似て非なる

 身近な人が忠告してくれているのに(たとえその方が根性や性根が悪くても)、こちらに助言されているなら(腹がたっていてもいなくても)対応は限定されている。

怒り返す(暴言を吐く)でもなく、腹をたて(周囲の物や人にあた)るでもなく、聞く気がないという態度をとるでもない。
頭を下げ「ありがとうございます」または「気をつけます」または「また色々と教えて下さい」が無難だろう。

自分自身がどのようであれ、目前の方に助言をしたときにどのような態度であれば、自分が嬉しいのか。自分だけの都合でものを言い、はねのけているようであれば、全て痛いものは自分に形を変え返ってくる。

自分が思うようにしたいことに、時や形を変え反対されたり、協力ではなく阻害という形をとったり、好きではなく嫌いという形になってかえってくる。(全てがそうとも限らない。例外もあり、善い人達も別になる。)

自分がいつも角のある言葉や態度をしているのに、自分(達)のやることを邪魔されるなどを周囲へ助けを求めても、助けようにも自分で沈めていくものを浮かび上がらせることは他者にとって容易ではない。(これも例外もあるだろう。簡単だという人も確かに存在する。)

フォローをしたいのに、フォロー出来ない現状を次々当人(達)が起こし続けていれば、フォローをする人も共に沈んでいく。

身の上を嘆いて同情を求め、原因を他者のせいにだけすることはいつでも簡単なことの一つ、安易な道にいつも逃げこむだけで本質を見つめない。たずねれば当人は見つめているというのかもしれない。

自分の発言が「自分の行動に問題がある」という言葉の前に「誰かがこんなだから自分(達)は苦しみ悩みが多い。いつまでたっても救われない。」確かに本当にそんな現状の人だっておられる。ただそのことを決定するのは周囲であり、本人が言い訳がましい言葉がいつも先に出ているのであれば、自身の問題の解決は遥か遠い。

誰もが簡単に判断する。「その人」のせいなのか「他者」のせいなのか、「誰か」をいつも出して悲劇の主人公になりすぎるより、自らが痛い言葉や態度を減らしていくことだって解決へ向かうこともある。

「感謝すること」と「安易な褒める言葉」とは似て非なるものだと、誰かが使い分け続けることを見ていれば思い知らされることもある。

時に回避のために使うこともいいかもしれない。自分の痛いところをごまかしてもらうために使うこともいいかもしれない。

大切な人であればあるほど、本当の思いを早く伝えたい(伝えて欲しい)。


言葉が出ていれば良いということでもなく、多ければ良いということでもなく、口にしているからよいということでもない。その判断ができないとき、自分よりいつも正確な判断をしている方に本心からたずねた方がいい。



何か問題があってたずねても遅いことは世の中よくある。
スポンサーサイト

離れて

 誰もが持つ思い。

「成したことを共有したい」

よいことであればあるほど、その思いを誰かと共有したい。誰かに伝えたいと気がつけば願っているわたしがいる。あまり喜ばしくないのだけれども、若いうちは悪いことや無茶なこと、人があまりしないことも共有したいと願うこともある。

阿呆なわたしの過ち振る舞いは笑い話となり誰かの救いともなる。(ただの愚か者と思われるだけのことも多い)

何かにとらわれすぎてしまえば、ほかのものを受け付けない。跳ね除ける。よいものをよいものと理解できない。(何が必要かを理解できない)。

何かを現在において成す。しばらくすれば成したこと、過去の事実となる。いまわたしはその過去の地点から生きているかぎり離れている。どんなに善いことを成しても離れていく。

善いこと(成した善いこと)から離れたくないと願う。

現実の言葉は

「私は以前こんな(善い)ことをした。」

一度なら大抵の方は言うだろう

「それは凄いですね」

二度目からはどうだろうか、三度目、何度もだとどうなのだろう。

過ぎ去りしことにとらわれることも、たまにはいい。よいわたしを思い出せる。


いまわたしはとらわれなく、よいことを現実に少しでも成していなければ、これから過去の善いわたしにであうことも少なくなる。あまりその反対の私に頻繁に出会いたくない。他人に「あなたはいつもこう(悪いことばかり)だった」と言われ続けるのも好んでいない。

離れていくものをどのようにして、近くに持ってこようとしても無理が多くなっていく。



じゃあ、これから来るものはその反対だろうか「厳密に望むもの全て望む形でやってこない(内田樹)」