お月様

 今日は一日仏教について話をすることばかりでした。右を向いても左を向いてもというような具合でした。久しぶりに外へ出ても、やはりそれ一辺倒で終わりました。

何もないけれど、いろいろある日で、それは終わってみれば何もない日です。

ただ誰かが他人へお世話を焼いて、そのつもりもないのに相手は自らが焼いたパンをもらっている光景を見かけました。私の愚かさを気づかなければいけないのに、目をそらし、意地を張り、損をしながら前に進む日でもありました。

見知らぬ方に仏教のことを聞かれ、また私は自ら(愚かさ)を棚上げして、幾つかの比喩をもって一つの自らが信じる真理を言葉をもって指さすのです。

それは言葉は違うのですが、「あそこの美しい月のようなものです」といったものです。

指月のたとえが何か今後また詳しく調べておきますが、時に人は真理に心奪われ、愚か者が意味も分からず真理を指させば、その指さす方が賢者であるかの如く錯覚をします。

錯覚は錯覚です。

愚か者(の私)は愚か者(の私)です。

真理(法)は真理(法)です。


私は愚か者です。けれどあの美しい月に心奪われてばかり、何かあればそこから力をもらうこともあります。


「みなさん、お月さんが奇麗ですよ(あれこそが真理ですよ)」




それは、私にとっての理想で、遠く及ばない対極に位置するかの如きものの言えることではないのですが、私はそれを言わずに存在できない愚かな存在といえるものです。
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再度

 少し前のことです。いつも仲良い私と家内ですが、大抵大きな問題に発展する時は、普段無口な家内が少ない言葉ですが自らの品性を害うことを発言したときに、いさかいが起こります。これは結婚したばかりの若かりし頃や結婚して何年も経って私自身が私自身のことを気づいていない時は、大問題となることばかりでした。 

疾走する車輪を止めるように、まさに起こった怒りを〔制する〕者を、わたしは名づけて馭者という。その他の人びとは手綱を手にする〔にすぎない〕。(法句二二二)
ひとは怒ることなくして怒りに打ち勝ち、善によって不善に打ち勝ち、与えることによって物惜しみに打ち勝ち、真実をもって虚言に打ち勝つがよい。(法句二二三)
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著


先生の著作を目にしたとき、怒りにたいする解釈は途方もない衝撃を受けたことをはっきりと覚えています。

 怒れる者に対して怒りを返さないという態度は一応、倫理的なことがらに属する。ところが、まさに起った怒りをみずから制するというときには問題の場面は対人関係から自己自身との関係へと移り変わってくる。そこで説かれたのが法句二二三の詩句である。ここでは、もはや限りない自己との闘いが教えられている。みずからの怒りに打ち勝つことのできない者が、どうして他の者の怒りに耐えることができようか。みずから不善に打ち勝つことができずして、どうして他の者の不善を指弾(しだん)することができようか。みずから与えずして、どうして他の者が与えないのを非難することができようか。みずから真実を語らずに、どうして他の者に真実を語れと要求することができようか。このようにたたみかけてくるブッダのことばは、まことに厳しい。
前同 宮坂宥勝著


衝撃を受け感動したとしても、それが私に実行できるかというのは別のことです。怒りの中にあって怒りに染まり、怨みの中にあって怨みに染まり、悲しみの中にあって悲しみ、愚かさの中にあって愚かさそのものというのが私の基本的な過去からの現状で、皮肉ですが、まことに厳しいものです。

   一五 静安の章
 一九七 われわれは怨みをもつ者たちの間にあって怨みを抱かず、よく心やすらかに生きよう。われわれは怨みある者たちのあいだにあって、怨みを抱かずに生活しよう。 
 二〇六 高貴な人を見るのはよいことである。〔高貴な人と〕共に暮らすのは常に楽しい。愚か者を見なければ常に安楽となろう。
 二〇七 愚か者とともに道を行く者は長時に憂いがある。愚か者とともに暮らすことは、敵とともに〔暮らす〕ように、常に苦悩である。賢者は幸福に一緒に暮らす。たとえば、親族の会合のように。
 二〇八 賢く、智慧あり、広く学び、忍耐強く、礼儀正しく、高貴で、聡(さと)き人に従え。たとえば、月が天体の軌道に従うように。
前同 宮坂宥勝著


過去の私の現状からすれば幾分ましになったとはいえ

「誰が賢者で誰が愚者で、いったい私はどのようなものであるか」

この問いすら出る気配もなく、仮に出たとしても愚者を賢者とみたり、賢者を愚者とみて、愚か者の私を賢者と判断することばかりで、つまりは判断・思考が転倒し(逆さまにみ)ていることばかりです。

物事や誰か、つまりはあたりまえのものをあたりまえにみることができるかということは、私にとって最大の難問であり課題となっています。


次はよく聴くに徹するか、理解できていないことは理解できていないと真摯に告げるか、理解したふりをして賢者のふりをすることはやめなければいけないというだけのことです。

本当にあたりまえのことが私には重くのしかかるのです。

身勝手な認識

  六月十七日 土 (晴)
 本日も晴天なり。ただやはり(梅雨には)雨が降らないと困ったことになりそうです。
今日の仕事も一つずつ無事に進み、つまりは順調に一日を終え、阿呆なことを言って大笑いして、帰って酔っぱらって、家内と次男に散歩へ連れていかれ、それに少し反論をすると

「お父さん一緒に行こうって言ってくれるうちが華だし、子供が小さい頃から『お父さん一緒に』そう言っておかないと、歳をとっておいていかれるよ」

「それも一理あるけど」

ということでしばらく夜の散歩を涼しい風が吹く中を楽しみ、明日の食材を購入して帰ってきました。

また今日は(お寺や神社や仏や神さまへ)お願いとお参りについて、遠くから他者を客観的に納得する日でした。

しばらく前にお地蔵さまをお参りされる小さな子供を連れた母子をみて、お母さんが(特に水子様を守ってくれる)お地蔵様へお参りされ、幼い子がそれをつたない足取りで真似をしているのだけれど、完全に真似できず、ただ去り際に「のんのんさん」(またのうのうさん、まんまいさん)そう言うような感じで手を合わせ駆け足で先に行く母をかけてついていく姿をみて、何かを感じていました。

「お参りする」こと、「お願いする」こと、誰かが誰かのしあわせを願うことは共通していることですが、その誰かが亡くなっていれば、時にそれは祈願と呼ばれたり供養と呼ばれたり、祈願と供養では同じようにお参りしても随分と感じが違って私にはみえます。

誰かが先にいってしまい、その方の供養としてのお参りであればそこがお墓でなくても、その先にいかれた方にあえたような感じに近いお参りもあります。

誰かが生きていてまたはこれから生まれて欲しいその方のための願いであれば、離れていてもその方と共に幸せに生き続けたいという感じに近いお参りもあります。

もの言わぬ仏像(石仏・木造・その他)へ、他人へあまり言わない心からの願いをもの言わぬ仏像が「わかりました」そう言ってくれたと世の中に生きる人が認めなくても、お参りする方がそう少しでも認識できれば、少し肩の荷も軽くなり、少し笑えて、お参りする前よりも楽に生きていくことができるなんて思っていないのに思っているなんて私は感じていました。

「お参り」を「おたのみ申します」そのように雰囲気として感じられることもあれば、「自らの現状のご報告の場」として、「私は今ここにいます(生きていますよ)」として、「誰かのしあわせを願う」こととして、「自らが願い思う何かへどれだけ手を伸ばせるか」、「情けない自らの心情を吐露する場」として、それが何であれふれあう方が「たくましく生き」、「よりよく生きようと願い」、「美しく生きてきたい」とつながっていければ何でもいいです。


(酔っぱらった)私は皮肉なことを書いています。

生きている誰もがいつかは避けられぬことが一瞬ある。美しく生きるとはその反対すら意味しています。

あの花(続き)

 昨日よくわからないまま書き、花について思っていたことを忘れて読みかけの書に目をやり、ふと違う四国の雑誌が近くにあったので見てみれば、詩がかかれた書の写真がのっていました。

  念ずれば花ひらく

  苦しいとき

  母がいつも

  口にしていた

  このことばを

  わたしも

  いつのころからか

  となえるようになった

  そうして

  そのたび

  わたしの花が

  ふしぎと

  ひとつひとつ

  ひらいていった
                (仏教詩人 坂村)真民


「花がひらく」ということ

誰かが「花ひらく」であれば、違う詩になります。「わたしの花が ふしぎと ひとつひとつ ひらいていった」一つだけでなく複数花ひらく。

きっと死ぬまで、花が次から次へひらき続けることがあれば言うことはないでしょう。
素晴らしい言葉です。まだ私は自らではなく他人に「花がひらく」そこしかはっきりと認識できず、周囲に「花ひらく」方がいて、私はそこできっと私であることを確固たるものだと信じることができそうです。
私にとって自らができることを続け周囲を信じて、よくなるように努力し、身近な方達にひとつひとつ「花がひらいて」いけば、私ではなく誰かの花が咲くことを念ずれば花ひらく、タイトルである「念ずれば花ひらく」は誰かのために上から言うのではなく相手を信じて言葉を超えたものとして使うことが相応しいと、思っていました。

私の変な思いはともかく、引用した詩は素晴らしいものです。


あおい青い青い空

 本当は最大の私の武器は「能ある鷹は爪を隠す」を体現するならば、私は仏教関係を出さない私である方が、「能ある鷹」であるのです。

私は「物惜しみ(ケチ)は何によって、滅びるのか」

その答えはお経にあるように

「それはただ、与えることによって滅びる」

私は物惜しみ(ケチ)を隠すために、能ある鷹(賢者)であることを放棄して、愚者である道を選ぶしかないのです。
(昨日の記事の補記も含めここにそれを記すのです)

六 賢者の章

七六  〔自己の〕避くべきことを指摘し叱責する賢者を見れば、このような賢者に会うことは、宝 〔の在りか〕を示す人のようにちがいない。そうした人にしたがう者は利益があって損失がない。

七七  戒めよ、教えよ。そしてなしてはならぬことを避けるがよい。 〔そうすれば〕かれは善き人の愛好するところとなり、不善の人の愛好しないところのものとなる。

真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



八 千の章

一〇九  常に長老を尊敬し、敬意の徳ある者には、年齢・容色・安楽・力の四つの法(もの)が増し加わる。

一一〇  また、たとえ百年生きても、悪戒で放縦であれば、一日生きて戒を有し、静慮(じょうりょ)のあるほうがよい。

一一一  また、たとえ百年生きても、智慧悪しく努力をすてたならば、一日生きて、智慧を有し、静慮(じょうりょ)のあるほうがよい。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



悪の章

一一六  人は、善に急ぐがよい。悪より心を防ぐがよい。善〔をなすこと〕を怠れば、意(こころ)は悪をよろこぶ。

一一七  たとえ悪しきことをなそうとも、再三〔悪を〕なしてはならぬ。それを欲するな。苦悩は悪の集積である。



さて、私の言葉より私の目を覚まし、この世で最大の敬意を払う宮坂先生の言葉をもってあらわすことにします。
(引用の書の冒頭をもって)

法句経のあらまし

 漢訳で『法句経』と訳されている経典に相当するものは、パーリ語の『ダンマパダ』である。「ダンマ」は真理、理法、さらには教えという意味がある。「パダ」は「ことば」。別の解釈によると「ダンマ」はさとりの意味の涅槃(ねはん)、「パダ」は足跡とか道を指す。そこでさとりへの道(涅槃ねはん)と解される。しかし一般には「真理のことば」という意味を採るので本書もまたそれにしたがうことにした。
 全文、韻文より成り、五百、七百、九百の韻文を持つ三種のテキストがあったと伝えられるが、現存するパーリ文は二十六章四二三の韻文からできている。もっとも重複するものがあるので実数は四二二である。



さらにその前文に

仏教の比較的古い伝承によると、この『ダンマ・パダ』は、ブッダ(釈尊・釈迦牟尼・ゴーダマ・ブッダ・バウッダダンマ)がじかに説いた真理のことばをダルマトゥラータ(法救ほっぐ)が撰集した珠玉の詞歌集である。それは仏教の根本教説にもとづいて、日常生活の智慧を教え、人生の究極の在り方を端的に示したものである。十九世紀のなかばに、この経典をラテン語訳して最初にヨーロッパに紹介したデンマークの碩学ファウストベールは、これを「東方の聖書」とよんだ。まことに一々の詩句は簡明な古代的表現のうちに無限の滋味と、はかりしれない智慧をたたえ、一語一句はブッダその人の偉大な宗教的人格を伝える独特の響きを持っている。わたしたちがこの明澄な韻律にとむ『ダンマ・パダ』をひもとくとき、古代インドの深く澄んだ青空のもとで淡々と語るブッダにじかに接する思いがするであろう。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



インドにも突き抜けるような青い空があるように、中国においても同様の青い空があるように、わたしたちの住む日本にも青く青く果てしなく広く高くどこまでも続くような青い空があり、そこに住む人すべてがその青い空をながめ、そこに何かをみるのです。


私はあのどこまでも貫いていく青い空を貫いていく真理に手をただひたすらに手を伸ばし、その真理に手を伸ばし続ける、高貴な子供でありたいです。

黒髪常に黒からず

「若いころから歳をとるまで、素晴らしいことをやっていた(のだから、多少の悪いことはしてもいい)」
そんなことを最近耳にして、こころがいたくなりました。確かに過去に成したことが素晴らしいことは誇れることであり、功績でもあり、名誉なことです。
だからといって「無条件で悪いことをしてもいい」という結論は世の中ではとおることはないです。謙虚さと感謝と自らの分をわきまえることは、どの場においても必要不可欠なことです。
反対に素晴らしいことを沢山なされてきて、今もなお人の役に立つことをされる方がいて、その方は「たいしたことはしてないから、気にしなくていい。好きでしていることだから」そう言ってお世話をされ続ける白髪の方がいます。
善と悪のどちらかにならなければいけないという話ではないです。どちらにできれば近づきたいか、またはその中間でもいいと思います。

白髪をいただくから長老であるのではない。かれの齢(よわい)はふけただけのことで、いたずらに年老いた者といわれる。
(法句二六〇)

真実と理法と、不殺生と、自制と、節度をそなえた者は、汚れを離れた賢い長老であるといわれる。
(法句二六一)
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋


続いてその解説に宮坂先生は

常識的にいって、年長のものを尊敬しなければならないことはいうまでもないであろう。しかし、ブッダは無条件に年長者を敬えといっているのではない。白髪をいただく者は、そのゆえに長老と称せられるのではない。人間としての真実の智慧を欠いてただ年老いた者は、まるで牡牛が年とともにいたずらに肉を増すようなものだ、とブッダは説いている。世に長老として尊敬されるためには、清らかな賢者であらねばならない。それには真実と理法と不殺生と自制とを具えていることを不可欠の条件とする。



心の底から年長者として尊敬できる方達が近くにおられます。ただ年長者故に一人ずつ亡くなられていかれます。私はできれば身の程をわきまえ、余計なことを言うのでもなく、感謝やすみませんとさらりと言える年寄になりたいと考えます。
ただこれは若い頃、現在もこれからの私の言動が左右していくものになります。これからもし有り難く長生きできるのであれば私自身の日々のこころのありかた、思考、願い、優しさを見つめ、できればいつでもそこに手を伸ばせばとれるような私でありたいです。

善と悪

 近くに「揚げ足はいくらでもとりようがある」そんなことを教えてくれる方達がいます。仕事を沢山していれば誰にだってミスは出ます。加点方式であれば、仕事を沢山こなして数少ない悪くなることより数多い良いことがあるのであれば、問題にもならずそれは正当な評価につながります。
ただ成された正しいこと、良いことを一つもカウントすることなく、僅かな過失でさえカウントすれば、答えは決まっていて、仕事を人より少なく行い、また間違いにくいことだけ行えば、良いことや職場を支えたり、皆に貢献することさえなくても、していない人のマイナスの揚げ足は、仕事をたいしたことをしていないという追及さえ交わすことができれば、「揚げ足取りの達人」や「後出しジャンケンの達人」その結果、その方にはもれなく「根性(や意地が)が良くない人」という見えないけれどみえる称号が似合うようになります。

他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は見難いものである。実に人は他人のもろもろの過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らすけれども、自分の過失は覆いかくす。たとえば、ずる賢い博徒が不利なさいの目をかくすように。(法句二五二)
他人の過失を探し出し、常に苦情をいう者に、かれの汚れは増し加わる。かれは汚れの消滅から程遠い(法句二五四)
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



先日悪人の輪郭を描写する法句経を近くの人達と再度読み直しながら、善と悪またその捉え方、その判断基準、また自らが善と悪をどのように考えているか、その報いなどの話をしている時

「善の行為に比べれば、悪の行為の数が圧倒的に少ないのに、悪の影響力が強すぎる・・・」

そういつも私に優しい方が自らのこれまでと今の現状をみて教えてくれました。私なりの答えを出したところでその現状や影響力は何一つ変わらないのですが
「善とは、自らと周囲とこれからを助けるものであるから、大切なもので尊重されるもので喜ばれる。けれども悪は悪をなす人もその周囲をも甚大に被害を及ぼすという、生命や財産などの危機的状況をもたらすことが多いから、比率で悪が少なくても一つの悪事が相当な損傷を周囲に与えるから、同回数であればとんでもない現状になり、善10:悪1だとしてもかなりな被害がでるのだと思います。

更に周囲のことを考えてくれれば問題にならないのにといくら願っても、悪を行う人は自らの利益や損得を優先するから他を顧みることができない。馬の耳に念仏になることが多い。」

自らの責任だけで終われることばかりなら、誰もが放っておけば問題ありませんが、悪というのは他人の利益や名誉や持ち場や信頼を傷つけることばかりです。


他人のことでも本当に考えさせられ、自らの上に降りかかればとんでもない事態です。

尊敬を受けるに値するとは

 どの職業でも一流であれば、その方はどなたでも尊敬や供養を受けるに値する方として世に生きる方は認識し、時に財や身体的努力や惜しみない信頼を与えてやまない方もおられます。

今日のジャンルは仏教関係ですから、他の職業の方は(失礼を承知で)ひとまず横に置き、仏教における言葉を現実において縦横無尽に法を説くことができる仏教者つまりは僧侶(お坊さんと呼ばれる方)のことになります。

三八七 日は昼間輝き、月は夜照らし、戦士は甲冑を身に着けて輝き、聖職者は瞑想して輝く。目覚めた者は威光によって昼夜いつでも輝く。

三八一 たとえ年若くても、目ざめた者(=ブッダ)の教えに励む托鉢者は、この世の中を照す。あたかも雲から出た月のように。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



一般の方が自らの財施(金銭による施し)を惜しまないことの代償として、仏教者(宗教者)は自らの獲得した真理(智慧)を隠すことなく余すことなく(聖者に握拳なし)、眼前にいる方が「たくましく生きるために」また「よりよく生きるために」さらには「美しくいきるために」そのための真理を財施の対価として出すことが決まっています。

これによって財施=法施が両立することとなり、双方が美しい関係として生きていくというあたりまえのことですが成されていくのです。

世の中において、あたりまえのことをどれだけ深く広く高く、どこまでも貫いていけるか、善い意味での底無しであれば、その底の深さだけ真理の高さが出現することになります。


私は夜空に浮かぶ女性の美しい細い眉のような月を見て、手を伸ばすのです。


あの高みに手を伸ばし続けるのです。

輪郭

「何が善悪の判断基準なのか」
ずっと以前にそんなことを問われたことがあります。それに対して曖昧な返事、いや不正確な返事をして後悔した思い出があります。
有名な過去の仏教者ならば「十善戒にかなえば善となり、そむけば悪となる」のような短い答えを出されています。

不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。
不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。
不邪見(ふじゃけん) 誤った見解を持たない。



「自らと他者を害することが悪」だと、そう最近であれば考えます。ただ細かいことや小さい問題であれば判断は善悪のどちらかに属さなければいけないなんて極端にとらわれる必要もないことです。

一  もろもろの物事(法)は意(こころ)が先に立ち、意が最上なものであり、意より成る。人はもし汚れた意で語り、あるいは汚れた意で行うならば、それより、かれに苦悩のしたがい来ること、あたかも車輪が索獣の足にしたがうようなものである。

二  もろもろの物事(法)は意(こころ)が先に立ち、意が最上なものであり、意より成る。人はもしも清らかな意で語り、あるいは行うならば、それより、かれに楽しさのしたがい来ること、あたかも影が形に絶えずつきしたがうようなものである。

一一 真実ならざることを真実と認め、真実を真実ならざることと認める者たちは、真実を知らず、虚妄の思惟に住する。

一二 真実を真実と認め、真実ならざることを真実ならざることと認める者たちは、真実を知って、正しい思惟に住する。

六二 愚か者は、「わたくしに子供たちがある。わたくしに財産がある」と悩まされる。自分すら自分のものでない。どうして子供が自分のものであり、どうして財産が自分のものであるか?

六三 誰でも自分が愚かであると考える愚か者は、その限りではまた賢いものである。しかるに自分が賢い者であると考える愚か者はまさしく愚か者だといわれる。

六四 愚か者は、たとえ一生の間賢い者に仕えても、かれは真理をしらない。あたかもスプーンがスープの味をしらないように。

六六 無知な愚か者たちは自分を敵として振舞い、悪しき行為をなしながら、渋みのある結果をもたらす。

六七 なしてしまってから自責の念にかられ、その者が顔に涙し、泣きながら報いをうけるような、そのような行為は立派になされたものではない。

六九 悪が成熟しない間は、愚か者は悪を善のようなものであると考えている。しかるに悪が成熟している場合、その時、愚かな者は不幸な目にめぐりあう。

七一 なされた悪は、あたかも牛乳が突如として固まることがないように、灰に覆われた火のように燻りながら愚か者にしたがう。

七二 愚か者の思慮が他人の不利益のために生ずる限り、愚か者はその輝かしい自己の運命を損ない、かれの頭(こうべ)をうち砕く。

一一九 悪が熟さないかぎり、たとえ悪者といえども楽しみを経験する。しかるに、悪が熟するや、そのとき悪しき者は、もろもろの悪を経験する。

一二一 「わたしについにそれ(悪の結末)はやって来ないだろう」と、悪を軽く見てはならない。水滴が落ちて水がめを満たすように愚か者は少しずつ悪を積みながら、悪でいっぱいになる。

一二五 人は、正しい者、清らかにして汚れなき者を損なえば、悪の報いはほかならぬ愚者に返る。あたかも向い風に投げた細かい塵のように。

一二七 空でも、海のまんなかでも山々の洞穴に入っても、この世界の場所で人が悪の行いから逃れるところは何処にも存していない。

一六一 己によってなされた悪は己より生じ、己より生じたものである。それはあたかも金剛石が宝石を砕くように愚か者を粉砕する。

一六三 もろもろの好ましからず、また自身のためにならぬことどもは行い易いものである。自身の利益になり、しかも好ましいことは行い難い。

二四〇 鉄よりのみ生じた錆が、鉄より生じて鉄を損なうように、罪をなす者たちは自身の成した行為のために地獄に導かれる。
真理の花たば 法句経入門 宮坂宥勝著作より抜粋



幾つか引用するつもりが、引用しすぎましたが、私自身痛い言葉ばかりです。特に愚か者の章は私にとって激しく痛い言葉です。
輪郭を作るお経の言葉を幾つか引用するつもりが違う方向の輪郭をえがいてしまいましたが、それはそれで今日はよしとします。

不染

 うまくいかないことや、予測できないこと、自らがどのようであるかわからないこと、迷い・恨み・泣き・わめき・愚か者の代表である私は、身の程を弁えていないが故に、自由な発言をする日でした。
もっとも自由すぎて、身の程を弁えないが故に遅れていろいろなことが更に押し寄せ、その押し寄せる波にもみくちゃにされる日々です。

久しぶりに外で自由な発言をする日で、その場を与えてくれた方々に感謝しています。自由な発言ができることを受け止める場や人でないと、人は自由に楽しく発言することなどできず、まして時に笑いあうことができる場であったことはしあわせなことです。

招いてくれたお二方に、思い立った瞬間をわすれないものを作り上げていただければと願う日でもありました。成功しても失敗しても、私の愚かな考えであれば、皆で「あれは楽しかったな」となればよいのではないかと子供のような考えしか浮かびません。

先に一つの答えを書かねばいけません。
きっと苦しみに迷い悩みもがくとき、泥にまみれる汚れる。ただそれが泥だと認識し、その泥から美しい蓮を咲かせていく。ど根性をもってまみれて咲く花は、きっと白い華というより、何らかの色がつく、それが染められてもないのに、この世に美しく咲く色とりどりのつまりは百花繚乱の華々となり、そのどれも(何色でもよく)があるからこの世は美しい。なんて増谷先生(の著作)を思い出させられました。

さすれば、結果は文中の眼目となり「法を見るものが、私を見る」その法と私は誰でもなにでもいいですね。

そんなことを最後に言いたい日でもありました。

花飾り

 よくよく考えなくても、好みがあり、苦手なものがあり、どちらかと言えば好ましい方を好みます。(何をあたりまえのことを書いているなんて思うでしょう)。

人でも物でも景色でも、あまり他所へ行かない私にとって、たまたま手に取った書物が気に入らなければ真剣に考えることもなくとりあえず一通り読んでみたというくらいになります。何冊も何冊も書物に目を通すと私の好む傾向が出現していて、これもまた好めない傾向も同時に同じ幅や高さだけ出現しています。
好む世界の広さ・幅・高さ・永遠のように思えれば、その反対のものも極端に嫌がるほどとなっています。だから知り合いから、その本はどうだったんですかと聞かれれば、好ましい本は感動やきらめきと共に饒舌に語ります。

最近読み始めた華厳の本の「はしがき」にその疑問が氷解することが書かれていました。

このシリーズの企画に参加するまでは、アビダルマ・中観・唯識・華厳のいずれにも強い関心をいだきながら、まともに取り組む機会にはめぐまれなかったのだが、このシリーズに執筆された専門家の方がたの論文と、その論文をふまえた執筆者との対談によって大まかな検討をつけておいて文献の検討にとりかかるという段取りで、はじめに華厳からてをつけることにした。
 そこでまず華厳に関する最近の研究書を入手しうるかぎり集めて読んでみたのだが、中国古代に確立された伝統教学に乗っかった煩瑣(はんさ)な議論が多くて、華厳思想の底深い迫力に接したいと願う私の期待は必ずしもかなえられなかった。
 しかし、考えてみれば、これはあたりまえのことなのかもしれない。研究書というものは、宗教にかんする研究書であっても、それ自体が宗教書ではないのだから、それに迫力などを期待する方が見当ちがいなのであろう。空海(くうかい)や道元(どうげん)の書いたものに一種の迫力が感じられるのは、それが抜群の研究書であると同時に宗教書でもあるからであろう。
仏教の思想6 『無限の世界観〈華厳〉』 鎌田茂雄 上山春平著


上山春平氏は「迫力」と書かれておられますが、私はそれを「(智慧の)光」や「まぶしさ・きらめき・雷(魂がゆさぶられるような衝撃)・(段階に応じた)目覚め」などその時に応じ譬え方や呼び方話し方が変わり、いずれにせよ衝撃が全身を駆け巡ることは確かです。以前に引用した文章ですが

初期の大乗仏教徒はいまだ整った教団の組織を確定していなかったし、細密な哲学的論究を好まなかった。むしろ自分らの確固たる信念とたぎりあふれる信仰とを華麗巨大な表現をもって息もつかずに次から次へと表明し、その結果成立したものが大乗経典である。大乗経典は、それ以前に民衆の間で愛好されていた仏教説話に準拠し、あるいは仏伝から取材し、戯曲的構想をとりながら、その奥に深い哲学的意義を寓せしめ、しかも一般民衆の好みに合うように作製された宗教的文芸作品である。
 『龍樹』 中村元 著 (講談社学術文庫より抜粋)


今になって『大乗経典』を中村先生も「宗教的文芸作品」と同様の言葉で表現されています。

気が付けば、書物に迫力のある書でないと満足できなくなっていたり、そこに(智慧の)光を求め、私が現実世界で狭い行動範囲や束縛の多い場所にいるということから、瞬時にその迫力のある世界や光の世界へ自由に行くのです。こうであれば、現実に私がどこで何をしていようと、求めればそれは手が届くというよりその中にいます。

あの広く高く果てのない青い空をみて、そこに何か貫いていくものをみるのです。

花と雨

 四月八日 (土曜) 晴れのち曇りのち雨

桜と桃の花が綺麗で、ブッダの誕生日です。花まつり・降誕会・龍華会・灌仏会などとも呼ばれています。日本においてお寺のない地域はほとんどないに等しいでしょうから。きっとクリスマスより盛大に皆が祝っているでしょう、なんてことはなく一部の仏教を信奉する方において営まれ祝われています。

お経の描写にルンビニーでブッダ(お釈迦様)が生まれられた時は甘露の雨が降り注いだり、生まれてすぐに七歩あるいて天と地を指さし
「天上天下唯我独尊」
師はこれをこの世に生まれた全てのいのちは何よりも尊いものであるの様に訳されていました。自らのいのちも尊く他者のいのちも尊く生きとし生けるもの全てが尊い。

ただ生まれてすぐの子供がこんなことを言うはずはありません。これはやがてこの世で初めて偉大なる覚り(智慧)によって仏教をこの世に広めることになった方を称えるために、通常の人間ではありえないことが付加されています。
およそお経には比喩が頻繁に使われ事実でないようなことが書かれています。それは私達が心からお世話になって大好きな方が輝いてみえたり、幼子の笑顔に光を感じる、この上なき正しい覚りを制約のある言葉であらわそうとしたとき、現実的な制約を超えた比喩をもって何人もの方が書かれたことが後世に残って伝えられています。
お経から伝説と事実の切り離して、純粋に仏教を伝えることは難しいというのが最近の仏教学の間でも通例になっています。
簡単な例えだと、大人になり偉大になられた方が、子供の頃は神童と呼ばれていた。その上位表現方法です。

ブッダは生まれて間もなく母を亡くし、養母に育てられることになります。思索にふけることの多い少年であったと伝えられています。何不自由のない王家の家を出て沙門(シュラーマナ)となり、あばらや血管が透けて見えるほどの苦行を乗り越え、ブッダガヤ菩提樹下の金剛座の上で無上正等覚(正しい目覚め「覚り」)を開き、その金剛座の上から仏教は始まりました。

仏教教団が誕生することになったのは、苦行を共にした五人の比丘(修行者)に説法し、五人が羅漢になってから教団となりゆるやかにインドに広まっていくことになったのです。

インドから南に伝わるルート(セイロンやスリランカなど)、インドから北から西域を通り中国へ伝わるルートなど、長い時間をかけ仏教はその土地に根を生やし、寛容融和に土着の思想や宗教儀礼を取り込み、一神教のように他の宗教を滅亡させることもなく、中国から韓国そして日本へ、現在は情報化社会ですからそれよりもさまざまな伝わり方で多種多様な形態の宗派を持ち、ただどもれが仏教という名前を持っているのは確かなことです。

私の実家は禅宗の檀家ですが、私は真言宗を信奉し現在に至ります。そのルーツを行きつくところまで辿ればやはりブッダ(釈尊・お釈迦様)へたどり着きます。

ですので今日は、家族一同でお祝いしケーキを買って食べることにしています。

私「皆今日は花まつりだよ、仏教の開祖であるお釈迦様の誕生日だから、世間では仏教を開かれた人と言えばブッダで知られているから、ブッダに属したつまりはだよ、バウッダ、まあその智慧や真理、つまりはバウッダダルシャナ バウッダダンマ、仏法と訳されるかな今日という日も属されていることを世に生きる人は知っているだろうから皆でケーキを食べて祝おう」

長男「いやバウッダとか今まで聞いたことないし、バウッダダルシャナとか言われてもきっとこれからもあんまり聞かないと思うよ」

私「本屋とかで目にすることもあると思うけどな」

長男「本屋かあ」

他の家族は無口で美味しくケーキを食べていました。

酔っぱらいのような私のたわごとはともかく四月八日の今日、桃も桜も咲き、田畑にレンゲソウが一面咲いており花まつりにふさわしい日でした。



他人事ではなく

 弘法大師(空海)著の一つ、『般若心経秘鍵』その原文ではないですが栂尾祥雲先生の解釈に次のようにあります。

仏法の大綱
かの仏の教法(みおしえ)は遥(はる)けきところにあるのではなく、わが心の中にありて、きわめて近いのである。
真如(さとり)は自らの外にあるのではない。わが身を捨てて、どこにそれを求めることができようぞ。迷いといい悟りといっても、わが心のいかんによることであるから、発心(おもいたち)する一念のうちに直ちに悟りの境地に到達することができるのである。
悟りの光明(みひかり)というも、迷いの暗黒(くらやみ)というも、自らの他にあるのでないからその教法(みおしえ)を信じ、それを修すれば忽ちにして証(さと)ることができるのである。
それにもかかわらず、哀れなるかな、哀れなるかな、いつまでも長い迷いの暗夜(やみよ)に眠れる子(もの)よ、苦しいかな、痛ましいかな、あくまでも無明(おろかさ)の酒に狂酔(よいし)れる人(もの)よ、痛く狂酔(よいし)れるものは、かえって他人(ひと)の酔わざるを笑い、酷(はなは)だしく睡れるものは、さかさまに目覚めたものを嘲(あざ)けるのである。


一般に読誦されることの多いお経である般若心経の弘法大師による解釈をさらにわかりやすく解説されています。

ここは有名な箇所でもありますから、何度も何度も見ているのに、いつだって他人事として見ており、自らが普段の状態で愚かで酔っていることにも気づかず、正しいことをしている方をおかしいと言ったり決めつけたり、さらには自らをみつめることもせず努力している方の足を引っ張るようなことや優しく助けている方の言葉にも耳を貸さず、やるべきことや自らを知ることから逃げ続ける私を現在は思い知らされます。

その続きに答えが書かれてあり

曽て医王の薬を訪(とぶら)わずんば、何(いず)れの時にか大日の光を見ん。



病に応ずるに従って薬を服せば恢復するように、教法(おしえ)を身に修せば、ただちにこの身このままにして覚りうることができる。

そこから般若心経の解釈を進められています。

時折、自らの悪い言動を一つも省みることなく、嘘偽りを多用して、自らの言動から目を背け認めることのない自らの過去から続けてきた行為を関係のない近くの方へ擦り付け、「私は悪くない。悪いのはあの人だ」そのように振る舞い続ける方がおられることを聞きます。人は良くも悪くも信用することから始まる場合が多いため、初めから嘘ばかり言い続けているとは思わない人もいます。
相手が近くにいるのなら、両者の話を聞くことができれば問題も少なくなります。

人を信用する人の美しい部分をあろうことか悪用することを多用する方の話は聞くに堪えないものです。


もっとも私にだってそんな悪いところが大小の違いだけで存在することは確かです。他人事にしてしまえば私も同じようにとんでもない悪人だと思われるだけのことです。


いろいろあって、最近嘘にはこりごりしています。



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稀に書きたくなること

 あれほど感情的になってはいけないというのに、感情的になってしまい近くの方達へ謝罪しました。いつも愚かな私のことを理解しようとしてくれる方は、怒ることはありません。むしろそれは仕方ないことだと言われます。いっそのこと責めてくれれば言い訳もできます。さらに「その現実であったならばそうなってしまう」と私のことを責めません。

先日、以前敬愛する先生が書かれていた言葉の一つ、「妙好人」について調べていました。

浄土系とくに浄土真宗の僧侶ではなく在俗の傑出した一人の人間(信者)のことで、地位・肩書・名誉がないけれど困難悲嘆過酷な現実の中で、自らの中に確固たる宗教観や「仏とは何か」、「真摯に生きるためとは何か」が言葉ではなく、その方の生き方にあらわれた人を他人が見て称える言葉です。あたりまえですが自称では話にならない言葉です。

「妙」とはと天台の思想や教学を調べていれば必ず遭遇します。根本経典である「妙法蓮華」の「妙」とは何であるかということであるからです。

妙法蓮華経という今日の名前はインドの言葉を鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が訳した言葉で、それ以前には竺法護は同じ経の名前であるのに「正法華」と訳しています。

何故に名訳で名高い鳩摩羅什は「正法華」というなまえをわざわざ長い名前に訳したのか、田村先生がそれについて書かれていたことを思い出していました。

正しいという「正」は、善悪における善を指す言葉にとられる要素が存在している。正しいの反対に位置する誤りや不正という反対を意味する相対の言葉を超越していく絶対をひょうげんするために、時代やこの広い世界を縦横無尽に貫いていく真理を「妙なるもの」を意味するために、正しいを避け「妙」をわざわざつけて訳されたといったことが書かれていたことを。

妙好人の「妙」もそのようなことから来ているのだろうかなんて考えていました。だから「妙なる好かれる人」か「妙なる好い人」なんじゃないかなんて勝手な自己解釈をしていました。本当のところは浄土系のあふれでる慈悲と豊かな智慧と強靭な実践力をもった僧侶におたずねすれば簡単にわかるのだろうなんて更に考えていました。

蓮華の如き妙なる真理が書かれたお経、ここでは真言宗である私の蓮華と違う色の蓮華が似合います。何物にも染まらぬ白の蓮華でしょう。

真言宗では燃えるような生命を象徴する赤、真っ赤というわけではなく、美しき(上品な桃色の)赤が似合います。



私は白の蓮も赤の蓮も青も紫も緑もどれもが大好きです。よくわからないけれど、どれもが美しいからそれでいいです。

たまには濃い専門分野の話

 三枝充悳先生の『仏教入門』の中に「仏教者の上(著作・論文・しぐさ・言葉・雰囲気) に仏教があらわれる」といったことが書かれています。
これに仏教だけでなく世間一般にあふれている言葉に要約すると

「母親(又は父親)の愛情というものを手に取ってつかみ取ることはできないが、その母親(又は父親)の仕草・雰囲気・言葉・行動の上に、愛情が目には見えないけれど確かにそこに愛情が存在している。」

よってその職業によってプロフェッショナルや天才であればあるほど、その方の仕草・雰囲気・成している(また成してきたまた話そうとしている未来)に明確なものが存在しそれを周囲は感じることができます。

仏教者(僧侶)であれば、その方の上(身の上や雰囲気成してきたことやその瞬間)に目にはみえないものだけれど確かに存在する仏教が周囲に存在すると認識されることになります。これは医者であれば医学や「あなたこそ医師だ」といったものと同様のことです。無論他の職業だって同様のことです。「あなたこそ本当のその職業の方です」といった言葉になっているだけのことです。

四国に住み、関西より西は大抵今の時期がお盆(盂蘭盆会)です。

お盆は仏教行事の一つですから、(恒例の)仏教押しでいきます。徳島には阿波踊りという盆踊りの一種が全国的に有名です。
諸説ある中、ブッダの直弟子の中の十大弟子である目連尊者(・マウドゥガリヤーヤナ・モッガラーナなどの名称はすべて同一です)は修行の末、神通力とよばれる力を獲得し、その力で亡くなった両親が死後どうなっているか見渡すと、地獄で苦しむ両親がみえ(ここに何故十大弟子となれる目連尊者を育てられた方が地獄へ落ちたかという話の一つに我が子だけを可愛がり、他の子に対して愛情や施しを惜しみすぎたから地獄へ行くことになった。小さな偏りのありすぎる愛情であったということがどこかにのっています。)、両親が苦しむことを助けてあげたいと思った尊者は、師であるブッダ(釈迦牟尼・バウッダ・ゴーダマシッダルッダ・お釈迦さま)へ両親を助けて上げる方法をたずね、ブッダは「惜しむことなく、沢山の方に布施(施し)をすれば両親は救われるであろう」と言われ、その施しが終わり、神通力によってなくなった両親をみれば、極楽で幸せにおられる姿がみえ、手をあげ踊り歓喜して喜んだことが盆踊りとなったという、お盆の起源(諸説あり、他有名なものに逆さにつるされる苦しみから救われる方法の話もあります。)といわれる話があります。

よってお盆は先祖をまつる墓所や仏壇に布施(施しつまりはお供え)をして、そこをお参りされる親族や知人などにご馳走を布施(ふるまい)して、先祖の安心を願う行事として伝わっています。

いずれにしても、お寺はこの時期お盆で盆灯籠が釣ってある場所もあり、初盆の家であればそこにも新盆であれば近しい故人のために盆灯籠やお供えが惜しむことなくされている家庭が多いです。

意味がわからないことが多い仏教行事ですが、言えることはただ一つです。

「自らが欲しいものは、自らが与えることによってのみ、遅れて形を変えて自らに訪れる」(内田樹先生)

レヴィナスを敬愛される内田先生の著作に仏教と全く関係ないですが、同じようなことを書かれておられました。


「自らが幸せになりたい・愛されたい・大切にされたい・素晴らしいものが欲しい」
もしそう自らが願うのであれば、まずこれを理解できた方から与えることによって自らにそれが少し形を変えて遅れてやってくるのだと仏教でも同じような見解だと私は思います。



(各家 盂蘭盆会諸精霊皆成仏道  合掌)

迷って

今日というか明日の新聞は忙しいことでしょう。
(閏年開催)オリンピックの結果、イチローの記録、平成天皇の生前退位のお気持ち、こんな日もあるんですね。
そんな大きな見出しもない私の時間は仕事と家庭の双方で何事もないことが有り難いです。

いつもより忙しい日が続きますが、問題があるのだけれど問題とならないように気を付けていただく方に助けていただき、理想や理論値と現実は隔たりがあることが往々にしてあります。

仏教で悟りや空(くう)・四諦(四聖諦とも)、悟りをあらわすまたは悟りへいたる道とも限りなき光とも、美しい生き方又は美しい人といった解釈にもとれます。

悟りへいたることをあらわす言葉の一つに「転迷開悟(てんめいかいご)」〈迷いを転じて悟りを開くこと〉、迷いそのものが悟りへ転じる。愚か・怨み・怒り・妬み・嫉み・貪りにとらわれ迷うことそのものが悟りへ転じる。言葉として書けばそれだけなのです。けれど転じることにおこない(行)が不可欠です。

理論的完成をみるのであれば、行いは必要なく体現できない理論の完成が内にかすかに生じ、それを目にみえないのだけれどみえるものにするには行がいるというだけのことです。

愚かもの(私)は理論的完成を動かずに求めます。その時にこれだと感じるものをみて喜びます。それがみえないけれどみえるように出せれば一緒にそのみえないものを感じた人は喜びます。私だけの小さな何かであれば見知らぬ方は喜べません。自分にも大切な人にも必要でいて求めたい何かを喜び合うだけのことです。

おこないの重要性が私にのしかかります。

「迷い転じてさらなる迷い」は私の専売特許のようなもの、だからここは開き直り(大肯定をして)大いに迷って笑い、大いに迷って泣き、こんな風に迷ったら大変ですよと他人事のように笑って言うのです。

その時、迷って泣いていた苦しみはもう苦しみとなっておらず、ただの愚か者が楽しく笑っているのです。


今日も迷って笑うのです。

鹿

 ふと横のテレビでクイズの答え鹿苑寺(ろくおんじ・金閣寺)が写っていました。
お寺ですから、その名前は仏教に関係のある名前で、「鹿苑」(ろくおん)の元は鹿野苑でしょう。
ブッダガヤ菩提樹下の金剛座で瞑想・禅定によって目覚めたものとなったその時、仏教は誕生し、覚ったものを他者へ法を伝え理解したときに仏教教団が初めて作られた場所、初めて法を説かれたことを初転法輪といいその場所がサールナート(イシパタヤミガダーヤ)鹿野苑です。

中国に生まれた玄奘三蔵が天竺(インド)へ16年の求法の旅が記された大唐西域記にイシパタヤミガダーヤ鹿野苑を訪れその場所についての物語が聞いたことが書かれていました。雄々しく偉大な王の鹿の物語です。
偉大な釈迦がまだこの上無き正しい覚りを求め何度も生まれ変わって法(真理)を求め続け徳を積むというジャータカ・本生譚(ほんしょうたん)の一つが玄奘三蔵が訪れたときにも口伝えで残っていたのでしょう。

そんなことを金閣寺の別称をみて思い出していました。

その名前を付けられた方は、そこで転法輪(てんぽうりん)が行われることを願いつけたのだろうと、法が輪の如く転がって広がりひとびとが正しく目覚めたものとなる場であるようにと(でも、一般的には金閣寺なんだよね)。

長男坊と次男坊それぞれ小学校の修学旅行で金閣寺・銀閣寺・東大寺を見学してきました。東大寺も鹿が沢山いてせんべいをもらいにお礼をして迫ってきます。

仏教というものは公的には弱いけれど、生活にはかなり身近で墓参り・お葬式・初詣・法事・縁日などのお祭り・建築物や仏像などの芸術、意識することはないくらいに近くにあるのに、遠く感じるようにおもうときが多いなんて思う人もいます。

難しいことは抜きで生活に密着していればいいか


こんなとき

 以前に読んだ本を友人が調べものに使っていたので、拝借してまた初心に帰ろうと目を通していました。先生の「慈悲喜捨」の解釈は著作によって微妙にわざと言葉を変えて使われておられます。今回は

仏教の立場
仏教はジナ教やアージーヴィカ教と同じ精神的環境において発足した。輪廻は既定の事実として予想され、カルマの支配は疑う余地がなかった。現世と来世との苦痛から解放されることが願わしかった。当時、世間には一方で官能的な喜びに熱中するものもあり、他方では肉体を苦しめることによって未来の幸福を期待するものもあった。バラモン神官による祭式も、ウパニシャッド哲学のブラフマン=アートマン一如の思想も一般大衆の救いとはならなかった。民間信仰としてさまざまな神や霊に祈り、供養や社会奉仕による善行の果報が期待された。家や財産を捨てて修行に専心する宗教家を尊敬することも知っていた。
 そのような時世に仏教が中道を説いたのは、快楽主義と苦行主義との両極端に対する批判であった。その中道をさらに八正道―正しい見解、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想―として、具体的に生活の基準を規定した。そして人間的存在の構造を、苦悩と、苦悩の起源と、苦悩の超克と、苦悩の超克にいたりつく道という〝四つの聖なる真理〟[四聖諦]によって説明した。
 さらにまた仏陀たるものは自分自身の解脱だけで満足すべきではなく、その恩恵をあらゆる生きもの[一切衆生]に及ぼさなければならない。自分だけ悟ってすますものはプラティエーカ=ブッダ[独覚、縁覚]とよばれ、〝完全なる仏陀〟[正等正覚者]とは区別される。この仏陀の理想に準じて、他者の幸福を増進し[慈]、不幸を除去し[悲]、他者をたすけることを喜び[喜]、しかもそれに執着しない[捨]といういわゆる〝四無量心〟を鼓吹する。
渡辺照宏著 『仏教』第二版 岩波新書より引用


ここのところいろいろあって、この言葉を何度も何度も読んだり言ったりしてきたのに、忘れていないのに忘れている自分をみました。結局不測の事態になれば余裕がなくなり、大切なことを忘れています。
深く感銘を受けたもう一つの先生の言葉を再度みてみました。

ロングフェローの「建築師」という詩の中にこんな言葉があります。

世の中に、無用のものや、卑しいものは、一つもない。
すべてのものは、適所におかれたならば、最上のものとなり、
ほとんど無用のごとく見えるものでも、
他のものに力を与えるとともに、その支えともなる。
私たちの建築に供給するために、時の中には、材料がいっぱいになっている。
私たちのもつ今日や明日は、
私たちの建築の有力な材料である。

 と たしかに味わうべき言葉だと思います。
 平凡な一日と貴重な一日 今日や明日という日は、それこそなんでもない平凡な一日です。しかし、その平凡な一日が集まって、私どもの人生を作っているのです。したがって、つまらぬどころか、後にも先にもない貴い一日です。昨日を背負い、明日を孕める、尊い永遠の一日です。結局、一日をつまらぬ一日にするか、貴い一日にするか、それはつまり私どもお互いの心持です。心のもち方です。ものそのものが、つまらぬのではなくて、それを見る、それを受けとる智慧袋が小さいわけです。
『般若心経講義』 高神覚昇著より引用


自らだけでなく身近にいる方が少しでもとおもって足りないものを補おうとしていたのに、つまらぬことにとらわれてばかり。

ここはですね

難しいことは抜きで、目前のやらなければいけないことを一つずつしっかりこなすことから!

(身近な方にも先生方の本にも感謝です)

同じ

 確か初めて良寛さんのその言葉をみかけたときに

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候


衝撃を受けました。

この言葉を浮かせることもなく、言いたいだけでもなく、ぴたりと空気のように使える人は少ないだろうとそれから考えます。私も又憧れだけで、この言葉を思い出して使うようでは全くだめです。

また現実逃避として、読みかけの書が私にとって難しいのであれこれと関係あるけれど関係ない本を読んでいると、般若心経にある「無苦集滅道」という言葉、「苦も集まりも滅も道もなく」の解釈には次のように一例としてあります。

苦も集も―苦・集・滅・道の四つの真理(四諦)は、ブッダの教義の根本である。「苦諦」とは、人生は生老病死の四苦、さらにこれに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦を加えた八苦に満ちているという真理である。「集諦」とは、この苦は、迷いによる業が集まって原因となっているという真理である。「滅諦」とは、迷いを断ち尽した永遠な平安の境地が理想であるという真理である。「道諦」とはその理想に達するために道に因ることが必要であるとして「八正道」等を実践すべきであるという真理である。仏教の根本である四諦を否定するような文句を述べているのは四諦への執着を破って、四諦の真意を生かすためである。湛道(たんどう)の『心経決談抄』には「苦中ニ苦ヲハナレ楽中ニ楽ヲハナル、カクノ如ク障礙ナケレバ苦集滅道モナキニアラズヤ。苦ハ苦デヨシ、楽ハ楽デヨシ、苦楽空相ナレバ苦アルトキ苦ニ遇フテヨシ、楽ニ遇フテヨシ、何ノ妨グルコトヤコレアラン。」という。
岩波文庫 『般若心経 金剛般若経』 中村元・紀野一義 訳注より抜粋



同じことを言われています。ただ智慧によってそれをあらわす言葉となっており、今回は「空」によってそれをあらわされるものです。

いつも怨み・怒り・とらわれ・好み・醜悪などによって、私は覆われ転倒し、その思いによって苦しみ悩み時には大切なことが手を伸ばすところにあるのに、みているのに何もみえず、声はしているのに聞こえず、考える頭があるのに理解できず、悪くしなくてよい場所ですら悪くしてしまいます。

ときには、難しいものをすべてなげすて、笑えばいいです。生きているのならできるだけ笑って泣いて生きていけばいいです。


悪いことを悪いこと以上に染めすぎず、冷静にそこから正しいこと楽しいことおもしろいことをみつめることができるよう、よく笑っていたいです。


教訓、自らの思いで自らを潰しすぎないように、くだらないことは膝から上にあげないように。

(たまにはわざととらわれてみるのも手です)

かんのんさま

 怠け癖が抜けない私の前に彼が悩んでいました。ここは気分転換にちょっと付き合ってみることにしました。

「何を悩んで(考えて)いるの」

簡単な質問に対する答えをいくつかわかりやすく文章として出していくことで悩んでいるようでした。何も出なくて悩むというよりはいろいろありすぎるからその中のどれが今回はよいのだろうか、いわゆる今の時代聞きなれたフレーズです。

「あー、今の時代選べ過ぎてこまる。」

ここは一つ余計なお節介を受け取らなくてもするのです。

「『かんのんさま』って何?」

みたいな子供に成り変わって質問とその答えはとか聞いてみました。すると難しい話がきたので

「ぼく、難しい言葉ではまだわかりません。簡単な言葉で誰にでもわかるように書くことが本当の学術的だということを聞いたことがあります。」

そうニッコリしながら言いました。彼は私を少しみてから、わかりやすい答えを調べ書いていました。

私のたまたま近くにあった本には

 観自在-言語はアヴァロキテーシュバラ(梵語省略)を玄奘は「観自在」と訳した。「観」(アヴァロキタ)+「自在」(イーシュバラ)と分解しうるのでそのように訳した。チベット訳語(チベット語も省略)も同様の解釈に立っている。しかしクマーラジーヴァ(鳩摩羅什略して羅什という)は『法華経』を漢訳したときにこの語を観世音または観音と訳した。
 何故そのように訳したか?第一の見解によると、クマーラジーヴァが『観音経』の趣意をとってそのように美しく訳したというのである。『観音経』すなわち『法華経』の普門品には『若有無量百千万億衆生、受諸苦悩、聞是観世音菩薩、一心称名、観世音菩薩、即時観其音声、皆得解脱』
とある(榊博士『梵語学』二四一頁以下)第二の見解によると、観音の原名は古い時代にはアヴァロキテーシュバラではなくてアヴァローキタスヴァラであったと推定され、またそのことは『法華経』西域本によっても確かめられる。(例えば本田義英博士『法華経論』弘文堂、昭和十九年一九五頁以下、同氏「観音の古名について」『龍谷大学論叢』第二九六号、昭和六年二月)その場合には衆生に声をぜしめるという仏菩薩の慈悲行を、ついに人格化してここに観音を表現したのであると解せられている。一般的には観音というときには大悲を強調し、観世音というときには智慧を強調してこのように訳出したといわれる。智慧輪の訳出した般若心経(紀元八四七-八五九年訳出)には両方をとって「観世音自在菩薩」という。観自在とは、世間の多くの人々(衆生)から観られつつ、多くの人々を観、そして救う働きが自由自在であることを指しており、それは根源的な叡智を体得した者の働きであると通常解せられている。白隠禅師の『毒語心経』に、「是非憎愛すべてなげうてば、汝に許す生身の観自在たることを」(是非憎愛総拈抛 許汝生身観自在)とある。観自在は特別な人格などではなく、すべての人々が具えている働きであり、我執をすてて多くの人々の中に生きようと願い、足を踏み出すとき輝きあらわれて来るのである。
岩波文庫 『般若心経 金剛般若経』 中村元・紀野一義 訳注より抜粋



「ほら、こんな感じで答え書いたらいいじゃない」

「僕が書いたものより難しいじゃないですか」なんて言うんだろうなあ。

なので小学生に理解してもらえるような文章になおすと(酔っぱらいは身の丈に合わない意訳をこころみるのです。


自分で自分は凄いし優しいし思いやりがあるなんて思っているときは、自分が勝手に思い込む「かんのんさま」です。
目前にいる方がほっておけなくて、自分ができることをしなければいけないと思う前に身体が勝手にうごいて相手に慈しみあふれる行為が出現したことを他者が理解してくれたときに、「あなたは(私にとって)かんのんさまです」といったものが出ているその瞬間の方はどなたでも「かんのんさま」です。
だから優しくされたことがあるしそれが嬉しいと感じる人ならどなたでもこころに「かんのんさま」がいるんです。




(酔っぱらいは難しいことでごまかしてその恩恵にあずかってうっとりするのです。)