高野山

 今年中に高野山へ家族全員でお参りすると予定を立てていたのに、いつの間にかもう残すところ何日もなくなってしまいました。けれど皆の休みも予定も会いました。
いつもより皆早起きして徳島から高野山へ出発、四時間半程自動車でかかりました。四国を遍路(自動車)で一緒にお参りして随分と長い時間の移動にも慣れてくれたことが私と家内を随分助けてくれるようになりました。

久しぶりに高速道路を運転して昨日寝たはずなのに眠気が襲い、目をぱちぱちさせながら抑えこみ運転していれば、家内がそれを察し運転を変わってしばらく(割りと)寝ている間に随分距離を稼いでくれました有難いことです。
高速を降りて下道に変わたっところでトイレ休憩の間に運良く未だ訪れたことのない大阪のとあるスーパーマッケットに到着、そこでお世話になった師の所に持っていくはずのお土産を取り急ぎ購入し、和歌山県伊都郡にある世界遺産である高野山へ。道中大阪から和歌山へ、高野山へ登るルートは幾つもあり、その中高野山のお膝元である橋本市を目指しそこから高野山へ上がる道もありますがかつらぎ町辺りの道から花坂を通り登っていけば高野山の正面玄関である高野山の大門が出迎えてくれます。道中曲がりくねった道を通らねばいけません。歩くことを考えれば何でもないことです。

まず、大門を一番後でじっくり見ることにして、壇上伽藍を参拝することに、世界遺産へ認定されたことにより、案内の表記や看板や名称に私が高野山で過ごした時より格段に増え、案内も増えたように思います。また参拝の方も外国人の方をいたるところで見かけました。世界遺産となったことで日本人より外国人の方が随分増えているように感じました。

壇上伽藍には高野山内の本堂ともいえる、金堂(本尊薬師如来)をはじめ根本大塔(大きな仏塔)、御社(丹生都比売・高野明神など)・西塔(大塔より少し小さけれどやはり大きな仏塔)・御影堂・不動堂・准胝堂・孔雀堂・山王院など、本当に沢山のお堂があり仏がまつられています。特に高野山真言宗の奥之院と双璧を成す場所でも有りますから、その仏像の大きさにも眼を見張るものが有ります。また伽藍の前には霊宝館があり高野山内のほとんどの国宝を所蔵し、順次展覧しています。その国宝の数は

現在、高野山霊宝館では、国宝21件、重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、重要美術品2件、合計182件、約2万8千点弱を収蔵し、未指定品ともなると5万点以上を数える収蔵量を誇っています。
高野山霊宝館HPより引用


伽藍を簡単に家族に案内し、時間の都合上霊宝館や大師教会を通り過ぎ、高野山お大師様(弘法大師空海様)が禅定に入っておられる場所を目指しました。
四国遍路される方は四国を一周88の札所を回り、高野山におられるお大師様へ会いに行くことになります。自動車で回ることは時間と労力を格段に助けてくれます。やはりここで頭によぎります。確かニーチェの「その人の獲得した真理の高さはその獲得された真理に対する努力に比例する」と、やはり歩いて労力と時間を惜しまずただ一歩ずつ前にと歩まれた方とは比べることができないものです。
いろいろなことを考えさせられますが、やはり言い訳の天才である私は「それ」より家族との思い出を綺麗事として優先しました。(情けないことです。)

ただ子供達が高野山へお参りしたことは覚えていることと思います。三男坊の「けいくん」は5歳だから怪しいけれど、上の二人はきっと覚えていることでしょう。

高野山奥之院の入り口、一ノ橋から歩いて御廟まで歩いて迎いました。その間天空にまっすぐにそびえ立つ千年杉と何万基とある戦国武将や各宗派の祖師や大師を慕って建てられた墓石の間を歩いて向かうことになります。世界遺産に認定される所以は奥之院の言葉に出来ない空気にあります。よって熊野古道と高野山が共に認定を受けていますが、やはり奥之院の空気と存在が後ろ盾となったことはお参りされた方であれば納得できるはずです。

大師を慕いお参りされる方の姿勢に心打たれる場所です。

弘法大師(空海)信仰・真言宗の源泉(の一つ)でもあり、何もわからない私も初めて奥之院へお参りした時深く感銘を受けました。ここは私が言葉をもってあらわせる場所ではないです。(いつかはと願います)

御廟参拝が終わり、奥之院で納経をいただき、師のおられる場所へ挨拶へ伺いました。私は無名の中の無名ですが、師はその道では有名の中の有名です。いつか師が「それぞれが仏教と出会えてよかったと思える人生であってほしい」そう文章で書かれていました。
師の奥様がおられ、奥様と少しばかりお話をする時間をいただきました。奥様へお伝えしました。

「私がここへ入ってよく奥様に怒られました。

あんたら、掃除や他のこともだけれども、この場所のためや人のためにやっていることではないですよ

そう何度も怒られたことの意味がはっきりと外に出てはじめてわかりました」

「あんたも、外に出て成長したんやね」

師は今年で82になると教えてくれました。当然奥様も同じくらいの年齢です。私も師も奥様も出会った頃より23年の時が経ちました。お土産を持って行ったのに、かえってこちらにお土産をいただき恐縮に存じます。

私のお祖父さんは90を超えて長生きしました。師にも奥様にもどうか長く生きて私のような後から生まれ生きていくものに一つの真理を指し示し続けて欲しいと願います。


長かった四国遍路もこれで一回目が終了となります。


(私の努力と忍耐と精進と信心不足により、お大師様へ会えませんでした。いつかお会いしとうございます。)
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ひょんなご縁で安楽寺へ(四国六番札所)

 家内のご両親、実家は徳島県外で中国地方ですが、お父さんとお母さんは時折、札所をお参りされています。
昨日も四国六番札所安楽寺へうち孫さん二人を連れ徳島に来たのだからと私の家族全員招待して下さいました。たまたま残業がないので当日も明くる日も仕事でしたが、仕事終って私は後から安楽寺に合流したのです。私が働いている鳴門市から、阿讃山脈沿いの農道を走ることになり、すすきが風に揺れ、柿がなり、ヒガンバナが田の畦に群生し鮮やかな赤い塊が見られ、赤い絨毯がいたるところにあるような田園風景を車を走らせました。

阿波三盆糖の工場近くの田畑には、おそらくサトウキビが植えられているようでした。できれば一本いただいてサトウキビかどうかかじってみたかったのですが、夕食に間に合うように時間がなく、六番近くの畜産試験場に飼われているのどかな牛さんたちを見ている間に六番札所安楽寺へと到着、離れた道路脇の駐車場に車を停め、大きな石碑(四角形)の下段に絵と共に刻まれている句は四面のうち三面に一つずつ、急いでいましたが句を拝見しました。

「暮れても 宿がない もずがなく」

「分け入っても分け入っても青い山」

後一個を忘れてしまいました・・・。(今度はしっかり覚えておきます。)

人生を行乞流転の旅に身心を捧げた山頭火はその背負った行李に「人生即遍路」と書き、旅に見を捧げた先人の芭蕉を愛し、芭蕉の残した書物を愛読し、正法眼蔵も愛読し、行乞しながらその日の糧を得ながらの生活、宗教的なものもらいのことを乞食(こつじき)といい、ただのものもらいを乞食(こじき)といいます。
山頭火の行乞日記には、相当な自己反省の言葉が綴られ、誰かに物をいただくときには「鈎につられた魚になってはいけない、魚を投げて与えられた犬になってはいけない」などの、行乞にあたってルンペンの一人ではあるが、魂までは捨てず、いやあえて苦難の道をいくことで魂を磨き、句を(生を)いや自身そのものを、輝かせていこうと、何度も「私は私の愚かさに帰らなければいけない」「本然に帰らなければいけない」などの、目を見張る言葉が出ています。

ここ安楽寺には遍路を愛する人達が山頭火に憧れ、山頭火の句がいくつも石に彫られ残されています。

そんなことを考えながら安楽寺の宿坊へ入り、ご両親と家族に合流しました。安楽寺は朝の勤行ではなく、夜に勤行がありました。高野山真言宗寺院ですが、そのお勤めは他の真言宗寺院とかなり変わった勤行で、気になる方は一度宿泊されればよくそのことが理解できると思います。
とりわけ四国八十八箇所の札所の中で唯一、本堂のご本尊様と大師堂の本尊、つまりは「薬師如来」様と「弘法大師」様に宿泊された方はお参りした際に手で何度も触ってご利益をいただけます。その他、大仏師松本明慶師の仏像がかなりまつられ、仏教が好きであったり、仏教芸術や仏像が好きな方は本当に満足できると思います。

夜のお勤めが終わり、ゆっくりお風呂(温泉)に入り、次の日(今日)も仕事でしたので早めに就寝しました。朝食は朝早く出発したいお遍路さん達のために6時半となっていました。有難いことです。

住んでいるところから、30から40分位で着く場所ですから、私は泊まることがないだろうと思っていましたが、思わぬご縁をいただき、勉強になりました。売店の方が以前から知り合いの方でしばらく世間話に花を咲かせ、家族が帰る際にはお土産をいただいてたようです。(私は出勤のため皆より早く発ちましたので、朝はお会いすることが出来ませんでした。残念です)
有難うございました。

今度はもうちょっと時間を長くとって、色々とじっくりみようと思います。

四国2番札所 極楽寺

 四国二番札所 日照山 無量寿院 極楽寺(にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ)

 さて長期間にわたった四国八十八ヶ所参り(お遍路)もここ2番極楽寺で打ち終えることとなります。
四国遍路をはじめるにあたって、最も打ちにくい(遠い)場所からはじめ、最後は1番近い場所、とうとうここまで辿り着きました。

1番霊山寺から約1.2km、歩いても15分位、自動車であれば本当にすぐの距離です。道も迷うことなく旧道を通らず新道を通ればすぐに案内が見え、朱の大きな山門があり、仁王様が待っておられます。

2番札所の境内は割りと広め、一万二千坪位と極楽寺住職から聞いたことがあります。仁王門正面に願掛け地蔵さまがまつられ、願いや信ずる方が多く沢山ののぼりや湯のみが奉納されています。そこから境内を見れば右手に雲海の浄土といわれる手入れの行き届いたjapanese gardenが一望でき、見る人の心を美しく大きくさせてくれます。

手水場も仁王門から右手に新しく建立され柱は龍が巻きつき、天井には天女が刻まれた石造りの手水場があり、隣には子授招福大師(石造)、背面の壁画に大樹が刻まれています。その先には肩幅もたくましく幼子がすがるお地蔵様がまつられ、お地蔵様へお子様のことを願う塔婆が重なるほど納められています。
 どこのお寺にも目玉と呼ばれるものがあるとすれば、2番極楽寺は弘法大師お手植えと言われる樹齢約1200年の長命杉と呼ばれる老巨樹があります。

伝承によると、弘法大師が当山にて二十一日間の修法を終えられたのち、 この木を自ら植えられて、行く末永くこの寺を守護するように祈願をこめられたという。
そしてこの木の肌に触れると、その逞しい生命力の感応によって長命を保ち、 天寿を全うすることができるという信仰が永く伝えられ、長命杉の名が生まれたのである。
伝承は別としても、樹高30m以上にも及び、幹の周囲6mを越え、 樹肌に無数の深い亀裂と、そのため生じた荒々しい彫紋は巨大な龍の鱗を思わせる。 その蒼空を目指して真直に伸びる様は、丁度龍の昇天を想起させる。 少なくとも樹齢1100年を経たこの老大樹の生命力は現在もなおその枝葉に緑を茂らせているのである。 この樹が人々の強い信仰の対象となっていることも、当然のように思われる。
極楽寺縁起より抜粋  発行者 極楽寺


三方を山に囲まれているため、この時期全山緑生い茂り美しい頃です。本堂と大師堂は平地にはなく階段を五十段ほどあがった高台でわたしたちをまってくれています。平地にある長命杉近くのお堂は薬師堂その右に千手観音さまをまつる観音堂。その右に一願不動とよばれる水を掛け願う「不動尊」その右に鐘楼堂があります。

最後ですから鐘をつきました。それを見ていた子供達も真似して鐘をつきにきました。
「優しく撞くんですよ」
「はーい」
返事とは裏腹に、どうも鐘をみると(うちの子だけでなく)全力で叩きたくなる人が多いです。長く維持しなければいけませんので何事もほどほどに、というかできれば優しくお願いしたいです。

階段を上り、いつもの如くロウソク・線香・お賽銭・納札を奉納し、並んで読経しました。本堂から大師堂へ行く途中に2つお遍路さまやお参りの方がよくお参りする場所があります。
一つは抱き地蔵さま(おもかる地蔵とも)です。抱き地蔵様はいつも信ずる方が前掛けや帽子を綺麗に作ってあるものを身にまとっておられます。ちょうど簡単に抱きかかえることができ、自身の願いがかないやすいのならば軽く、かないにくいのであれば重く感じるという可愛らしいお地蔵様です。ちょうど本堂と大師堂の中間に屋根が付けられた下で座っておられます。

もう一つは安産祈願本坊として古来より名を馳せるお大師様が大師堂におられます。ただ大師堂左には弘法大師のお告げがあり無事に子供を授かった方が、「安産大師様」を奉納され、安産大師(と大師堂と共)に安産を願われる方、お礼参りの方が多く、請われずともいつもまっておられます。

家内は無事に三人出産しています。よって今回は子授・安産を願うのではなく、本堂大師堂でも家族の無事やしあわせを祈っていたようです。

わたしは大抵ここにいます。

遍路に来る日を知っていた副住職や従業員の方がわたしたちを首を長くしてまってくれていました。お接待に家族分のドリンクやお菓子を用意してくれていました。いつもいつもできの悪い(愚かな)わたしにできることをしてくれる方には本当に心から感謝して居ります。

子供達は顔見知りの親しい友人である副住職へお納経を頼んでいました。帰りに駐車場の売店に行けばまた、子供達はお接待でお菓子をいただいていました。重ね重ね有難うございます。


残すは伊都の郡(こおり)、高野山(奥之院)です。


いつも思うのです。

言葉(文)によって、何かおおいなるものをあらわしたいと願います。一つの例として

「弘法大師とは」

その問に満足できる言葉(文)をわたしの中にいつも探します。何によってそれをわたしはあらわすのか、調べても大師を満足にあらわす言葉はでてこないことばかりです。よってここに先人のちからをもって弘法大師の一つのかたちをのせておきます。

四国は仏の島 坂村真民

 わたしが弘法大師空海を語ろうとすると、それは母につながってくる。母は弘法大師の膝がしらから生まれてきた、苦労するのはそのためだと、よく言っていた。突然夫の急逝に会い、幼い五人の子を育ててゆかねばならなくなった時、母の胸に蘇ってきた予言の的中からであろう。
家は浄土真宗であるが母は仏壇の中に、大師の小さいお像をまつり拝んでいた。
 敗戦によって朝鮮から引き揚げ、母の住む九州熊本に帰り、やがて職を求めて四国に渡ることになった時も、一番喜んでくれたのは母であった。戦後の大混乱の中を母はわたしたち一家を送り、四国に上陸して言った言葉が、今も鮮明に残っている。
 ああ、お大師様のお国の風は涼しいなあ、いい処だなあ、と涙ぐみ喜んでいた母の姿が忘れられない。
 わたしは大師が学徳稀な高僧であることよりも、このように一人の女人の中に今も生き続けておられる、そのことに他の人とはまたちがった意味でこよなくなつかしく尊く思うのである。
 わたしは四国を仏島と呼び、仏の島と讃えてきた。八十八の霊場が数珠のように四つの国を結び、山川草木、吹く風浪の音までが大師の徳を今に伝えているからである。
 わたしはこの仏島四国に移り住んで、その因ってくるものが何であるかがわかった。それは他の祖師たちと違う空海独自の闇の大きさであり、深さである。わたしは室戸岬の突端にある若い日の修行の洞窟を訪れ、暗闇の中で真言を唱えている時、そのことを直感した。
 闇が深ければ深いだけ、この後にくる光は大きい。ああ、それが今なお、輝く南無大師遍照金剛だなあ、と思った。

空海と真言密教 読売新聞社 (1982.11.15第一刷 大日本印刷株式会社)



わたしの家は禅宗の檀家です。わたしが大学生(修行中)の頃、故郷の長崎から高野山(和歌山県伊都郡)へ母は毎月お参りをしていました。母は観音様と大師を信ずる田舎の人でした。ただいつも大事なことに気がつかないわたしと違って母の心の中にもなぜか大師が生き続けています。

わたしは今不可思議な縁によって、四国の土地で住んでいます。
わたしの愚かさをみればいつも弥陀や大師の手の上にいると痛感します。

いつかいつか極楽寺境内にある石碑のように

「弥陀の掌に すがりて発ちし 蝶の昼」




みとれるほどに、自然に発ちたいと願うのです。

1番霊山寺

 第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺(じくわざん いちじょういん りょうぜんじ)

竺和山という山号、釈尊が教えを説き仏教が誕生した国「天竺(インド)」お経に説法の場として出てくる霊鷲山、インドから中国そして日本へ、今も昔も仏教は有名と無名の仏菩薩や有名と無名の人の中にあります。

それをあらわす名前として竺和山霊山寺(じくわざんりょうぜんじ)となって、四国霊場第一番札所として現在に至っています。

徳島に移り住むことになり、霊山寺(りょうぜんじ)は家から近いことも会って、家内はよく子供を連れてお参りしていました。また霊山寺の北側には徳島県の一宮である大きな神社「大麻比古神社」がすぐ近くにあり初詣の時期には道が混雑して通れないほどです。徳島にきて知り合いも知った場所もあまりないわたしたちは、神社や仏閣や有名な場所で金銭の余りかからない場所へよく行きました。話がそれたので1番霊山寺に戻します。


1番霊山寺(りょうぜんじ)の境内は整備され駐車場も便利なお寺のすぐ横にあります。そこから少し歩いて正面の山門へ行き礼して境内に入ります。
正面に本堂、右側に大師堂があり、左側に多宝塔が建っています。中央に池があり大きな鯉がおよぎ、お地蔵様がまつられ、それを仰ぎ拝する童子がたくさん随所に見ることが出来ます。

遍路最終日はゴールデンウィークの最終日(5月6日)、お参りの方も多く、境内もにぎやかでした。静寂な境内もよいものですが、お参りの人が多いのもたまにはよいものです。(どこかのテレビ局が霊山寺境内を撮影していました。)

多宝塔を見上げれば厳かで、近くによって拝し、本堂へ向かえば左側に確か十三仏の石像があります。少し変わったお顔や手足の丸みをして、最後の堂に入っておられる不動尊(石仏)は一際大きく立派です。本堂も大師堂も山門も耐震工事や改修など確か二三年前に終え、本堂内の天井絵、龍が迫力あり、団体の方がここで説法を聞かれています。

本堂内右側には、納経所があり本尊様近くでお参りしようとした帰りに納経所をのぞけば1番霊山寺の住職様が来客の方と話をされていました。

本堂でいつものように線香・ロウソク・お賽銭・納札・読経を終え、大師堂に向かいます。広くはないのですが菩提樹などの木々も植えられ、流れる水音・泳ぐ鯉・萌えるような緑の木々・仏塔・諸堂の調和が見事です。
大師堂も本堂と同様に読経を済ませ、本堂内納経所へ向かいました。ここ霊山寺の先代は最近亡くなり、副住職さんが住職に変わっています。浅からぬ縁というか副住職さんであったときより親しくしていましたので
「こんにちは、今日で遍路で結願となります。できればお納経をお願いしたいのです。」
あまり他所で声を出さないのですが、厚かましくお願いすれば、少し微笑みながら
「いいよ」
ただ納経所は納経を待つ方の列ができていました。
「少し待ってくれる」
そう言って並んでいる方の納経を書かれていました。順番が来るのを楽しみに子供達と待っていました。本当に無名な私に何度も講演の依頼をいただき、会えばいつも笑顔で声をかけてくれます。しばらく待って二冊の納経帳を書いていただきました。
しばらく三人の子供達のことを聞かれ、境内の駐車場にさくらんぼがなっているからと、子供達にとってくれました。お参りより、さくらんぼをとる時間が長かったように思います。男性女性問わず好きな方と一緒に同じ時を過ごせるというのは本当に有難いことです。

いよいよ(ちょっと変則な回り方でしたが)最後の札所、2番極楽寺へ向いました。

3番金泉寺

第3番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺(きこうざん しゃかいん こんせんじ)

院号に釈迦院とあるように、いただく納経にも釈尊や釈迦如来と書かれていますから、てっきり釈迦如来と思っていました。朱塗りの山門の近くに石碑が建てられ、そこに寺歴がかかれ

「本尊は釈迦、阿弥陀、薬師の三如来を奉祀し、高野山真言宗に属し、四国霊場第三番なり。」



私が住んでいる場所と同じ板野郡です。ただ住んでいる場所から最寄りの札所といえば1番霊山寺か2番極楽寺となり、3番札所も何度も訪れたことがあります。

急いでお参りをすることが多いので今回はじっくりと境内を散策してみました。よくお世話になる方が言っていました。
「3番金泉寺のある場所は大寺という地名であるし、3番はこのあたりでも歴史もあって昔は大きいお寺だったから、大寺という地名になったのだろう」
と、3番はちょうど板野駅の近くで道のすぐそばということもあり、町家の中に囲まれて建っています。ですから少し初めての方にわかりにくい場所です。ただ案内がしっかりしているため見落とさなければ目的にへたどりつけます。

この辺りには源平ゆかりの弁慶の力石とよばれる石があり、寺名の元となった金の泉(井戸)があってその後ろにはお地蔵さまがまつられていました。六角形の観音堂も大師堂横にあります

本堂の左側に龍が巻き付く倶利伽羅剣を中心に多数の仏菩薩の像がまつられています。本堂裏手に塔が見えますが特に案内もなく参拝者に向けてというわけでもないように見えました。また墓地がある横の階段を上がった高台には忠魂碑が見えました。力あふれる若さの長男坊は走って上まであがり何が有るか見ていました。彼は彼で何かを探していたようです。

本堂にて無事お勤めを終え、大師堂に向かっていつもの様に並んで堂前で読経をしました。よくよく大師堂をみると四国霊場開創1200年の参拝者に堂内へ土足のまま入ることができるように(期間限定で)、大師を近くでお参りできるよう開放されてありました。

少し気がひけましたが中へ入り、お大師様を拝し、納経所へいき無事にお納経をいただきました。ここは近くで何度も納経所の方と接するのですが優しい女性が多いとわたしは思っています。



(近くやよく知っている人場所をよそよりも贔屓してしまうことを見ます)

5番地蔵寺・4番大日寺

第5番札所 無尽山 荘厳院 地蔵寺(むじんざん しょうごんいん じそうじ)

 阿讃山脈沿いにたてられているお寺の一つ、地名が羅漢、地蔵寺には羅漢堂があり、「四国唯一木造五百羅漢」と案内があります。羅漢は阿羅漢の省略形であって、アルハト・聖者を漢字にかえたもの、五百人のある一定の悟りを開いた聖者がまつられています。ただ拝観料が200円でしたかかかります。

本堂大師堂山門と距離は比較的近いのですが、山門前の道、羅漢堂への道や境内はあわせるとかなり広いものです。

山門をくぐればすぐ右手に大きな修行大師がまつってあり、何とも言えないもので、ただ有難いと何度見ても思います。境内の中心に樹齢800年の大銀杏が天高くしっかりと地に根を張り巡らし、樹下は太くうねりまがる根が遠目からも見えます。近くの子供たちがその周りで無邪気に遊んでいました。こどもが楽しげに遊ぶ境内でわたしと家内と子供たちは本堂前に整列しお勤め(読経)をしていました。

本堂前に経木塔婆がたくさんまつられ、そこに水をかけて供養する場所があり、水をかければ地下に大甕があって、水琴窟となってこれまた水を掛ければ遅れて妙なる(これを何とも言えない)心地よい音がするのです。

本堂をのぞけば、甲冑をまとい馬にまたがった仏像がみえます。普段見かける地蔵様とちがった一風変わったお地蔵様「勝軍地蔵菩薩」です。

大銀杏の脇を通り大師堂にて本堂同様に線香・ロウソク・お賽銭・納め札・勤行をすませ、納経所にて無事お納経をいただき羅漢の地を後にしました。


第4番札所 黒厳山 遍照院 大日寺(こくがんざん へんじょういん だいにちじ)

5番地蔵寺からならば北(山に向かうことになり)へ進んでいけば割りと近い場所にあります。駐車場も整備され、平成の大修理に入り、山門・大師堂・仏像など一年ごとの予定が書かれていました。

ここも周囲が山ばかりですから、木々から幼虫がたくさんお堂や道に出てきて、山のお寺のこの時期しょうがないものです。それでも本堂前にて変わらず並んで勤行を終え本堂の前から右の大師堂へ続く通路には、西国三十三観音霊場のご本尊、仏像(木造彩色)が並んでいます。

古くなっていますが美しいものです。西国は観音霊場ですから、三十三体の観音様がならんでいることになります。信心有る方が奉納されたようです。有難いことです。

大師堂も工事に入り、大師堂内のお大師様も修理に出されていることが書かれていました。代わりにおそらく4番大日寺の住職様は仏画を書かれることで有名です。住職が書かれたと思われる弘法大師さまのおすがたが書かれて正面にかけられていました。本堂と同様に並び

古く紅い山門から境内へ入り、手水場の左側の池には睡蓮が咲いていました。

納経所の壁にご本尊様の真言の和訳がのっていました。写真に収めたかったのですがちょっと許可をもらうことを言い出せなくて大体の意味を思い出し書いておくことにします。ここ4番大日寺のご本尊は大日如来です。

ご真言は「オン アビラウンケン バザラダトバン」

「オン 六大(地・水・火・風・空・識)より構成されるこのわたしと美しき世界、金剛界大日如来よ 幸いあれ」

ちょっと自分の考えが入りすぎましたが、もう少しわかりやすく短い訳だったようにも思います(次はしっかり覚えておきます)

これもわかりやすく書かれていることが、有難いことだと思いました。無事にお納経をいただき次の3番札所へ向かいました。

6番安楽寺

 第6番札所 温泉山 瑠璃光院 安楽寺(おんせんざん るりこういん あんらくじ)

5月6日、ゴールデンウィークの最終日に遍路のためにお休みを一日いただきました。いよいよ残すところ6カ寺、まずは6番安楽寺も割りと住んでいる場所から近いのですが、子供達と三人里帰りで家内が疲れていましたから、出発時間を少し遅目にしました。

6番安楽寺駐車場近くの石碑下部に山頭火の句がのっていました。

「暮れても 宿がない もずがなく」(どうも見落としましたが後二つあるようです)

句とは対照的に、ここ6番札所は宿坊施設が大きく、それよりもっと凄いのは仏像がたくさんあります。もっとも宿泊の方は見ることが出来ますが、一般の外から拝むばかりの普通の遍路のわたしたちにはお堂の外から拝むことばかりですので、見られたい方は宿泊にてゆっくり参詣すればみれるようです。長男坊は家内の両親と共に二・三回泊まっています。

境内もよく整備され池があり大きく美しい鯉が泳ぐ近くに多宝塔があります。多宝塔を拝し、山門正面の本堂へお参りします。堂前には石造りのお杖立てが一対置かれ、文字が刻まれています

「人生即遍路  山頭火」

側面には

「ぬれて てふてふ どこへいく」

「杖よ どちらへゆかう 芽ぶく山山」

また山号の温泉山をあらわす、温泉が湧き出る噴水を受ける大きな鉢も並んでいます。本尊は薬師如来です。いつもの如く線香・ロウソク・お賽銭・納札をおさめ、並んで読経です。安楽寺大師堂は本堂のすぐ右隣で移動距離はほとんどありません。

大師堂の前にやはりお遍路さん用のお杖立てが石造りで一対建立されています。ここにも山頭火の句が彫られていました。

「もりもり もりあがる 雲へあゆむ」

「うれしいことも かなしいことも 草しげる」

線香・ロウソクをお供えしたり、堂前にて読経を行う時にお杖をおくために、頑丈で綺麗な石造りの杖立をお遍路された方が奉納されています。遅れてわたしも山頭火の句や文が大好きなのですとこたえました
(山頭火の生き方や行乞には賛否両論あるかもしれません、ただ句は本当に輝いてみえるものが多いです)。


本堂・大師堂ともに勤行を済ませ、無事に納経をいただき5番地蔵寺へ向いました。


「青々の そらで経を読む (大渓水)」 

88番大窪寺から

第88番札所 医王山 遍照光院 大窪寺(いおうざん へんじょうこういん おおくぼじ)

 通常1番札所霊山寺(りょうぜんじ)から順番出回っているのであれば、88番大窪寺で結願(成満・満願)です。
ただ四国徳島に住んでいるわたしは、住んでいる一番遠く、お参りするのに一番時間かかる場所をはじめにと遍路をはじめましたので、88番がきても結願ではありません。いただいた納経の判にも結願所の文字があります。

駐車場から少し歩くと大きな大きな山門が見えます。山門前にて一礼し階段の先には藤棚に紫色の藤が美しく咲いていました。登りきれば大師堂です。大師堂の左にはこれまた大きな修行大師像が建てられ自然に拝していました。
大師堂の前の参道脇に紅い牡丹がいくつも咲き、皆が目を奪われていました。年配の綺麗な女性が牡丹と一緒にと写真をとっておられる方がおられました。わたしも対抗して家内と牡丹を一緒にと写真をとろうとしたら、子供達が押し寄せいつもの家族写真となってしまいました。さきほどの藤棚の藤は紫でしたが、その先の藤棚の藤は白色に咲いていました。

いつも本堂からお勤めをしていますが、折角なので大師堂からお勤めをすることに、大師堂の右脇には四国遍路に使った金剛杖(お杖)を納める寶杖堂があり、中が見える作りですから沢山の金剛杖(お杖)が収められていました。錫杖の形でひと目でお杖をおさめる場所とわかりました。

1番霊山寺もそうですが、ここ88番大窪寺でも四国遍路記念撮影がよく行われるため団体様など写真撮影の台が設置されています。無事結願記念の撮影で写真も売れるのでしょう。

いつもの如く、線香・ローソク・お賽銭・納札、読経を終え少し境内を散策しました。本堂前に不動尊がまつられています。ここも本堂を拝めば山に向かって拝むような自然に囲まれた場所、アチャラ・ナータがまつられているのも頷けます。「動かざること尊し」です。

大きな銀杏の木もありました、本堂前に昔からの小さな山門(こちらが正門)があり、階段を下り道に出れば、階段左脇にお土産物屋さんがあり、道向かいにもお土産物屋さんがあります。

階段脇のお土産物屋のおばあさんが「くず湯お接待ですよ」温かいくず湯を家族にお接待してくれました。もっとも境内の散策をしている間の時間を待てない子供達はもう座って先にソフトクリームを食べていました。「お父さん美味しいよ」そんな顔をして座って食べていました。
生姜が入り甘く温かいくず湯が美味しかったため、次男坊は二杯程おかわりをしていました。いただいてばかりもあれなので、そのお店で名物らしいこんにゃくを二つ買って、しばらく休憩後、残り徳島(阿波)の札所が1番から7番まで残っていますので、そのまま7番まで車を走らせました。

香川(讃岐)の札所、88番大窪寺は徳島の県境に近い矢筈山の東側に建てられています。よってここから徳島の7番十楽寺に向かう道は地道ですが意外と近いものです。一時間位走れば住み慣れた徳島に戻ってこれました。


第7番札所 光明山 蓮華院 十楽寺(こうみょうざん れんげいん じゅうらくじ)

7番十楽寺のご本尊様は阿弥陀如来さまです。ここ7番十楽寺と6番安楽寺と2番極楽寺は宿坊がありました。もっと前は1番霊山寺も宿坊があったようです。1番から7番の間で現在宿坊と呼ばれる施設は6番安楽寺と2番極楽寺です。

7番十楽寺も宿泊施設がありますが、近代建築でサービスも料理もよくなって宿坊というよりは民宿やホテルに区分されているようです。

話を遍路に戻し、7番十楽寺近辺はぶどうの産地がありますのでこの近辺は秋頃になるとよく葡萄を買いに来ます。ただ境内の中にはたまにしか入りません。

赤い高めの門をくぐり境内へ向かえば、もう一つ赤い門をくぐらねばいけません。2つ目の赤い門は中に入り愛染明王さまをお参りすることができます。これからも夫婦なかよくいることができますようにと子供達が先に入ってくるくる回っていた後にお参りしました。

境内はそれほど広くはないです。この日(4月29日)最後の札所となりましたので、子供達も少し疲れているようでした。
「今日はここが最後だから頑張ってお勤め(お参り)するよ」
本堂にて読経を済ませ、大師堂は本堂の左から少し階段を上がればあります。同様に勤行を済ませ、納経所へ向かいました。納経所も綺麗です。無事に納経もいただきこの日の遍路を打ち終えました。

残り1番から6番で四国遍路も打ち終えることになります。

87番長尾寺

第87番札所 補陀洛山 観音院 長尾寺(ぼだらくさん かんおんいん ながおじ)

平地にあって段差もなくお参りしやすいお寺となります。知り合いのお寺の住職さんの口癖は「お寺の場所はあまり変わらないけれど、道は時代によって変わる。」旧道と趣も目的も変わり、新しくできた通りやすい車のための道によって元あった場所では使いづらくなるもの、使いやすくなるものとあります。

自動車遍路のわたしたちは駐車場へ車をとめます。長尾寺の近くに専用の駐車場を確保できていないため左側から回って境内の一部を開放してくれています。よって車を降りれば既に境内の中であって納経所や本堂大師堂の近くで降りることが出来ます。ですから境内維持のため駐車場料金が200円かかったと思います。

目の前の本堂前にて線香・ロウソク・お賽銭・納札をおさめ、並んで読経となります。ご本尊様は聖観世音菩薩さま、ご真言は「おん あろりきゃ そわか」です。本堂が終わればすぐ右隣大師堂を同様にお参りを済ませ、境内の散策をしました。

本堂はしっかり南面に建てられ本堂正面から山門へ南にまっすぐ道が伸び手水場の後ろには大木があります。
本堂前に立派な松があり、その松に包まれるかのようにピースポールがたっています。ピースポールは日本語や諸外国語が幾つかつかわれ「世界人類が平和でありますように」英語で「May Peace Prevail on Earth」などのように書かれた様々な場所で見かけるポールです。この創始者がどのような宗教を信じているのであれ、善い言葉だと思います。反対を書けばわかりやすいものです。
「この広い世界で他の人はどうでもよく、わたしだけが平和で安全で安心でありますように」
なんて書かれているポールは撤去されるだけのことです。話がそれすぎたので長尾寺境内に戻ります。

山門には鐘がつってあり、山門前に重要文化財の経幢(きょうどう)が二基参道の両脇にたち、重要文化財のため雨風を凌ぐ屋根がつけられています。

重要文化財 長尾寺経幢二基
 経幢(きょうどう)は中国で唐から宋時代に流行したもので、わが国では鎌倉中期頃からつくられ経文を埋納保存する施設、あるいは供養の標識として各地に建てられるようになった。この形式に単制と複制があり単性はこの経幢のようなもの、複製は幡身の上部に中台や龕(がん)部があって灯籠ふうになったものである。
 この経幢は凝灰岩製で基礎の上に面取り四角柱の幢身を立て、その上に重厚な八角の笠と低い宝珠をのせたもので東側のは弘安九年五月、西側のは弘安六年(1283)七月の銘があり一気ずつ相ついで奉納されたことがわかる。
 昭和二十九年九月十七日重要文化財に指定された。
      平成二十年十二月  香川県教育委員会
                    さぬき市教育委員会
                    さぬき市文化財保護協会


横の説明に書いてありました。写真におさめ、現在も変わらず写経を納める方と七百年程前の日本でも変わらない信心や作法をそこにみて、拝し、香川(讃岐)最後の札所へと向かいました。

86番志度寺

 第86番札所 補陀洛山 志度寺(ぼだらくさん しどじ)

 駐車場に車を止めお寺に向かえば志度寺の塔頭寺院と平賀源内さんの墓所の間を通り抜ければ志度寺の門前です。せっかくですから、よく名前を聞く平賀源内墓所を拝見するとその墓石の左側にお大師様の石像がたてられていました。双方に礼拝し、86番へ向かいます。

 門前の看板に山号には補陀洛山とあります。補陀洛(ポータラカ)と聞けば観音様のおられる場所、ここ86番志度寺のご本尊様は観音様でした。正確に十一面観世音菩薩です。(蛇足ですがダライラマ様がおられる宮もポタラ宮であって、ダライラマ様は確か観音様の化身と言われています)

山門をくぐってすぐ左手に五重塔があります。志度寺の境内は讃岐(香川)の札所の中でも割と広めです。ただ境内の雰囲気が今までと全く違い、掃き清められた日本庭園の如き庭園が主ではなく、さまざまな木が植樹され、種類を数えるのが大変なほどです。通路とお堂の近辺以外本当に種々の植物が植えられています。 海辺の札所だということを境内にいれば忘れさせられます。

曲水式庭園・無染庭(むぜんてい)という立派な庭を拝観無料と帰ってきてから気づき見ることができず残念でした。
本堂にて整列し読経を終え、隣の大師堂前に小さいながら句碑(確か山頭火)がありました。大抵達筆で彫ってありますからぱっとみで
「月の黒鯛 ぴんぴんはねるよ」(昭和十四年の句らしい、近くの書物でみつけれず・・・)

長男に

私 「これ多分山頭火だよ(下のほうに崩してある名前山頭火だと思う)」

長男 「あんまりいいと思わないけどなあこの句」

私 「この句は(前後関係やどこで読んだのかがわからないから)ともかく、山頭火の句は他たくさん光輝いて見えるの多いよ」

長男「ふーん」

一年半前からはじめた家族皆で四国(自動車)遍路です。あのとき三男坊の「けいくん」は二歳か三歳でした。おぶったり抱えて一緒に回り始めていたのが、家内に面倒見てもらいながら遍路にかわり、今回は次男坊がずっと面倒見ながら読経していました。わたしや家内・長男・次男は劇的に変化していませんがかれ(三男坊)は随分と成長しました。

境内のいろんな植えられた木に気を取られている間に志度寺のお参りも終わりました。無事に納経をいただき次の札所へ向かいました。

久しぶりに海を見た、果もない大洋のかなたから押し寄せて砕けて、白い波を眺めるのも悪くなかつた(宮崎の宿では毎夜波音が枕にまで響いた、私は海の動揺よりも山の閑寂を愛するようになってゐる。)
今日、途上で見たり聞いたり思ひついたりしたことを書きつけておかう、昔の客馬車をそのまま荷馬車にして老人が町から村へといろいろの雑貨を運んでゐた、また草原で休んでゐると、年をとつたおかみさんがやつてきて、占い(ウラカタ)はしないかといふ、また、或る家で、うつくしいキジ猫二匹を見た、撫でてやりたいやうな衝動を感じた。
今日、求めた草鞋は(此辺にはあまり草鞋を売つてゐない)よかつた、草鞋がしつくりと足についた気分は、私のやうな旅人のみが知る嬉しさである、芭蕉は旅の願ひとしてよい宿とよい草鞋とをあげた、それは今も昔も変わらない、心も軽く身も軽く歩いて、心おきのない、情けのあたたかい宿におちついた旅人はほんとうに幸福である。
いはば草鞋は時代錯誤的な履物である、そこに時代錯誤的な実益と趣味とが隠されてゐる。
(昭和五年九月 山頭火② 行乞記 編 村上護より)



日記にさらりと上記のようなことを書き、ひかる句は多いよ、お兄ちゃん(長男坊へ)。

85番八栗寺

第85番 五剣山 観自在院 八栗寺(ごけんざん かんじざいいん やくりじ)

 ここのお寺変わった名前だと思っていました。自動車遍路ですから徳島県からナビに電話番号を入れ、ナビ通りに出発すると有名な以前家内に香川で有名なうどんでも食べに行こうと行ったら、どこかで85番札所八栗寺の麓にある「山田家」へ家族皆で言ったことを思い出しました。山田家で今回昼食をとるには時間が早すぎたため断念、前の道をどんどん進んでいけば八栗ケーブルへ到着です。

ケーブルの横に歩いていく道が見えました。前回の遍路のとき体調が悪かった長男でしたが、今回は全員げんきがありました。長男が
「(ケーブルのらずに)あの道を歩いて行こうよ」
「そうしよう」
元気な長男の返事とはうってかわって、家内少し表情が曇りました。体力を使うことが嫌ではなく疲れることが嫌なのではなくあの人はまったりゆっくり体力系ではなく物静かでいることが普段好きだからです。
結局ケーブルに乗る気がないために価格を見もしませんでしたが、大人(中学生以上)往復930円・小学生往復460円・小学生未満は乗車券一枚につき一名無料とHPに乗っていました。もし乗っていれば長男が中学生になりましたので大人3名小学生1名ですから、合計3,260円ということになります。節約というより、醍醐味を味わうためにいざ出発なのでした。

ケーブルが引いてある理由もわかりました。斜度がきつく85番八栗寺まで1km位とありましたが、普段ハイキングなどをしないわたしは息切れしました。ただ鶯(ウグイス)が競って鳴きあい、木々の緑は美しいものです。行きかう方へ元気よく挨拶をしながら登っていれば、新緑にあわせ幼虫がたくさん木から糸を垂れ降りてきています。地面にもそこいらに幼虫とその糸がたくさんです。(これはようちゅういです)

わたしと長男はどんどん先に登りました。後ろのほうでは次男坊と三男が仲良く手をつないだり、時には歩き疲れた「けいくん(三男4歳)」をおぶって歩いて登っています。ただ幼虫を踏まないように体につかないように叫びながら(元気よく)時間をかけて八栗寺まで登ってきました。

普段部活で鍛えている長男も少し疲れていました。ケーブルがあるのは小さい子や元気でない方やお年寄りには便利なもの、移動の時間も短縮できます。わたしたちは元気ですからできれば時間が許す限り体をつかっていきたいと思います。(だってそのほうが健康的だしお財布に優しいから)

登りきって本堂・山門正面にあたる見晴らしの良い場所にお大師様(石像)が建立されてありました)。来られた方を出迎えてくれておられました。礼拝し本堂へ向かいます。八栗寺のすぐ後ろに岩肌が切り立った山、五剣山があります。
何とも言えず山と本堂と一体化したような有難い場所です

八栗寺の歴史・由来
屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があります。地上から剣を突き上げたような神秘的な山です。八栗山はその8合目にあり、多くの遍路さんはケーブルカーで登られます。 天長6年、大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れました。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけらました。
五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名でした。 延暦年中、大師は唐へ留学する前に、再度この山に登りました。そして仏教を学ぶ念願が叶うかどうかを試すために8個の焼き栗を植えられました。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずない焼き栗が芽吹いていました。これが八国寺を八栗寺へ改名した由来です。この寺も長宗我部元親による八栗攻略の兵火により全焼しました。しかし、江戸時代に無辺上人が本堂(三間四面)、さらに高松藩主松平頼重が現在の本堂を再興、弘法大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置し、観自在院と称するようになりました。五剣山は、宝永3年(1706)に、大地震を遭い、昔は五つの嶺のうち、東の一嶺が中腹より崩壊し、現在の姿になりました。
四国八十八カ所霊場会公式HPより抜粋


読んでも納得できない縁起がよくありますが、八栗寺の縁起はすっと納得できました。そこで時を過ごしましたが霊験あらたか有難い場所だと実感しました。(ケーブルも引かれるはずです)
現在であれば道も整備され一般車両は入ることはできませんが、工事車両は入ることができます。昔のかたはあの山上へ重機を使わなければ上がれないようなものをどのような思いで持ち上げたのか、有難いことや信心がなければお堂は建てられていなかっただろうと山上のお寺をお参りすれば思います。
山頭火の行乞記に

「西洋人というのは山を征服しようとするが、東洋人は山を観照する、我々にとつては山は科学の対象でなくて芸術品である、若い人は若い力で山を踏破せよ、私はぢつと山を味ふのである。」


以前に出した「山あれば山を観る(山頭火)」山をご神体とみなし、ただありがたいと頭をたれる。山(自然)と一体化することをきっと日本人は好んだのでしょう。

ここもそんな場所(お寺)の一つでした。



(八栗寺へ車で向かう道はナビ任せにしており帰ってから気づいたのですが、もう一つ道があります。今度はあちらの道を通りお参りしたいと思います。ケーブルが有名になったことでナビもケーブルへの道優先で探索されていました。)

詳しくは後でと

 四国遍路満願まで残り讃岐(香川)の札所が4カ寺(85番~88番)、阿波(徳島)の札所の残りが7カ寺(1番~7番)でした。今日は職場へ子供と行ける日に休みをいただき、朝からまず離れた讃岐(香川)の札所へいってまいりました。

無事に讃岐(香川)の札所も打ち終え、これで残り阿波(徳島)の7ヶ所となり、山を車で越え7番札所を打ち、ゆっくりの行程で今日のお遍路を終えました。

残す所自宅から近い場所だけとなって、土佐(高知)の札所・伊予(愛媛)の札所・讃岐(香川)の札所三つが全て終わり、後は阿波(徳島)の札所6つです。

遠い場所から優先してお参りに向かい、今度はゴールデンウィークの最後の日に休みをいただきましたので、その日で四国は無事に終わる予定です。今年中に紀州(和歌山)の高野山へお参りに行ければ、四国遍路も成満(結願や満願ともいいます)です。

この時期本当に新緑がまぶしく、名前も知らない山が美しく、鳥の声も美しく、車の中で風に吹かれる家内の黒髪と笑顔が美しいと運転席から見えるバックミラー越しに感じました。

若葉で萌える木々、やわらかく生命力あふれ、鳥や虫も活発でした。車より歩いたほうがもっと楽しめるのでしょう。わたしは家族全員でお参りをするという選択をしましたから、家族全員の時間があう限られた時間での車遍路です。
暑くなく寒く無いという季節に歩き遍路の方を車で何人も追い抜きすれ違い、本格的な自転車(ロードーレーサーというのか)で遍路されているかた、サイクリング親子連れでお寺を参られる方もすれ違いました。

今年は高野山開創1200年、それに合わせ四国霊場開創1200年の記念判や記念のおすがたが5月31日まで延長されています。家族連れまったりお遍路のわたしたちには本当にありがたい期間延長です。都合昨年一年間と約半年で一年半記念の特典があるのは本当に有難いことでした。わかりにくいことになれば賛否両論あるのはどこでも同じです。

ただ時間にせかされない遍路を最後まで楽しみたいです。

きっと霧のせい

 第82番札所 青峰山 千手院 根香寺(あおみねさん せんじゅいん ねごろじ)

 81番白峯寺から間違えて83番一宮寺(いちのみやじ)に行ってしまい、少しではなくかなりの移動距離が長くなり、しかも時間もかなりとられてしまいました。ここはですね、82番札所根香寺(ねごろじ)へ無事到着したからよしとしましょう。
割りと何にでもよく気がつく長男坊に「かなり時間がのびたね」なんて二回ほど言っていました。気にしていますがここは気にしないのです(ごめんなさい)。

81番白峯寺(しろみねじ)も山上ですが、ここも青峰山という山の上にあるお寺となります。本来ならば山を下らず山沿いの道でここに来るはずだったと思います。

この日(4月6日)は雨のせいか、ここも白く霧(もや)がかかって見通しはよくありませんでした。白峯寺には天狗がいました。ここは牛鬼がいたところです。(駐車場についてすぐの門前の看板に次のようにありました。)

 根香寺の伝説『牛鬼』 今から四百年くらい昔、このあたりに『牛鬼』と呼ばれる怪獣が住んでいて、人々を大変困らせていました。そこでこの地方を治めていた殿様は、山田蔵人高清(やまだくらびとたかきよ)という弓の名人に牛鬼の退治を命じました。高清は根香寺の本尊である千手観音にお願いをして、そのおかげで牛鬼を見つけ出し、見事退治したそうです。
 そして怪獣の角(つの)を根香寺に奉納して、その菩提をとむらったと伝えられています。


山門でいつも写真を撮ります。ただ霧が濃く山門の向こうの景色は映らず白く濃い霧しか見えません。山と森の中にあるお寺、山門をくぐればすぐに下りの階段があり平坦な道は直ぐに上りの階段になります。その道中に牛頭観音さまと役小角さまの石像がまつられています。

階段をあがれば左手に白猴欅(はっこうけやき)がありました。(看板には次のように書かれていました)

白猴欅(はっこうけやき)
智証大師が当山開基の時、この樹下に山王権現が現れ、また、白い猿が下りてきて、大師を守護し創業を助けたと云う。
 樹齢約1600年。
 樹幹の周囲約七メートル。
 昭和50年頃、枯れてしまい、平成三年に保存のため根を切り、屋根をつけて生えていた通りの位置に据えています。



1600年も生き続けている大木もいつかは枯れるということを教えてくれています。わたしや大切な人達もそれはかわらないことです。愛するものと別れなければいけないことも苦しみの一つ、昭和50年以前にここをお参りしこの大木を見て感動された方ならば、「この世は移ろい変わりゆくもの」だからこそ怠らずつとめなければいけないと思ったことでしょう。

本当に枯れてしまったとはいえ、立派な大木のあとです。

国指定重要文化財
千手観音木像
当寺の本尊でありまして、平安時代(藤原時代初期)智證大師円珍の刻んだもので櫻材一木造り、
 総身 漆箔 高さ1.65メートルの立像
古来三十三年目開扉の秘仏とされています。
   ご開扉は平成四十八年(2048)



本堂をお参りするためには時計回りに小さな観音様が沢山まつられている回廊を歩いて通ります。まだ外は白い霧の中で近い場所しか見えません。団体様が先に本堂でお勤めをしておられました。少し待って後の方の邪魔にならないように揃ってお勤めをして本堂を後にしました。大師堂でお勤めをしようとしたところ、三男坊の「けいくん」がトイレに行こうとしてそそうをしましたので、家内と次男は車へと向かい霧の中に消えていきました。
わたしと長男はロウソク・線香・お賽銭・納札をすませ、皆がもどるのを大師堂まえのベンチで雨宿りしながら待っていました。
しばらくして次男が霧の中から走ってもどってきました。揃って大師堂でお勤めをおえ、隣にある納経所にて納経をいただきました。霧はなくなることなく一層白いままお参りを終えました。


間違い

第83番札所 神毫山 大宝院 一宮寺(しんごうざん だいほういん いちのみやじ)

81番札所白峯寺(しろみねじ)を打ち終え、設定しておいたナビの通りに車を走らせました。
するとなぜか83番一宮寺の駐車場へ着きました。
「あれ、何で82番根香寺じゃなくて、83番何だろう」
まあ朝一番にお参りするお寺をナビ登録したのは他の誰でもないわたしです。助手席にいる長男が
「大分距離と時間をロスしたね」
「こういうこともあるって、83番一宮寺お参り終わったら82番根香寺にお参りに行くから」
ということで、一宮寺のお参りとなったのです。

駐車場から少しだけ歩きます。ここも満開のさくらが出迎えてくれます。山門左奥にしだれ桜も咲き美しく、後ろにお堂の屋根が見えます。
山門をくぐり少し歩けば、菩薩堂があり、不動尊がまつられ、赤い鳥居が立ち並ぶ奥にお神様もまつられています。
本堂の御本尊様は聖観世音菩薩さま、線香・ロウソク・お賽銭・納札をおさめ、ここも少し雨が降っていましたが雨の当たらないところで整列しお勤めをおえ、隣の大師堂でも同様に勤めました。
少し離れた所へ綺麗なお堂があります。護摩堂でした。その左に枝垂れ桜が見事に咲いていました。桜のちょうど善い頃にお参りできてお参りだけでなく、花見も満喫出来ました。

新しい駐車場からの道、元の古い山門のある道、車でお参りする方が増えたことか、新しく便利な道ができたのか、札所も時代の流れによって少しずつ変化しているようです。

まだ新しい護摩堂は美しいお堂です。正面から中を見れば、護摩壇があり護摩を修されたあとが残っていました。

枝垂れ桜、美しお堂、護摩の修されたあとを去ることは名残惜しいほどでしたが、行程もあります。納経所にて無事にお納経をいただき、とばしてしまった前の札所82番根香寺へ車を走らせました。

四国81番札所白峯寺

第81番札所 綾松山 洞林院 白峯寺(りょうしょうざん どうりんいん しろみねじ)

寺名に峯がついていれば、やはり山の上にあるところばかり、ここも山上にあります。この日(4月6日)は生憎の雨模様、雨が少しちらついている程度ではありました。ただ山上には霧が立ち込め、視界が狭い中のお参り、その名の通り白い峯をみてきました。

白峯寺にはお堂がいくつもあり、本堂・大師堂をのけたうえで各干支の守り本尊参りに分けられるほどお堂があります。
また堂前に心優しい相模坊という天狗がいます。「あ、てんぐだ」と言われその方を向けば本当にいました。霧隠れしている天狗を写真に納めて、本堂大師堂へ階段を登り向かいました。
家族それぞれ縁のある仏様のお堂をお参りして、本堂の屋根の下で雨をしのぎながらいつもの如くお勤めいたしました。
広い境内ではありますが、本堂と大師堂は隣です。本堂まで行けばお参りも早いものです。大師堂にて線香・ロウソク・お賽銭・納め札をおさめ、勤行を終え、一番下の入り口山門正面にある護摩堂内納経所へいき、無事に納経をいただきました。それにしても白い霧で遠くは見えませんでした。

山の上に登って駐車場の前に綺麗なトイレが建てられています。綺麗で大きな整備されたトイレを作るにも割りとお金がかかります。食事とトイレは人間にとって大切なことです。沢山のお遍路様がお参りされることを考慮され、境内の中にもトイレがきちんとあります。本当有難いことです。私も子供達もご利用させていただきました。

雨の中を

第79番札所 金華山 高照院 天皇寺(きんかざん こうしょういん てんのうじ)

 天皇寺に向かえば、中心に一際朱色に目立つ鳥居の後ろに神社があります。その両脇を囲むように本堂・大師堂と納経所があるお寺です。

境内に入ればすぐに美しい桜がここも出迎えてくれました。少し雨が降っていましたがそんなことを忘れるくらいちょうど満開の桜の横を通りぬけ神社の前を横切って本堂・大師堂へ向かいました。

その道中の入口正面にある際朱色で目立つ鳥居、少し変わった形をしています。普通の鳥居は二本の柱で立っています。二本の柱のそれぞれを支えるように柱が一つずつあり、四本の柱と鳥居の一番上には瓦の屋根のようになっています。全国でも数が少ないそうです。ただこの日一番最初のお寺参りということで、先を急いでいたのか、ここの神様や鳥居をじっくりみず、お寺をじっくりみていました。

本堂大師堂が寄り添うように建てられ、木々は緑をたたえ、ただ足元のぬかるみと他のお参りの方に気を取られてしまいお参りに少し集中できず、長男にミスを指摘されました。すぐ横の大師堂から気合を入れ直しお勤めいたしました。些細な事に気を取られ、本末転倒させては駄目だと痛感しました。

いつも本堂・大師堂の読経(お参り)がおえると境内の気になるところを散策しています。忘れやすい私は気になるものをデジカメにおさめていきます。

大師堂の左手に建物が木々に隠れるようにあります。中を覗けば屋根つきの礼拝所です。その正面には五色の幕が有り、その奥にはお地蔵様がまつられています。その後ろの白い壁には、青い蓮と黄色い蓮が描かれています。
その何とも言えない良い感じのお地蔵様でした。簡単にお参りを済ませ家族の所へ戻りました。

境内の移動距離が少ないことと、雨が降っていたことでお参りにかかる時間がここではあまりかかりませんでした。納経所へ向かい無事に納経をいただき次の札所へ向かいました。


第80番札所 白牛山 千手院 国分寺(はくぎゅうざん せんじゅいん こくぶんじ)

香川(讃岐)の名前の通り全国にある国分寺の一つです。

山門の前に見事な枝振りの松がまるで山門の一部に溶け込むかのように左から右へ枝を水平にのばし深い緑がお参りの方を自然に出迎えてくれています。

門をくぐればかなり広い境内が飛び込んできます。両脇に巨木の松が続き、松は枯れることもありますから、松の境内の荘厳の素晴らしさを伝えるため、次世代へつなぐかのように小さい松が植えられています。

本当に広く、参道の両脇の松の後ろには、四国八十八か所の本尊様の石仏が建立されています。お堂も幾つもあり、またここの鐘楼堂の鐘は四国最古(奈良時代)の鐘と言われ、総高五尺あまり(約1.5m)重量やく三百貫(千二百キロ)と鐘楼堂前の看板ありました。

本堂は大きく立派なお堂です。堂前の看板に本尊様についての説明がありました。

本堂内陣の須弥壇上に寛文年間初代高松藩主松平頼重公の寄進になる大厨子内に当本尊十一面千手観世音菩薩が安置されているこの仏像は欅(けやき)の一木造りの立像にして御丈丈六と称するが、その実測一丈七尺三寸(約五・七メートル)の巨像である。四十手を備え、第一手合掌、第二手宝珠を執り、以下錫杖を右手にほこを左手に執り、左右に脇手を配列し、各手に持物を執り左肩より斜めに袈裟をかけ腰部に裳裾まとい、両臂よりまといを垂下しすこぶる温顔優美である。
寺伝に行基菩薩の作、弘法大師の補修と称せられている。



堂前にて並び勤行をおえ大師堂へ向かう途中、家内がお願いをしに行っていました。どこへ行くのかと思い先を見れば

お願い弁財天
七福神唯一の
たいへん美しい女神様です
あなたも「美」「智」「福」を
お願いして授かりましょう


そんな看板がありました。
こちらを向いていましたので
「これからもそうあるようにお願いしてきたら」
頷いて弁財天さまにお願いをしていました。

ここの境内は広いです。遠くの塔のような建物はなんだろうかと思っていたら、そこに弘法大師さまはまつられており、ここは四国の札所の中でも数少ない堂内でお勤めできるところです。雨が少し降っていましたので濡れることを気にせずお参りでき大変有難いことでした。

大師堂を拝むすぐ右に納経所です。丁寧に頭を下げ納経をいただき、高く大きな松に見守られながら境内を後にしました。

振り返れば、本当に山門前の松は美しいものでした。


(残業で帰りが遅くなりきょうは更新も遅め・・・・、続きは明日です)

さりげないこと

 第77番札所 桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)

道隆寺のお堂は、古いですが趣を感じる本堂です。駐車場からだと後ろからお堂が見えます。その影に仏塔あります。
鐘楼堂も土台が高いのではなく、柱を長くして高い場所へ釣ってあります。
境内はどの札所とも掃き清められ、ここ道隆寺でも同じで、広い境内に近所の小さい子達が境内で遊んでいました。近くには年寄りが見守り、鳩に餌をやる老人もいました。
鳩が多いせいかお堂の正面には鳩よけが施されていました。鳩は平和の象徴と言われることも多いです。私は長崎で育ち、中学高校の頃よく学校近くの平和公園に行き、鳩とたわむれていました。ただ増えすぎればお参りの方にフンなどがかかりますから注意したいです。

お参りより鳩と遊ぶ子供達に「けいくん」は心うばわれていました。もっとも小学五年生になる次男坊も同じようなもので、一番上の長男坊はお兄ちゃんですから、気をつけています。
「遊ぶのはお参りが終わってからだよ、しっかりお参りするよ」
「はーい」
ここの本尊様は薬師如来です。この辺りの札所は本尊様が薬師如来さまが多いです。天下の霊場高野山の中心にある金堂の御本尊様も薬師如来さまです。
厄除け・懺悔・病気平癒・社会の病の治癒などさまざまなことにご利益があります。ただそれより「救われたい」と願うことは万人に共通していると思います。生きていればいろいろあります。ときに救われたと思うことも、救ってほしいと願うことも、誰かを助けたい願うことも、わたしのことよりあの人をなんとか、いずれにせよ清らかな願いは美しいものだといつも思います。

本堂と大師堂でのお勤めを無事に終わり、いつものように納経所へ長男坊と向かいました。このとき次男と三男は境内を散策したり散策することを忘れ走り回って遊んでいるか、何かに夢中か、その二人を後ろから家内が追いかけ面倒をみてくれています。

納経をいつものように「お願いします」と頭を下げ、終われば丁寧にまた頭を下げ「ありがとうございました」と言った時、納経所の僧侶の方が
「お子さんは三人ですか」
いきなりの質問で戸惑いました。
「はい、そうです」
笑顔と共に棒付きの飴を三つ渡してくれました。
「有難うございます」

どうも本堂と大師堂でお参りしているところを遠くから見ておられたようです。さりげない優しさにいつもやられてしまいます。長男と二人で感謝し次の札所へ向かいました。


第78番札所 仏光山 広徳院 郷照寺(ぶっこうざん こうとくいん ごうしょうじ)

まだ納経所が閉まる夕方5時までに割りと余裕がありました。しかし、友人に遍路をはじめる前に言われていたことを思い出します。
「急いで(時間だけを気にしすぎて)遍路しても、どこをどうお参りしたのかすら覚えていないということになります。時間より大切なことがあります。時間を気にせずゆっくり回ってください。」
そう言っていました。
わたしの中で「時間より記憶に残る遍路にしたい」彼の言葉を聞いてからずっとそう思っていました。
とらわれている人はときに大切なことを見逃すものです。わたしが今までずっとそうでしたからそのことを覚えている時くらいは気をつけていこうと思っています。

道隆寺の駐車場から真っ先にみえるものは鐘楼堂の鐘の案内が飛び込んできます。
お寺の鐘はなんとも言えない音色です。
「ゴォーーーーーン」
派手でもなく高すぎもせず低すぎもせず、長く静かに響く音色です。
時を告げる役割も一般的です。ただ朝の鐘の音は起きていない人を真理に近づくようにとの目覚めつげ、一日の終りであれば気が付かずしてしまった悪いこと(知ってて悪いことをしてしまったことも)をはらい清める音でもあります。
一般的に鐘は世界平和のためにの意図が強いものです。ここ郷照寺でも戦争中に金属が日本全国で強制徴収されたように、お寺の鐘もその対象となり徴収されそうになった、ただ歴史的な価値があることからそれを免れたと書かれてありました。
お寺には鐘楼堂、つまりは鐘が無いお寺もあります。ただ戦後こぞって世界平和のためにと鐘楼堂を再建したり新造したりと、お寺と鐘は正月などの行く年来る年にあるように切り離せないものです。

郷照寺の本尊は阿弥陀如来さまです。阿弥陀さまと浄土もきりはなせないことです。真言宗寺院ですが一遍上人縁のお寺です。
本堂前に行けば、本堂正面の屋根の天井の見事な彩色豊かな花に目が自然に行きます。美しいものでした。
近くにさぬきの三大ぽっくり地蔵(石仏)なるものがありました。ぽっくりと天寿を全うしたい方のお参りもきっと多いのでしょう。できれば私もやるだけのことをやってぽっくりいきたいです。
本堂で作法と読経を終え、本堂より高台にある大師堂へ向かいます。

大師堂は厄除けで有名であり、階段には厄除けを願う方がお賽銭を一段ずつお賽銭をおいてありました。大師堂も本堂と同じく天井に美しい彩色の花があります。ただ運悪く工事中で少し工事の機材が景観をじゃまして写真を撮るには残念でした。遍路やお参りの方のために工事をされていますから致し方のないことです。
大師堂でも他の方のお参りのじゃまにならないように離れ並びお勤めを終え、大師堂前に万躰観音洞なるものがあります。当然皆でいってみます。地下ですしコンクリート建築ですし、観音様も金属製ですから冷やりとした感覚でした。
石よりも金属はやはり冷たい感じです。仏像が木造が多いのは木の温もり、生命のあたたかさを尊重しているからだと思いました。

大師堂の横に稚児大師と観音様が建てられています。その横に巨木の桜があり満開でした。

見事なものです。

桜は生を急ぐかのように一斉に咲き、数日で潔く散っていくものです。

(わたしを含め)多くの日本人はさくらを愛しています。この時期、桜を見ればいつも同じことを思います。できるだけのことをして、潔くいきたいものです。

どうしてどうして、仏教で言う「苦」とは「不如意」をあらわし、不如意とは「意のごとくならざるもの」ということです。


「自分が思うようにならないことが苦しみ」


いつの時代も仏教は「苦の超克」も説き続けています。

変えることの出来ない現実の苦しみをみずからの心を成長することによって、今まで苦しみとなっていたものが苦しみとならず、わらってながすことができたり、よりよい未来を作るもととしていく。


いつもむずかしいことですが

わたしのためにも

家族のためにも

身近な人のためにも

縁のある方のためにも



つらいことや怨みも怒りもできれば、笑って楽しんでいきたいです



誕生院

第75番札所 五岳山 誕生院 善通寺(ごがくざん たんじょういん ぜんつうじ)

山号の後に、院の名前が誕生院とあるように、ここは弘法大師ご生誕の地としてお参りされ、弘法大師(空海)さまの父君は佐伯善通・母君は玉依御前、父君の名をとって善通寺となり、ご誕生所の寺としてまた、真言宗善通寺はの総本山として名を馳せています。

その名に恥じず境内は本堂のある東院と大師堂のある西院とに分かれ、それぞれが広大な境内(総面積約45,000平方メートル)に及ぶ広大な境内といくつもの堂宇、本堂前には立派な五重塔がそびえたっています。

山麓にある駐車場もかなり広めです。駐車場から橋(済世橋)をわたり西院(大師堂)がある場所に行けます。
塔頭寺院もあり、土塀沿いの道を歩きながら「この広さと感じは、奈良の大仏さんのお寺と感じが似てるね」なんて長男と言いながら本堂を目指しました。

出店もあります。ただ縁日にや行事にあいているようです。横にいる長男へ「お寺には縁日があって、縁日と言えば出店と人で賑わう日だけれども、観音様なら17日・不動尊なら28日・お大師様なら21日(他にもいろいろあるけれど)その日のお参りに来られる方が多いから出店も出て賑わうんだよ」
もっとも私が子供の頃より屋台などの数は減ってきています。お店も増えて便利になっています。品物食べ物もいつでも買いに行けば買えます。挙句はどこにいかなくてもインターネットで注文すれば持ってきてくれる世の中ですから(ああ、話がそれました)

東院(本堂や五重塔がある場所)には、広い境内でしたが鳩が多くいました。参詣人特に小さい方は、鳩を追いかけたり興味津々です。うちの「けいくん(三男坊)」も興味津々なのに、人前なので照れて追いかけたりしていませんでした。

子供と家内がたずねてきます.

「鳩の群れの中に、首元がふくらんで近くの鳩に寄っていく鳩がいるけどなんでだろう」

しばらくその首元がふくらんで近くの鳩に寄って行く鳩を見つめていました。習性をみていればあれも鳥ですから鶏と同じようなものです。「あれはメスに寄って行って交尾しようとしてるんだと思うよ」そう言っている間にメスがオスの上に乗ろうとしています。「ほらやっぱり、春だからねえ」
家内も長男も言葉がなくなりました。それはともかく本題にかえります。

弘法大師ご誕生の地でもあり、真言宗善通寺派の本山でもあり、四国八十八カ所霊場会本部事務所でもあります。

本堂と大師堂と五重塔の大きいこと、広い境内に負けるどころか存在感十分です。

本堂正面に山門があり、境内を取り囲む東院の壁沿いに石づくりの五百羅漢がたっています。また山門をくぐって左手に大きな大きな老楠があり、樹齢1300年を超すほどの巨木です。地上1.5メートルの場所で幹周り11m程と書いてある看板と境内や巨木に比例するかのように他の場所にあるものより大きなピースポール(「世界人類が平和でありますように」と書かれた様々な場所で見かけます)が建てられています。

本堂でいつものように端に並び、お勤めをしました。近くの五重塔で記念撮影をしたり鳩を見て、大師堂(御影堂)に戻り線香・ロウソク・お賽銭・納め札をおさめ、端に並んで勤行をすませ、納経所へ向かい無事に納経をいただきました。

大師堂(御影堂)では、「戒壇めぐり」と宝物殿の拝観の受付があります。大人が確か500円子供が300円(だと思います)。
大師堂の地下、真っ暗な中を100m程、南無大師遍照金剛と唱えながらめぐっていくという「戒壇めぐり」、明かりが少しもささないので、「けいくん(四歳)」は「おとうさん、ここ入らないでいいから、かえろう」としがみついてきます。
「大丈夫だよ、おとうさんがいるから」抱きかかえて(お金も払ったのだから行くしかないのです。けいくんは無料でしたが)左側の壁に手を添え少しずつ真っ暗闇を歩きました。とらわれる人は「なむだいしへんじょうこんごう」を唱えることを忘れてしまうものです。思い出してはとなえ、けいくんが重たいなあ、なんて思っている人におかげは薄いものです。
ただ長男も次男も十分に満喫していました。ずっとあの子たちも覚えていると思います。私も小学生時代に暗い場所をくるくると同じように行ったことを今でもおぼえています。

暗い暗い戒壇巡りが終わって堂内に上がってくれば、宝物館を拝観に行くことが出来ます。善通寺の寺宝です、どれもが素晴らしいほとけさま・曼荼羅・法具で見応えがありました。時間がある方であれば是非行ってもらいたいです。
また真言宗寺院ですが、親鸞上人の木造がまつられている立派な親鸞上人堂があります。

それなりな時間をとって、広い境内とお堂を駆け抜け、次の札所へ向かいました。


第76番札所 鶏足山 宝幢院 金倉寺(けいそくざん ほうどういん こんぞうじ)

金倉寺と書いてありますが、はじめこのお寺の名前なんと読むのかわかりませんでした。道路標識にルビはないですがアルファベット表記があることに助けられます。
「金倉寺(こんぞうじ)」です。さて何故この名前になったのかとお参りのとき気になっていました。

金倉寺の歴史・由来
金倉寺は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。
「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれ、たいそう賢いと評判でした。智証大師が2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たといわれています。そして、「きっと仏様が生まれ変わったに違いない。将来は必ず立派なお方になられるだろう。」と、この地に立派な子が生まれたと喜び合ったそうです。また、5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説も。この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされる「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)でした。こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。(四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページより)


ということです。

ですから境内には鬼子母神堂があり、大師堂には弘法大師だけでなく、天台宗系統で大師号をいただいた弘法大師の親戚である智証大師、共にまつられています。

入山大師像(智証大師尊像)の右には天満宮もあり神仏が共にまつられ、その天満宮の斜め前に牛が座っている石像も奉納されてあります。

神社にはよく牛や馬の像が奉納されている場所が多いです。今は田畑を耕すのも機械、重たいものを移動するのは自動車、人力の限界をよく知っていた古人は牛や馬と共に暮らし感謝していた名残かとその像を見ていました。それにしても神仏が共に存在するということがあたりまえであった明治以前の名残がまだ現在にも数多く見ることが出来ます。

本堂前に金の箔を大黒様にはってお願いをするという一風変わったお参りの仕方があるところでもあります。
寺名が「金倉寺」ですから、金の倉にあやかってお願いをされる方が多いようです。全国どこにでも有名なお寺と地名が同じ場所があります。ただ近くの駅は「金蔵寺駅」で倉の字が違っていました。調べればなにやら理由がありそうな気がします。
堂前の絵馬をかける場所がありました。その絵馬は普通の絵馬の形と違い、黄金色の小判の形をしている絵馬に願い事が幾つもかけられてありました。体験上あまりお金に縁がないですから、欲張らずお金のことはお願いをせず、ただいつものごとく家族のしあわせと身近な方の供養や祈願を本堂と大師堂で終え、納経所へ向かい無事に納経をいただきました。



(記事長くなり、書くことに少し疲れたので、続きは明日へ・・・)

73番出釈迦寺から

第73番札所 我拝師山 求聞持院 出釈迦寺(がばいしざん ぐもんじいん しゅっしゃかじ) 

72番曼荼羅寺と73番出釈迦寺の「山号(我拝師山)が何故同じなのだろう」あまりいろんなことに注意が行き過ぎてはじめ気がつきませんでした。それぞれ善通寺市の我拝師山の麓に隣接するように建っていることから、山号は意図的に統一しているようです。

お寺の左側にある我拝師山は大師所縁の捨身ヶ嶽として知られています。ここへ本当は子供たちと登る予定でした。この前日から長男の体調が万全ではなかったため、次回の際に捨身ヶ嶽参りは延期となりました。

すこし小高いところへ、73番出釈迦寺はありますので、向う階段に石碑と綺麗な桜と桃と梅でしょうかお参りに来られる方を出迎えてくれていました。石碑には

「山あれば山を観る」

         山頭火

弘法大師が幼少の頃、身を投げて仏法を求め、それにこたえて天女と釈迦が現れたと云われる我拝師山。

私も切り立った岩肌と高所にあるお堂、山を観ました。

本堂にまつられている御本尊様は寺名にもあるように釈迦如来さま、本堂・大師堂にて小雨の降る中、お参りを済ませ、無事に納経をいただきました。終わって家内が納経所の中で私を呼びます。「写真があるよ」何だろうかと見てみれば、そこの住職(尼僧)さんと私の師匠が(おそらく)高野山の伽藍で撮られた写真が飾ってありました。よく周りを見れば他にもそこの住職さんと有名人(芸能人)の写真が何枚も飾られていました。
境内に鐘楼堂を再建しようと
雨も上がり、駐車場へ向かいながら「次回の遍路で必ず(捨身ヶ嶽)いこうね」と長男と話しながら山門を後にしました。
車について座って、家内や次男三男を待っていたら、境内へ傘を二本置き忘れたことに気づいたとき、団体のお遍路様が到着し参道も賑わうなか、坂を走り取りに行きました。本当忘れ物には気を付けたいです。

第74番札所 医王山 多宝院 甲山寺(いおうざん たほうざん こうやまじ)

73番出釈迦寺より車であれば近い場所にあります。山裾に位置して平地と高さがあまり変わりません。
どこの境内も桜が見頃です。駐車場から立派に建てられまだ新しい感じの山門の右手に綺麗に桜が咲いていました。境内も手入れが行き届いています。山門の額に醫王山と書かれており、ここの御本尊様は薬師如来さまです。

境内に綺麗な手水場があります、見渡せば向こうにも手水場があります。おそらく整備された駐車場から入る方のお参りが多くなり、駐車場横から入る山門と手水場が新しくなったような感じの境内配置となっています。

香川でお生まれになられた弘法大師、今お参りしている場所はその近くということもあり、大師関係の話が沢山あります。ここ甲山寺は

甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していました。
ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました。
その後、嵯峨天皇の勅命を受けてこの地にある日本最大の溜池「満濃池」の修築工事を監督する別当に任命された弘法大師。朝廷が派遣した築池使さえも達成できなかった難しい工事です。弘法大師は甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法しました。すると大師を慕って数万人の人々が集まり、力を合わせてわずか三ヶ月で完成させたのです。朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊とし、安置。山の形が毘沙門天の鎧、兜の形に似ていることから「甲山寺」と名づけられました。(四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページより)



境内には子宝にご利益のある前掛けを持ち帰って願い叶えば新たに新しい前掛けを奉納するというお地蔵様や毘沙門天堂などが見どころとなっています。本堂・大師堂前で後にお参りされる方のじゃまにならないよう端に並び読経を終え、納経をいただき次へ向かいました。


(今日はここまでと・・・・・明日へまた続いてしまいます)

大丈夫かな

四国八十八カ所霊場開創1200年の判とおみえを配布している期間の締め切りが近づいてきています。
(平成25年12月15日~平成27年5月31日迄)

その間(期間内に家族皆一緒)に四国を一周しようと決めていました。なかなか家族全員の休日があわず、前回一月にお参りしてから実に3ヶ月ほどが過ぎ、家内・子供達・わたし、合わせて五人で続きのお寺から再開です。

第72番札所 我拝師山 延命院 曼荼羅寺(がばいしざん えんめいいん まんだらじ)

曼荼羅という名前がお寺についていますから、真言宗のお寺だろうと思っていました。やはり真言宗善通寺派に所属し、本尊さまは大日如来さまです。

讃岐(香川)の札所は、次の札所への距離が短いところが多いです。歩きではない車遍路のわたしたちは徳島を出発して一時間ほどで到着しました。札所間の道も昔に比べて高速道や遍路道の整備が行き届き格段に移動が楽になりその恩恵をわたしたちは受けることができます。

曼荼羅寺の歴史・由来
縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していました。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれています。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めました。
四国八十八カ所霊場会公式ホームページより抜粋



前回の遍路から少し時間が空いていました。子供達が遍路の作法を忘れていないか、真面目にお参り(読経)ができるか心配していました。はじまればあの子たち(四歳の「けいくん」をのぞく)真面目に線香ロウソクお賽銭納をおさめ、仏前勤行次第を大きな声で揃って、ご本尊さま(本堂前)とお大師様(大師堂前)にて勤めてくれていました。

やはりこれまで徳島(阿波)の札所8番から(高知の札所をすべて終え香川に入り)71番までしっかりと各お寺で二回ずつ仏前勤行をしてきたことが身についているようでした。わたしはともかく、知り合いがお参りでわたしたち家族のお参りを見ていたらしく、「子供達がきれいにそろって大きな声で拝んでおりましたね」そう先日教えてくれる先達さんがおられました。
わたしは一緒に拝んでいるだけですから、他人が客観的に見ているほうがあの子たちのことをよく見れているから少しそれを聞いて安堵しました。

本堂・大師堂二ヶ所お参りが終われば、いつものように納経所へ納経をいただきにいきます。丁寧に納経所の方へ挨拶を済ませ、無事納経をいただけば次の札所へ向かいます。もっともこの納経をいただくとき、わたしと長男坊が納経を担当している間、家内と末っ子の「けいくん」次男坊は境内を散策し、気分転換しています。ずっと真剣にお参りするだけでは長男坊以外はまだもたないようです。ただあの子たちがいろんなことを見て、聞いて、輝く目で「おとうさん、あっちにあんなのがあったよ」それに助けられてばかりです。大人になった私はいつしか遊びが少なくなって目的のために労力を最小限に次の目的地に最短で向かおうと知らず知らずにしています。

子供たちはいつも教えてくれます。「おとうさん」「おとうさん」「おとうさん」と

何気ない他愛もないものであるとしても疑問があれば聞いてきます。

「おとうさん、あれは何」

「わからないことが多いから、後で調べておくからね」

遍路に行って仏前で礼拝の時間を長めにとれば、あの子たちはわたしと違って何を思い何を見るのか、あの子たちが手を合わせ頭を下げる姿にそんなことを思います。

相手に「大丈夫」とたずねれば、自らにも同じで、その時に答えます。


まあ大丈夫じゃなくてもあの子たちと一緒なら、大丈夫だよ。そう答えるのです。


(話が変にそれたので、続きは明日へ・・・)