終わらないのをいいことに、本人より先に読破してしまうという。漁夫の利です。

ミステリーやサスペンスや現代の読みやすい本なら、何時間(一日)も立たずに読み終えれるものも多いです。仏教書は私にとって、私が私を何かで縛るような思いで、通り過ぎないように時間を書けて読んでいくようにしています。読み飛ばさないこと、理解していないのに先に進まないこと、本当にそれは人からすれば私が私に縄をかけているだけのようにも思います。

私が家内を大好きで、いまだ新婚気分が抜けないこともそれと同じようなことだと最近は思います。


「誰がそなたを縛っているのか」


本当は誰もが気づいていることです。


誰かと何かのせいにしたり、楽な(怠惰へ走る)ことへ目を向け続けたり、今ではなく先でもいいと先延ばしを続けたり、呪われていると思い込みすぎていたり、才能がないと思い込むことも、生きる意味が無いと思うことも、幸せではないと思うことも

よく思うのですよ

「善いことは、肯定 肯定 大肯定」

「悪いことは 見つめ 我に置き換え どうありたいのか(と自らに問う)」


否定がない肯定によって、笑っていきたいと願います。

不携帯(というか持っていない)

 雨模様の日々から一転、からっと晴れた日になっていました。どうもTVや新聞をあまりみないので周りの人の話を聞いていれば、このあたり梅雨がはれたようです。

ただこれも知らなくてびっくりされたのですが、どうも台風が近づいているとか、青く晴れた空、夏の雲らしい、もりもりもりあがる雲、眩しい日差し、ちょっとうるさい蝉の鳴き声、どうも台風が来るなんて信じられないほどです。

休日でしたので朝から家内と普段ためていた用事を朝から済ませ買い物に出かけていたら、知人がその間にお届け物を留守の家にたずねてきていたようです。最近は携帯電話がありますから、ただいまどき珍しい携帯とかスマホなんてものを持たない私ですから、近くにいる家内の携帯へ電話がかけられ、買い物をしている場所を届けてくれるなんて、いまどきの運送業のサービスもびっくりのサービスでした。

なにやらお中元でしょうか、そんなに贅沢な品があがらない我が家には不釣り合いの素敵なお肉をいただきました。有難いことですし、届け方もニクらしい感じの演出です。

広いショッピングモールで離れてしまえば、広さと人の多さで出会うことが少し難しいことです。まわりをみればポケットから携帯(やスマホ)を取出し、「今どこ」そう簡単にたずねて終わりです。携帯がない私はどうでしょう。家内にあうのに家内のこれまでの傾向や今日の目的の買い物など、いろんなことを予測して落ち合うつもりでした。ただ出先で家内へ電話があり、届け物を受け取りに行っていたという、予測できない事態で家内をしばらく探していました。

人からすればめんどくさいことしないで、携帯を持てばいいのになんて思うでしょうけれど、携帯を持たない自由というものも存在し、会うことや声を聴くのに苦労がかかることが直接話したり会う時の喜びを増やすものというあたりまえのことに気づかなくなるものです。(なんて言い訳をのせておきます)

予測して、割と探してあえたとき嬉しいものです。家内のことは大好きですが、会えない時間がもっと好きにさせるものなんですよ。(そんな大それたことじゃなく、いつもあることなんだけどね)

休みらしく、のんびりまったりとしていればあっという間に夜になっていつもの更新時間(晩八時)を過ぎていました。誰のために何のために何を書き続けるか、自分でたまにそれを考えおかしくなり、意味があるのかな、なんて思いながら、それでも何かを続けていこうと思っています。

「人生山あり谷あり」

近くのお世話になる方が誰かに

「あなたは今 谷あり、谷ありやな」

なんてことを言っていました。

それを聞いて、山がよいことで谷が悪い時なのかとはっとしました。

悪い時でも、愛はそこにあるし、しあわせもあるし、わらいだってあるし、楽しさだってあるし、もとめるこころもあるし、誰も理解してくれないこともないよ。


谷もなければ笑えることも少ないよ

新婚

 ここのところ家内とべたべたしています。もっとも家内はべたべたしようとても逃げようとします。
家が狭いことと、結婚して伴侶であることと、子供三人が私たちをみていることと、いつも一緒にいる二人であるということと、これからもずっと一緒にいるという制約から中を悪くするということはできにくいことです。

よって私はべったりとしているのです。

何かにぶつかり打ちのめされ、現実が厳しくなればなるほど痛いことが増え、わたしは言葉も行動もちょっとしたことで怒りやすくなり、短絡的な言動になりがちです。

また少し時間がたて(忘れれ)ば、楽しいときに戻り、皆に聞かれれば言うのです。

「まだ新婚みたいなものだからね」

「もう子供も中学生になるのに、何年までが新婚なの」

「わたしがそう思う限りですよ(もっとも家内がそう思っているかどうかはおいといて)」

あの人を見て心浮かれ(惹かれ)るうちはそう思っています。

何も無ければそうも思わないのでしょう。
へこたれることも、悲しいことも、つらいことも、苦しいことも、怨みも、思い通りにいかないことが連続することも、何かあって元に戻るたびにあの人をみて、心惹かれるわたしをみるとき、それでわたしはあの人と結婚したのだと納得させられます。

そう思えないときも、何も思わないときも、心惹かれるときも、困るのですがそれもやはりわたしです。


自分のこころに手を伸ばし、温かい気持ちをいつでも見たり聞いたり取り出せれば何も問題がないといつも思います。


笑うこと・楽しむこと・好きということ・愛するということ、打たれれば打たれるほどへこめばへこむほど、形が変化していくように思います。

かわり

 ここのところ、家内は少し忙しくしていました。
今日は仕事が休日であったために、子供達は全員学校へ行っていますから、たまには二人でどこかへランチにでもと何日か前に言っていました。

昨晩仕事が終わって自宅に帰れば家内が少し疲れていました。「大丈夫?」「ゆっくりやるから大丈夫」あまり大丈夫そうではありません。ご飯を作って食べずに休んでいました。それから子供達は明日(今日)学校ですからやることをやらせ、寝かせ、ただ夜遅くまで何度か家内は嘔吐していました。

休みだったことが有難いですが、二人の予定は無くなってしまいました。朝ごはんを食べさせ「けいくん(4歳)」を幼稚園に送って行き、少し休んでから昼すぎに幼稚園へ迎えに行き、家事をしている間一人で庭で「けいくん」は遊んでいました。
家事が終わり、庭に出れば、植物に水撒きしようとしてよく濡れた「けいくん」ができあがっていました。
お風呂へ入れて、洗濯物を二三回干し、本当天気が良いのは有難いことでした。終って「けいくん」と庭でおやつを食べながら、ナミテントウを観察したり、アリの巣の近くにこぼしたお菓子をおいていたら、アリがどれくらいで集まってくるか、蜘蛛が何かの幼虫を捕まえているのをみたり、気がつけば晩御飯の用意をせねばいけません。

家内はどうも、お粥くらいしか食欲がありませんので、あまり手がかかりません。元気な子供達が喜ぶようなものを買ってきて出したのですが、少し次男坊も食欲がありませんでした。何か風邪か病気にでもかかったのかわかりませんが、それとも今日は暑い日であったから少し疲れたのか、普段元気な人が元気がなくなるとこちらも元気がなくなってしまいます。

早くよくなるように、わたしの相手をする人がいないと寂しいものです。

頭のなかの幸せと場所

 あほなことを言うことが増えてきました。仕事へ行くときに家内は朝からお弁当をずっと作ってくれています。家内にとって朝の時間の使い方はとても大事です。

私のお弁当や子供達(男子三兄弟)の朝ごはんなどを面倒みなければいけません。私だったら怒ってばかりで優しくなれないところをあたりまえのように(愛情を持って)子供達と私へ接してくれることが何よりも有難いことです。

あたりまえのことに感謝を忘れやすい私と子供達は、家内にそっぽを向かれればたいそうこたえます。最近の私は学習能力が高く怒られることも衝突も減ってきました。子供達はこれからです。

ここ(ブログ)へ日記のごとく何かを書き連ねることに出来事の反省やこれから出現して欲しい善いこと、それに向かって今何の善いことをしなければいけないか、ここはそれを私の鏡のように客観的に示してくれる役割も果たしています(随分美化したり少し脚色なんてこともあります)。悪いことをすべて書くことが出来ない自分の弱さも出現しています。

話はそれましたが、今日の家内のお弁当はぶっかけうどん(弁当)でした。昨晩から

「明日のお弁当、麺でもいい」

確かそんなことを聞かれ

「いいよ」

そんなやりとりがあったように思います。職場に家内はいませんからお弁当はいつも多めに入っています。今日だけでなくその量を見て近くの人が目を丸くしていました。

「家内は心配してお腹空かないように、愛情と同じように人より多く入れてあるんですよ」

笑顔で答えます。聞いた人はいつも近くにいるからか驚いた時は質問してきます。人により思いの差は個人差で出現方法が違います。家内は食事などのことが人より少し多めだと思うことがあります。労働に身体は資本です。生活態度や食事、二人のやりとり、子供達のことを話しあうこと、まあ後は大人の時間でしょうか。

いずれにしても誰が勝ちで、誰が負けとかいう話ではありません。本当夫婦100組いればその夫婦のありようはその数だけあって、愛情の出し方受け取り方もその数だけあると思います。

私と家内は、私がだいぶ変わっているのか(誰かの頭のなかだけがある意味しあわせなのか)、おもしろい夫婦となっているようです。自分でもそう思いますが近くの人にもよく言われます。


ただ愛情やしあわせが店で買うのではなく、気がつけば身近(心中)に手を伸ばせば取り出せる私達でありたいと理想を追い求めています。


そんなことを考えているときの私は本当に楽しいです。