どうぞどうぞ

 他所様に御呼ばれして、座席に案内され、目前に御馳走が並んでいたとしても、なかなか手はつけられない。

「どうぞ どうぞ」

そう言われようやくいただける。

何も言われなければ目で楽しもう。お腹が空いていても見て満足すればいい。

「それはないでしょう」

なんて声を聞いたことがある。

「いやそれはまだましですよ」

そう答える。

「何がまだましなの」

「何でもいいから好きなの食べてよ」そう言われました。見ればごはんも無くおかずもなく、茶碗と箸とテーブルはありました。しばらくたって「ごちそうさまでした。」そう御礼をのべ先へ行くときもありましたから。

それより(一番)いけないのはなんでも食べてもいいと目前に御馳走を置かれ

「どうぞ何でも食べて」

そう言われているのに、一つでもこちらが取れない雰囲気を出されている。「あなたの思い過ごしでは」それもまたそうでもない。誰かが空気を読まずに言葉どおりとって食べた。その後本人がいなくなってから、卑しいだとかたくさん食べる人だとかふれ回ることをみかけた。なかなかどうして「どうぞ」の後、箸はそこへのびない。

何もないのに何でも食べてと言ったり、「どうぞどうぞ」と言っているのに惜しんで食べさせない空気をだすばかりの人が、皆に食べてもらって構わないと作っているのに「どうぞどうぞ」くらい言ってくれなければ誰も食べれないだろうとあげあしをとっている。

世の中不思議なことが多い。

その方の出す空気と言葉、大人になれていない私はそのまま受け取って痛い思いをしつづけている。

感情的なことに対抗でき、勝つことができるものが冷静(知性)であることなのに感情的になってしまう。感情に感情をぶつけて理解してくれる人は賢者だけ、多くは痛い目にあうことばかりとなる。

聞くに堪えない話でこそ、ときに何か見えることがある。



今私はそこに何をみるのかと



感情を抑えることと、ただ保守的に何も言わない何もやらないことは違うものである。


いまだ感情をおさえれない私を見る。
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どうやったら

ちょっと聞いてみたのです。

根性が悪い人がおられますが、どうやったら治るのでしょうか

うーん、昔からそういうものには「飲み薬」も「つけ薬」も聞かないって言われてるし、恋の病と一緒で「草津の湯」で治らないでしょう。治る温泉があるとしたら、そこにいけば根性が悪い私を認めてるようなもんですから、自覚があってもなくても行かない人ばかりでしょう。

まあ私は根性が悪いから治したいなんて言う人は根性悪くないですけどね

現実そんな温泉も聞きませんね

あーそれは困りました。

あ、治る方法が一つあります。

現実的なものがダメだとしても、仏教の有難い特徴(仏法)は「応病与薬」として全ての病にききます。

ただ一つ問題があるのです。

「馬の耳に念仏」なんていうように、その人が聞く気が(古き信を捨てる、又は信を発さ)なければ効果がでない。

もっとも最初から人の意見や話を聞く耳があるのだったら悪くなっていないようにも思いますが・・・

それじゃあ八方塞がりじゃないですか

悪い人が多い場合、多勢に無勢って言葉があるように、そんな人大勢に囲まれたら辛いですよね


タイミングがあるでしょうね。身近な方を亡くされたとか、辛い目にあっている時に大恩を受けて立ち直ったとか、失ってはじめてその大切さと自分自身に気がついたとか、人からすればどうでもいい人に思えるけれども大事な人に出会えたこと、惹きつけてやまない光を放つ書(文)にであったとか、人それぞれタイミングが違いますから・・・




どうしてありのままの自分を見つめようとしないのだろう。

飾りたて、虚勢をはり、ときには嘘で固めようとしたり、私はこのように弱いのだろう。

どれだけ失えば気づくのだろうか。

天に向かって唾をはいても、自分に帰ってくるだろうに

相手を馬鹿にすれば、必ず自分自身だって馬鹿にされるのに

反り返れるような態度を誰も評価してくれないのに





まあともかく、どうすれば聞いてもらえるか(大切なことを理解してもらえるか)

皆悩むことだと思います(私自身がそう思われているなんてことはとりあえずどっかにやっておきます。)


馬に例えれば、馬に悪いし・・・

のれんに例えれば、のれんに・・・

ぬかに・・・

かえるにも・・・




本当人のことではなく、私からです。
(聞く耳を持つこと、たゆまざる内省は大事です)

何でも

 自分のことは省みない。遅刻や無断欠勤、恩恵(地位・肩書)を利用して特別扱い、けれども他人のことは細かい(些細なこと一部始終、揚げ足をとれるならどんなことでも)ことまでとやかく告げてくる。

「誰かを貶めれば、自分が優位に立てる。自分が得をする。自分はいけている。」終始一貫してその理論を適用し続けている。

自分のことは本当に見難い。


相手のことは本当に見やすい。


自分をどこまで見て行動・発言しているかがその人のほとんどをあらわしているように思う。

私の上司は晩になればいつもの如く口にする言葉があった。

「自分を中心に地球は回っていない。天動説はいけない。」

まだ20代後半の私には本当にためになった。「船頭多くして船山に登る」上司はその言葉も口にしていた。

忙しい日が続けば「忙しい方がいいんだ。小人閑居して不善をなす」何度も口にしていた。


最近忙しい、あのときから12年くらい経ったが私の考えも幾分か変わったように思う。暇なときは調べ物・書物をあさり、忙しければ調べ物や勉学がはかどらないことをなげくようになった。

きっかけはやっぱりあの言葉「小人閑居して不善をなす」教養や人徳のない私のような人は暇になれば善いことをしないどころか、悪いことをしがちだ。

自分を正しくみれば、相手のことも悪くも言えなくなることも多い。時にはあえて自分のことをみずに言わなければいけないこともある。

心からの感謝をできないのであれば難しいことに遭遇するかもしれない。

暇な時間を有効に利用しようと思わなければ痛い目に遭遇するしれない。

何かしら努力をしなければ、後悔は多くなるかもしれない。



私は痛い目にはあまり会いたくない。後悔も少ないほうがいい。


日々仕事が忙しい。体調がまだ戻らないから家族に迷惑をかけてしまう。明日のために早く休むことにします。


教えていただく

 私は人の言うことを聞かないことが多いです。本当に悪いことです。少しずつ改善しようと思っています。

ただそんなことを「思う」「思わない」とか「考える」「考えない」など一切の思慮分別を挟む隙間もない程の言葉が聞こえてくるときがあります。

いつも八月は原爆や戦争の特集があります。私も長崎出身ですから原爆については他人事ではないこともあります。

私のおじいさん。私は三人兄弟の末っ子ということもあり、幼少の頃は気がつかなかったのですが、家族からの愛情をたくさん受けたようです。特におじいさんは私をよく可愛がってくれました。当然両親兄弟も私の面倒をよくみてくれました。小さい頃の私はそんなことに気がつかずやりたいことを気の向くままに行っていました。
誰かが必ず世話を焼いてくれていたことを覚えています。

おじいさんとお風呂によく入りました。おじいさんの背中は大きい傷があり背中腰のあたりがくぼんでいました。

「おじさん、これ(この大きい傷跡)なに?」

「これは戦争で東南アジアの国を何カ国も言った時に大砲の爆風でえぐられたんだ。」

小さい頃の私は、大砲や戦争なんて知りません。(今だって実際に見たことはありません。)
戦争の話は何度も何度も聞かされました。

「とにかく食べるものがなかった。だからなんでも食べた・・・。」

おじいさんは食べ物を大事にする人で、よく働く人でした。戦争のことや大砲で怪我したことは私が小学高学年位になった時でしょうか、おじいさんは農作業中に腕を怪我した時、レントゲンを撮ったら腕に何かの破片が埋まっている。そう医者に言われ怪我のついでにその埋まっていた破片を取り除いた。確か爆風でガラスの破片が腕に埋まったままだったようなことを聞き、本当だったんだ。遅くなり気づきました。

おじいさんは90を超えて長生きしました。もう戦争の話も聞くことができません。

先日里帰りの際におじいさんの話を母としていたら、おじいさんは部隊で唯一人の生き残りだったそうです。怪我をしていたために居残りになってそれで命を繋いだそんなことを母は言っていました。続けて本当なら軍人恩給もたくさん出るはずなのにそれを証明する人がいなかったから、人から比べれば軍人恩給が少ないといって怒っていました。おじいさん以外生き残りがいないから証明する人がいない。私は母さんに

「生命があって無事に帰って来れただけでもいいじゃない。」

なんて気軽に言いました。人の思いは複雑です・・・。

先日仕事で伺ったお宅では、80になる連れ添いのご主人の話を聞かせてもらいました。
戦争にはそのお父さんが行ったそうです。ミャンマーへ派遣され終戦二年前位に亡くなったと知らせがあったと確か言っておられました。その頃の亡くなった知らせは曖昧で、亡くなった人がひょっこり帰ってくることもありましたから、その旦那さんは父親がひょっとしたら帰ってくるかもしれないと思い続けていたそうです。

昭和50年頃、私が働くこの徳島のあたりで戦争へミャンマーへ派遣され戦死された方の遺族は政府主催の遺骨収集へ行かれたそうです。その話を聞いた旦那さんも四国二番極楽寺の住職も便は違えどもミャンマーへ行ったそう言われていました。

部隊が亡くなったあたりで、必死にほって探した。探せども探せども・・・、ただおそらくこれが手で足で頭だろうと土を持って帰ってきた。旦那さんはそれ以来、「父がもう家へ帰ってくることはない。そう観念した。」独り言のように言っていたと教えてくれました。

いま旦那さんは80歳、夏が来て戦争の特集などがあれば眺めて涙を流している。私に奥様は言います。

「おじいさんが、泣いているのはかわいそうで見たくない。だから私はおじいさんが席を立ったら勝手にチャンネルをぱっと変えるんです。戻ってきたらわしが見ていたのになんで変えるんだって怒ってますけどね」

「でもね、80のおじいさんが涙を流して泣いているのは見たくないんです。」

極楽寺の住職のお父さんも同様にミャンマーで戦死されています。その二人だけでなく沢山の方が戦死されています。

極楽寺の住職からお話を聞いたとき、「昭和50年政府の遺骨収集に二年参加して計60日必死に探し続けた。本来なら治安が悪いために入れないところにも入って探させてくれた。けれどもこのあたりだろうというところまで行ったが、父はいなかった。」

「父はビルマ(現ミャンマー)の土にかえったんだろう・・・・。」

極楽寺住職はミャンマーへその後何十回も行かれていました。私は詳細を知らないために何故ミャンマーへ何度もいったのだろう。なんて不思議に思っていたことがありました。

話を聞いて腑に落ちました。

おばあさんは私に言いました。「若い今の人たちには戦争なんて他人事でしょう。でも80歳のあの人(主人)にとっては(80になった)今でも涙をこぼすんです・・・」





いつも私は話に結論を書く習癖があります。それは時に必要のないこともあるように思うのです。

ピエロ

 道化とは人を笑わせるおどけた言語・動作。またそれをする者(広辞苑)とあります。

好意をよせる異性に(結果的に)もてあそばれた(故意にされても、偶然そうなったとしても・・・)。

「とんだ道化師(ピエロ)にしたてあげられました・・・」

などの言葉だって出てくることがあるでしょう。まあ私もそのようなことが様々なことに(自慢できないことなんですが)人に負けなくらい沢山あります。

狙ってもないのに周囲からの笑いをとる。皆が幸せになれるのならそれも悪くないと思える人もいます。お笑いの芸人からすれば狙ってないのに笑いをとってしまえば嫉妬の対象に入りそうです。

なかなか笑われて平静を保つことは(私には特に)難しいです。

「開き直る」ことが問題になります。自分の特性を把握した上で開き直る。「開き直る」ことに大まかに「良い開き直り」・「悪い開き直り」の二つがあります。

自分のことが何一つわかっていないのに、悪いことや笑われたりすれば、直そうとも努力せず欠点なども認めようともしないのに、急に態度を変え相手を非難することばかり、挙句は陰で笑われてしまう。その場合は道化ではなくただの笑いものです・・・。


悪いことも認め、直さねばならないことも理解し、自身の欠点を笑いに変える。

「貴方は面白い人」

そう呼ばれることが多くなるように思います。

「笑われる」こと、「笑顔にする」こと、どちらも笑うことが同様に出現しています。自分が心から納得して笑うことが周囲に出てきているなら、問題がないように思います。

怒ることは、怒り心頭などの言葉があるように続けば疲れます・・・。

泣くことだって続けば疲れます・・・。

哀しむことも続きすぎれば心身ともに疲弊していきます・・・・。

笑うことが続けば、腹筋が痛いくらいに笑えば「もうやめてくれー」となりますが実際はやめて欲しくないとも思えます。笑いは日々多ければ何かの活力になることがあります。

問題がありすぎる人は、心から笑えないことが多くなります。

自分にとっての道化師(ピエロ)が側にいれば、心はゆたかに過ごせるでしょう。





私があの人にとってのピエロであれば、心から笑う時間を共に多く過ごせるだろう・・・。

「笑ってよ君のために、笑ってよ僕のために、」

(さだまさし 道化師のソネット歌詞より抜粋)


己の現在地点

 何も無い、つまりは何も考えずに生活している状態、特に意識していない状態での心は中間の状態に近いのです。

   図

         心の程度の段階

            高

            ↑

 悪・醜・地獄 ← 己 → 善・美・極楽

            ↓

            低

(辛抱困難を乗り越えれば楽・安心を伴い高い次元へあがるが、どの高さにいても見る方向により善悪の区別が伴う。己がどの高さに位置していてもなすべきことに身を投じていれば己が現在位置する高さは微塵も問題になることがない。)


何か目前に意地が悪い人が近づいてきたり、悪と呼ばれる行為を見た時、実際己の位置は変わっていないのに心は悪を重点的に見るのです。完成していない人間の心(つまり私のような心)はその行為の瞬間、心の視野は人間の視野と同様に悪・醜・地獄側を見つめ善側に背をむける。

一も二もなく、悪い事は嫌だ・醜すぎる・まさに地獄そのもの、そこから出来ればすぐに離れたい、見たくない、考えたくもない、一緒にされたくもない。
また目前に善と呼ばれる行為を見た瞬間、やはり実際に己の位置は変わっていないのに、心は善を重点的に凝視する。

完成していない人間の心で良かったと思えることは、その瞬間こちらも人間の視野と同様に善・美・極楽側を見つめ求めてやまない。

善と悪、何故にこのような差が出てくるのか。

人間は(正確には人間の心は)元の状態へいつも向おうとしている。生まれた時から己の心を充足させ元の状態へ戻すために現在足り無いであろうものをいつも求め続けている。子供は物質(玩具など)として無いものを求めて完全になろうとする稚拙な心の表の思いに身体が引きずられ少しずつ成長していく、いずれ心が大人になれば、見た目(物質)として補完することを卒業し、心の状態を完全な状態へ移行しようとする。
私達は無いものを見て求め心が願うことに身体が動かされていく。ただ家族・周囲・知人などが喜ばない心が求めるものに動かされている時、完全な状態にそれは全く必要としない、周囲の方は本人よりいち早く心が気付き顔を曇らせどなたでも瞬時にその本人の状態が良いか悪いかを判断する。この世界の全てから心は分化してきているため、心は最初から全てを知っている。ただ身体に入るときに身体が小さすぎるために忘れている。

「生きている内に全てを思い出したい(元の状態へ還りたい。)と心は願う」

そう説明すれば辻褄が会うのかもしれない。
成人として働き出した若者、男性であれば女性を自然に求めて結婚する。女性の優しさを必要とし己の心に足りないことを補い完全なものへ近づきたいと自然に願う己の心の願いが身体を動かす。それが行動として
男女の愛(時に結婚に至る)として表現される。

普段の生活、仕事を行うにしても必ず人は素晴らしい事をいつも行う人に側にいてもらいたい。何気ない立ち居振る舞いが美しい方に側にいてもらいたい。何時でも心のよりどころとなる方に側にいてもらいたい。人間関係の敬として表現される。

心は自身が意識していないと思う時でも必ず完全なるところへ行きたいと願い続けている。物質的な満足では完全なるところへ行けず、心そのものが完全となりたい。
以前より心が完全に近づく時、つまり素晴らしい方(または良き事実)が共に居る時は必ず後から安心が伴ってくる。

現在より時が進めば心も成長し、また心は完全を目指す。苦しいことを乗り越え、辛いことを経験し、世に言う耐え難きを耐え苦渋辛酸を舐めた人であれば、そのマイナスの経験の幅分心はそのプラスの幅を知る。マイナスの経験の幅がなければ、絶対的にプラスの幅を知ることができない。
善・悪とは別物ではなく、ある事実の一つの側面そのもの、片方だけでは片方の存在すら通常でも気づくことができない。
しかし、己の心は実は全てを知っている。ただ悲しいかな己の心は体験などを通し再認識して初めて本当の意味をその事実として認識する。

元から全てを知っているからこそ、見たこともない己や他人の善を見て憧れ求めてやまない。知っているからこそ近づきたい、心から完成へ近づきたい。出来ればひとつになりたいと願いを起こす。その願いは最初からかなっているのに己の心が初めから一つだと心が心から実感することが出来た時、心は以前より高い次元へと移行する。不完全な心は完全な状態へ行きたいと常に願う。

一体どこまで己の心は行きたいと願うのか、完全な状態とはどこなのか、心がひとつになりたいと願うのは何故か。

至極簡単明瞭、己の心はどこからきたか、身体から突然現れたのではない。身体は心の一部分に過ぎない。
完全な状態から己の心は己の体に分化されてきている。完全な状態と己の体の中にある心、そもそも同一のものである。

この私達を取り巻く大宇宙そのものこそ心の本体である。大宇宙は世界全体を知っている。己の心も同じところから来てるがために自然状態へただ戻ろうとしている。時が来れば己の心も元へ帰る。

 偏りのある私的な言葉を用いれば、生を受けた元の場所へ迷惑をかけることなく、出来れば良い生であったことを単に報告したいと願っているだけなのかもしれない。悪い状態で返すことのなく良い事を沢山持って返ってもらいたい。

少なくとも私と嫁と子供三人・家族・優しい人達に出会えた。

それは「心と心が出会えた。」

難しいことは微塵もない、自分を含め家族・支えてくれた有難い人達と出会えたからこそ、次に出てくるであろう心のために良い事を願ってしまう。いつだって素晴らしい心とふれあいたい。


西田幾多郎氏は著書(善の研究)において次のように書かれている。

「人智の未だ開けない時はかえって宗教的であって、学問道徳の極致はまた宗教にはいらねばならぬようになる。
世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がいる。しかしかかる如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己を離れて存するのではない。その要求は生命其物の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え真摯に生きんと欲するものは必ず熱烈なる宗教的欲求を感ぜずにはいられないのである」

私は随喜の涙をもって、この西田氏の見解をうなずくほかない。


この記事は以前にふと思いついて書いたもので、タイトルがあるとすれば短すぎる「善の研究」の書評と呼べる(のかもしれないし呼べないのかもしれない)。

読者が(私の拙い書評より)得るところがあるとすれば、それは他ならぬ西田氏の功績であり、不明瞭な点や誤りがあるとすれば私に全て責任がある。
(興味が有る方は西田幾多郎氏『善の研究』を是非ご一読されたい。)

勘違い

 何も考えずに生きていても、人は親からもらった身体・身に染み込んだ躾・教育・日本人ならば日本の国の思想を受けて大人になるのです。育つ国によって文化の違いは大きく、しかし自分が育った国が最高であると思うのはごくあたりまえのように思います。

楽しかった10代が過ぎ、何も知らずに希望を抱いた20代をむかえ、30代になると厳しい現実に気がつき始めます。

私も40の節目が近づき始め、思い知らされたことがあります。若い頃は誰でもではないと思いますが、私の様に自分一人で生きていると勘違いしている時期があります。

自分は何でも出来る。そう思うのは悪いことではないです。限界を作って発展性がない、または閉じこもるよりはその方が若者らしいはずです。その何でも出来ると思える自分を構成している要因に気づく時があります。

何気なく人と応対する仕草、話し方、食事方法など、考えてみれば、私の場合ほとんど親から指導され、教育されたものばかりです。

私がなんでもいけると自信を持つ行動・他様々な根拠は両親が私を育てる過程において、これから先に歩むであろう長い人生を困らないようにとお金のかわりに、必死に持たせてくれたものです。

厳しかった思い出もそう考えれば、心から有難うとしか思えず、厳しい親を恨んだ幼少時代でしたが今は最高の思い出です。

そうなると困ったことが出てくるのです。厳しい親を恨んでいた事、それがありがたい存在に変わると、社会人になり一人で頑張ってきたと言えなくなり、育った環境でお世話になった方と両親のおかげで成り立っていることに気付かされます。会社でもそうです。自分一人でと思いがちですが、やはり職場全員の力でその職場は成り立っています。色々考えれば考えるほど、私一人の力なんて思っていたのは、大きな勘違いです・・・

知らずに自身が皆様からいただいている事柄や物の大きさに気づき、また深く見つめなおさなければなりません。

大事なことに気がついてしまえば、これから今までのことを基礎として発展しなければいけません。いつまでたっても教えていただく立場ではなく、私達はいつか人間としてある程度の完成、これからは周囲の方の模範となるべき年齢になるのです。

それが「40にして惑わず」「自身のやるべきことが見え行うべきこと(生きていく道)が決まった。」ことと私は解釈をしています。

自分はできていると身勝手な判断をすると、周囲の方は内心

「何考えてるの?まったくできてないけど・・・」

などと何処の場においても思われてしまうのです。まずはその段階に自分がいると気がつき、悪い点を心から反省した上で出来ていない自分を認め納得し、少しずつ中身を理想の自分に近づけていけばいいのです。

勘違いも悪くはないのです。良い勘違いなら皆さん大歓迎です。

ただ「自分は出来ている。」と「出来ていない自分を誇らしげに思う勘違い」は発言する方、そう思わせる本人しか思っておらず、周囲のまともな方に誰一人通じることはなく、再度になりますがそれはどこの世界(場所)でも通用しないのです。

悪い勘違いは戒めであり、良い勘違いは出来た自分の理想の姿です。私も含め悪い勘違いは人を困らせるだけなのでもうこりごりです・・・

 日本人が毎日食事にいただく、稲に例えて名言があります。

どんな些細ないことにでも感謝し、出会う方どなたにも頭を下げ、礼を失わず(お礼と感謝と敬意をあらわされるのです。)自分という一人の限界を知り、いつも誰かにお世話になっている。また今までもこれからも何かの縁で迷惑をかけるかもしれない。

「これまでもこれからも宜しくお願い申し上げます。」

といって、老若や地位・名誉があったとしても自然に頭を下げる人を指す言葉に

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

どうも中身がないと老若を問わず、大きな勘違いして頭を垂れることを一切せず。反対に人に向かって頭を下げることを強要したり、自信は偉いといわんばかりにふんぞり返った態度をする人もあるようです。

私達は一年ごとに歳をとり、いつかは必ず(命が尽きていなければ)老人になります。












 「稲も人も実り大き育ち方でないと感謝をされない。」
それは古からの現代に生きる私たち(特に私)への戒めと教訓の言葉です。

優しさ(3)

 女性にも男性にも優しい人がいます。勝手な見解ですが、体感上男性より女性の方が優しく感じる事が多いように思います。

「男性は優しくない人が多いのか」「女性は優しい人が多いのか」それは私の素朴な疑問でした。
どうもそれは男性と女性の優しさがそれぞれ違う形で現れ、女性の優しさが一般に分かりやすいのです。男性も当然優しいのです。しかし優しさの表現が少し複雑でわかりにくいのです。例外は当然あります。

 一つの例で言えば、男性の「優しさ」は「厳しさ」で表現されます。それに対して女性の優しさは困っていたら、相手がどうであれ助けるという「優しさ」で表現されます。これにも当然例外もあります。
しかし、どちらも本質は「優しさ」です。

男性からすれば優しくするより厳しく接し、なんでも自分で乗り越える力を持たなければと相手に望み、その方法をきつく伝える。

女性は困っていれば、相手が賢くても賢くなくても助ける。そういう優しさといったほうがわかりやすいでしょうか。

このやさしさの伝わり方の違いにより、相手の受け取り方はかなり違ってきます。

本人が悪い意味で勘違いしている場合に優しくフォローすると、注意された人が出来ていないのに出来ていると錯覚する人もいます。

出来ている人であればその「優しさ」をしっかりと受け止め、自己の過ちと至らぬことを把握し感謝を持ってさらに向上します。

厳しい優しさは、本質が見えない人(自身)の至らぬ行動・言動・思考を全て否定する場合もあります。その結果注意した人のことを「あの人は怒りっぽい」・「ストレスのはけ口なのではないか」・「恨みというか、やっかみ」といったように色々取る人もいるでしょう。

本質を見ることのできる人は、怒ることは大変力のいることだと知っています。

「どうでもいい人に怒るエネルギーを使いたくないものだ。」・「怒って好かれる事も少なく、嫌いに思われることも多いことを承知で激しく怒ってくれている。」・「こちらが出来ていれば相手が怒るはずもない。」

と簡単に受け取ります。

果たして怒られるという原因を自分の中から無くさずに、いつでも環境が悪い。他人が悪い。周囲のせいばかりにして怒られることが少なくなるとは思いにくいです。成長しない人間を見て褒めてくれるとも思いにくいです。

私も男性ですから、「優しさ」=「厳しさ」で100%に近いほど表現することが多かったのです。現実は優しく(厳しく)すればするほど、こちらが痛い目に会いました。

知人であり先輩である人の中に優しい(厳しい)人がいました。その方は飽きっぽい人でしたが、良いことをよく言う人でした。

しかし飽きっぽいがために良いことが長続きしない人でもありました。それでも後輩にはいつもきつく指導していました。自分が出来ていないのに人に注意すると少なからず起こる現象があります。

出来ていない人が出来ていない人に注意する。すると

「貴方自身が出来ていないのに、注意なんて出来ないだろう。」(つまりはやってから言え)

となり、時に殴り合いの喧嘩になっていることがありました。晩に先輩がお酒を飲み、ぼそっと独り言をこぼしていました。

「自分ができてないのは自分が一番知っている。それでも・・・それが分かっていても、あいつらのために絶対に言わなければいけないんだ。」

それまで、その先輩のことを正直嫌いでした。現在その先輩の言葉は胸にしみます。そしてその方と、その考えが本当に大好きです。それから同じような立場に遭遇するといつも思うのです。自分ができてないのにしっかりしろと言わなければいけない時、果たして先輩のように殴り合いになることを承知の上で言えるのか・・・・

根性無しの不出来な私は殴り合いになるのなら言うことができない。しかし違うことも思います。出来ていないから言えないのであれば、

「こちらが少しでも多く出来ることを増やしてから発言すれば良い。」

と自分なりの解釈をして普段から出来ないことを出来るように実践しようと自分なりに前へ進もうとしています。

「優しさ」=「優しさ」で表現される優しさ、比較的女性に多いです。

 不出来な人をしっかり不出来と認識して行う優しさです。良い人にだけ優しくする優しさではなく、「良い人」にも「そうでない人」にも優しく接しています。

出来ている方に優しく接すると、相手は全てを理解しているので自分が思う以上の優しさが返ってきます。出来ていない方に優しく接すると、何も返ってこない場合もあり、時に迷惑が返ってくることがあります。
「自分ができている」と勘違いをしている「出来ていない人」は、相手からの優しさを「それは当然だ」・「こちらはそれ以上のことをしている。」・「むしろまだ(優しさが)少ないのでは」そのように考える人がいます。

だから優しさに優しさとして相手に返らず、迷惑と思われる行為として返すことがあるのです。それは今までの不出来な私に優しさを与えてくれていた周囲の人に対する自分自身そのものです。

周囲の方は出来ていない私に優しさを与え見返りを求めていませんでした。そんな不出来な私、これこそが世の中に言う「可哀想」な人というのでしょう(情けない話です)。

見返りを求めない優しさを放つ人、または「優しさ」=「厳しさ」を持って接する。

「人はどのような優しさを持って生きて行くべきなのか」そのことは私にとって常に考えさせられることです。











ただ優しさによって救われ続けている愚かな私は、「優しさ」を少しでもいいから何時でも出せる人でありたいのです・・・。

楽しむ

 楽しいから楽しみであり、楽しいことを楽しくやれるのは当然です。

楽しいことだけしかないという道であればそれは自分の道ではないかもしれません。もっとも到達するところまで到達した人にとっては例外でしょう。

本当の楽しみについて考える時があります。一体それはどのようなものだろうか。


・悪い事が嫌だから逃げ出したいと思わない。

・目的がある(目的を見つけることができる)。

・自分に即した(自分らしく振る舞うことのでき、皆がしあわせになれる)道であること。

簡単に三つだけ、出て来ました。これは甚だ難しい問題であり、そこへ辿り着くまでには幾多の困難を乗り越えねば自分にあった道は見つからないのかもしれません・・・。

 「この道こそ自分の道である」と早く気づくことができれば、人生を心から楽しめることは間違いないです。

よく物事のマイナス面にとらわれて、落ち込んでばかりの人もいます。反対にプラスとして捉え楽しくなる方もいます。

悪いことから反省すべき所は反省し、自身の課題として前向きに捉えプラス・マイナス総合して楽しめる道が自分らしい道ではないかと思ったりします。

ただ個々の資質・才能・向き不向きがあり、すべての人に共通して限定される道があるわけではないはずです。
その人にあった道が必ず存在します。

 例えていうなら、音楽は音を楽しむ、音を楽しめるから音楽なのだと思います。音を楽しめない場合、それは果たして音楽でありえるのか。その時は苦難・苦痛を伴ったとしてもその道を諦めず、いずれそれが大きな喜びにかわるのであれば、結果音を楽しめているといわざるを得ないはずです。

楽だけの楽しみであればそれでいいのかもしれません。

時に大きな苦を伴う楽しみも含め、心から楽しむことができる人間でありたいと願うのです。

人が生まれれば、いつかは必ず死がやってきます。望んでいても望んでいなくても・・・

 楽して苦労をせず人の気持ちもわからないまま、挙句自分の気持ちすらわからない場合、
「生の喜び(楽しみ)」「死の喜び」はないのかもしれません。




 出来れば死の喜びとまではいかなくても、生をまっとうする。生を楽しむことからはじめ続けていかなければ、大事なものを失ってから気づくようでは遅い・・・、何故かそう思うのです。

笑顔

 私には3人の子供がいます(ずっとブログ呼んでる人は知らされていることですが)。
全員男の子、有難いことに皆元気いっぱいです。

私の目前に三人の赤ちゃんが現れ、見つめる過程が出来たことで、あらためて両親から私が生まれたことを再認識させられました。

 世間の人より遅まきながら、夜泣き・おむつ・病気・家族のありかた、親の苦労の一端をかいまみていくのです。私以上にお嫁さんは赤ちゃん子供に時間をさきます。その時点で差が出てきます。

ニーチェのいう「獲得された真理の高さは、その獲得のための努力に比例する」

私の努力と嫁の努力では圧倒的に差が出てきます。こちらは考えて分からず、何もしないこともある。嫁は考えずにすぐ身体を動かし実行、「どちらが賢くてどちらが愚者か」誰に問うまでもないことです・・・

ただそんな愚かな私にも身近にいる子供から学ぶことがありました。

 生まれて間もない赤ちゃんは自分一人では何もできない状態です。一人目の赤ちゃんを見たときに「何かあったらすぐ死んでしまうのでは」小さい赤ちゃんをみて可愛いと思う前に思ったことです。

嫁は私のようなことは思っていません。慈しみ優しく接しています。夜中頻繁に授乳で起こされたとしても怒ることなくただ優しさのみで接しています。

赤ちゃんは私と比べようのないくらい成長していきます。外見も中身も・・・

初めは仰向けのまま動けなかった赤ちゃん、しばらくすると必死に誰が教えるでもなく寝返りをうつ努力をしはじめます。

寝返りができるとハイハイの前兆である腕だけで前へ進もうとします。個人差もありますが、寝ている時も起きている時も誰が教えるでもなく赤ちゃんは何かに必死です。

何度も何度も自分の限界に挑戦し、上手くいかずに何かあったら泣いたりします。嫁は泣き声に呼ばれ優しさでこたえます。

泣くことも多いのですが、よく笑います。

必死に挑戦し上手くいってにっこり笑います。親は考えもなく心の中が「何か」で満たされます。

 何ども赤ちゃんは繰り返しますハイハイしようとして失敗して泣き、そうかといえば笑います。歩こうとして転んで泣き、必死で立ち上がりふらふらしながら立つことに上手くいった時、また笑うのです。何度も同じ様なことでいて、少しずつ進歩することを繰り返していきます。赤ちゃんは子供へと成長する過程において自分の限界を少しでも広げようと必死です。失敗して泣くことも多く、世の中に存在する私達と同様に思うようにいかないことに赤ちゃんもぶつかっているのです。

ただ上手くいっていない、つまりは一生懸命やったけど出来ていない時でも笑ってくれます。しかし何時でも成長する努力は忘れていません。

 子供を見つめながら思うのです。生きるために(成長するため)必死に出来ることを行いにっこり笑ってくれる赤ちゃん、つまりは自分の子供時代と同様に私の両親にとって必死に成長するために頑張り続ける赤ちゃんの時が私にもあったのだろう。

必死にできる限りのことを自然に行い、にっこり笑ってくれる赤ちゃんを誰かが暖かく見守り続けてきたのだろう。

私は今まで大きな勘違いをしていました。

年をとって少しは偉くなった、自立して家族を養っているから一人前だとか、親になったから偉いのでは。

赤ちゃんをみて皆が「何か」に満たされることの一端、赤ちゃんは考えることではなく今できること、つまり自分の限界を広げ成長していくことを自然かつ必死に連続して行い、よく泣くのです。でも皆に向かってよく笑うのです。

 器用なことができるから偉い、家族を養っているから偉い、その他様々な私の愚かな頭で思う偉いことなど、どうでもいいことのように思うのです。赤ちゃんのように私を含め全員、過去においてそうであったように、現在においてそうあるべきであり、未来においてもそうあるべきです。

私は必死に自分の限界という概念を無くす努力し、少しずつ出来ることを増やしていく。

思うように行かないことが多い時は赤ちゃんの時のように泣いてもいい、ただ周囲の方へ自然に笑って最後はこう言いたいのです。

 「誰よりも頑張ったからうまくいきました。」
 「誰よりも頑張ったけど上手くいきませんでした。」

結果はどちらでも良いのではないか。

そして果てしなく広い青空を見上げ、透き通るような笑顔で前に(明日へ向かって)進んでいきたいのです。

 このようなことを考え行おうとする人を受け入れてくれる優しい方が必ずどこの場所においてもおられます。
そのような方へどうしたらよいのかは考えるまでもなく、真摯な行動や真心を持って感謝と笑顔(時には泣いてもいいです。)でこたえるしかない。最近は心からそう思います。

必要なもの

 仕事を行っていれば、今まで出会ったことがない人とも必ず出会います。当然自分が周囲の人より仕事が始めたことが遅ければ周囲は熟練の人となり、所謂ベテランの方は新人さんや様々な方へ大事なことを少なからず伝えようとしています。

 意味がわかります。自分だって右も左もわからない頃、途方に暮れたこともあります。夢も希望もないのかと絶望することは誰にでもあるはずです。
一体今自分が何をせねばならないのか、それがわからないことだってあったはずです。できれば、困らない方法があればそれがわかれば苦労はしない、そう思ってきたはずです。

 慣れてない人・困っている人・戸惑う人をみればその方が現在もこれからも困らないことを伝えたい、何故か誰だってそう思うはずです。

理解できていない方へ、大事なことを伝えたい。様々な方法をとって伝えようとします。それは行動・言葉・自然な態度、大事なことを必ず伝えたい。できれば目の前の方が困ることがないように一人前になってほしい。

 伝える側と受け取る側、双方が心から理解し合えればどんなことでも通じるのです。
ただ、受け取る側にいつも問題があります。どれだけ相対する方を理解しようと努めているか、その思いの強さだけその人は成長できます。
「本人が自分は努力している」そのような思いがある内は全くといっていいほど話しにならないのです。現実として相手の思いを受け取ることが少なすぎたり、本当の思いを受け取れないのです。
自分の理解が低すぎるのです。心から出る謙虚な姿勢、全てを受け止めようとする姿勢がなければ話にならないのです。周囲の方に文句を言っている時点でその人は学べないのです。文句を言う本人の程度は誰よりも低いのです。

 どうすれば、心から学ぶ姿勢が出るのか、それは努力・辛抱・苦労の年月を必要とします。
古人の言う「辛抱・苦労はお金を出してでもしなければいけない。」これこそが絶対的に必要なのです。
有難い発言を常にする人を駄目出ししたり、文句を言ったりしている暇はないのです。その人と自分の程度を考えれば教えてくれる人を悪く言う暇がどこにあるのか、常に人のことより自分に厳しくなければ良い未来など何処にも存在しません。

 成長したくないなら、良い未来に会いたくないなら何時でも何処でもずっと周囲の文句を言っていたらいいのです。




何が自分に必要なのか、他人の文句ではなく、「自分への戒めの言葉」のみが必要不可欠なのです。

10代20代の頃はそうでもなかったのですが、最近は昔に比べ涙が出ることが多くなりました。

花を見ても昔はあまり思わなかったのですが、花を段々と好きになって花に何かを見るようになっているのかもしれません。

若い頃の涙は痛い目にあった涙・悔し涙・感動しての涙の順に多かったように思います。

最近は感動しての涙が圧倒的に多い気がします。

他愛もないことに涙を流す自分が存在します。

至らぬ自分を心配してくれる言葉や態度で涙を流したり

自分を捨てて他人を助ける言葉や行動

年齢に関係なく若い方で素晴らしい行動を実践している方の話

年老いて我唯足ることを知りえた方の他人への感謝と敬意を払う行動

自分のことではなく誰かを救ってもらいたいとお参りされる方

赤子や小さなお子様にあらわれる神仏のようなしぐさや姿

小さな子供の口からでるほとけさまのような言葉

年齢と共に失われていく仏性を体験や知識の集積で体現されておられる方

自然の美しい景色、花が咲くだけでも涙が出ることがあります。


 言葉を言い換えるとただ単に涙脆くなっただけともいうのかもしれないです。

 最近は涙が出るのを昔ほど恥ずかしくないように思えてきました。むしろ誰かが何かをするとき自分はそれで涙を流して喜びたいと思うようになっていきました。

 客観的に見ればただの自己満足の押しつけなのでしょう。
人の行動を見て感動の涙を流したい、その先は自然に思うのです。自身の思いが綺麗で他人のために労力を厭わない、自分だけがよくなるのではなくできれば皆が良くなるように。

 誰も独りよがりな思いに共感する人は少なく、自分だけに利益がある思いをすることに協力も共感もしにくいものです。独りよがりな行為で失敗した場合には後悔しか待っていないのかもしれないです。助けてくれる方も少ないのかもしれません。

生きていくうちに失敗はつきものです。むしろ失敗を恐れ何もしないと思う人もいるのかもしれません。

その場合、良いことにも悪いことにも会わないでしょう。悪い事を避けて通れる道がわかるにはどうやったらよいのでしょうか?良いことだけ合う道は果たして存在するのか?逃げて逃げて良い結果にあうとは体験上あまり思いません。少々の苦労も時が経てば良い思い出になるのは古今を問わず当たり前の話でしょう。

 苦労話もよいですが、皆が聞いて心から感動し涙を流す話ができる人でありたいと願います。

何気ない選択

 朝何時に起きるか、喉が渇いたら何を飲むか、何を食べるか、人と出会って何を話すか、仕事をどのような心構えで行うのか、困った人に出会ったとき自分が何をするか、やらなければいけないことは何か、あえてゆっくりするか、何気ない選択を日々繰り返しています。

 この選択により良いことや悪いことに出会います。良いことに出会うと何気ない選択でも私の選択は間違いではなかった、と根拠がなくても確信してしまいます。
反対に悪い事へ発展すると自身の選択を悔やんだり、ひどい時にはそれを誰かのせいにして何か大事なことや物事の本質・責任の所在から逃げ続ける人もいます。

 今まで私はいつも誰かが教えてくれたとおりにして上手くいかなかった時はすぐにその人のせいにしていました。上手くいかない方法をわざと教える人は少ないです。
ほとんどの方は相手が困らないように良い解決方法を教えてあげなければと頭を働かせたり実行で示したり、自分が失敗して大変な目にあったことがあるから相手が少しでも困らないようにと、大抵相手を困らせようとは考えてもいないです。

 親切に教えてあげて上手くいかなかった時は教えた人が教えられた人に怒られる。正直親切にして怒られることがあるなら親切をしないほうがましだとなり、教えてあげる人も段々と少なくなっていきます。
そのような簡単なことですらなかなか気づきませんでした。
また良いアドバイスをいただき、大成功を収めたり、人に感謝されたりすることもあります。それを自分の力だと勘違いすることばかりでした。

 仕事を始めて間もない頃、自分はなんでもできると思っていました。出来ていないのに出来ていると胸をはり、出来ていない点や矛盾点を指摘されると逆に怒ったり、相手がめんどい人だと決めてしまう。

 相手がこちらをまだ若いからこれからだからと優しく包んでくれて感謝を持って接してくれたり、会社や上司を立ててこちらの問題点を悪い問題とせず我慢・辛抱してくれていたり、つまりは出来ているのは一般の方であり出来ていないのはいつもこちらでした。

不出来な私の若い頃の何気ない選択は、成長をしない・迷惑をかける・理解できていない・・・まあ数え上げればきりがないのです・・・

 最近気づくことがありました。何気ない選択をどなたも行なっているのは先に述べた通りです。

 周囲の方で自然に選択している程度が遥か高い人がおられます。
接したり、見たり聞いたりしている本人がその人の程度に気づくか気づかないか、この差は果てしないものです。ある程度の見解や思いや実行にでなければ、全か無かの法則と同じようなものです。

 周りの方がどれだけ遥か高いパフォーマンスを発揮し続けていても、あらためて当の本人が誰よりも気づかないようではそこの場所にいないのと同じです。

 わかりやすい例えでいえば、同じ給料を払って二人を雇う。
片方は遥か高いパフォーマンスつまりは給料の2倍以上の働きをし続け、あとの一人は給料の半分以下のパフォーマンスを発揮している。

思うに二人とも考えていることは同じです。どちらもこれで良いと思い何気ない選択を実行しているだけなのです。

 先日、常日頃からお世話になっている方に、感謝の言葉や気持ちを伝えなければと思っておりました。
何かお礼をする機会がありましたので、感謝の言葉と気持ちを伝えました。
大変びっくりされているようでした。

その方に私がいつも思うことは、「いつも何から何まで有難うございます。できればいつまでも一緒に仕事をしたい。」そう心から願うのです。その方に何か特別なことをして欲しいとは思いません。

その方は「有難う」とその後に「私はこれから何があっても見捨てない。」そう言っておられました。

愚かな私の何気ない選択の中にたまにはいいこともあるみたいです・・・

 その方の見捨てないという意味は日々一緒にいるからよくわかるのです。こちらに不手際・悪い点があったりして皆が見捨てようとしても私は見捨てないという。他の誰もが理解できにくい結論です。

その方の「何気ない選択」はいつも私の考えや思いを遥かに超えていきます。

 私が努力をしない・迷惑をかける・悪いままといった現状のままでは不出来な私を信頼している人に果てしない迷惑をかけます。

「何気ない選択」は時に悪いこともでてきますが、涙を伴う感動や人まで動かすこともあるようです。

 本人すら気づかず考えずに又は考えて行なっている、日々の「何気ない選択」、

どうもこれは「自身と周囲の未来への選択」なのです。

 皆さんそれぞれ長短あり、悪いことが沢山ある点も深く理解した上で信頼し優しくつつみこみ、その方の「何気ない選択」を後押ししてくれる人がいます。

 自身の程度に気づき周囲の程度に気づき、自身が日々答えを出す「何気ない選択」の程度は信頼してくれる人がいるのであれば、また信頼を得たいと心からおもうのであれば、自身を信頼する方の未来をも左右することを誰よりも自覚し、不出来な自分を信頼し支えてくれて、「今は不出来でも、必ず貴方の選択は間違いではない。」

そう胸を張っていうことのできる程度の「何気ない選択」を日常において連続して出していきたいのです。

あいさつから

あいさつを必ずしなさいと言われて育ちます。
子供は正直ですので通りすがりの人にも簡単に大きな声で挨拶をします。
大人である私のほうが素直でなく大きい声であいさつすることをためらうことや出来てないことがあります。
ことあいさつ・会話に関しては女性の方が男性よりたけていると勝手にきめつけて逃げたりしていましたが、逃げないようにしないといけないです。
大人のまえは子供その前は幼児その前は赤ちゃんです。
赤ちゃんはしゃべれませんがその笑顔や表情はどんな言葉にも勝ります。
 私がにこっとしても通りすがりの若い女性はみむきもしてくれませんが、子供や赤ちゃんはその存在だけで圧倒的なパフォーマンスを発揮して若い女性だけでなくどんな方も一瞬でひきつけます。
そう考えると大人でも笑顔のみで人を惹きつけれるのでは?と考えますが、赤ちゃんや子供の様なよこしまなことをかんがえない、腹になにもないような表情ができるとすれば、その人は神様仏様かもしれません。しかし笑顔は無いよりあったほうがいいのは当然です。

人間である私は原点に帰り、あいさつからやはりはじめないといけないと痛感させられるのです。

好きな人に向かうあいさつは、あいさつ以上のものをのせてどなたでも出来るはずです。
普通の人にはまあそれなりに、悪い人と自身が思う人であれば、あいさつそのものすら避けたいと思いがちでありますが、そのような人に向かってこそ気持ちよくあいさつをすべきだと気づかされました。

 自分の好き嫌いというのは相手に存在するのではなく、自身の心中において存在し、存在するという存在が悪い方向へと導く場合が体感上多いように思われます。

 自身が苦手とする方への本当の解決策は、その方に率先して接触し会話するのがいいのですが、苦手な人にいきなり会話は難しいものです。やはりあいさつからはじまるものではないかと思います。

人は好きなことには労を厭いません、まずは嫌いなことを克服できればより良い過ごし方ができると信じています。

「努力はいつか身を結ぶ時が来ます。」