三月六日 曇り

夜になれば風が強く、休日に取り立てて洗濯や探し物をして探し物が見つからず何をしたかわからず、ゴロゴロを満喫しすぎて腰が痛い年齢になったことを痛感しました。

「これは運動不足です。」

原因がわかっても私は運動をしたいと思わず、いったい私はどうしたいのかよくわからない日です。とりあえずごまかし程度に「けいくん」を歩いて幼稚園に迎えに行って、家内と晩にウォーキングへ行って、運動を少しはしたふりをしてみます。次男のスポーツを送り迎えすれば、その体育館では60過ぎの人達が激しくバドミントンをしていてしばらくそれを眺め、その横では若者(中学生)がバスケットボールを楽しんでいました。
私は運動音痴ですし、スポーツをずっと嫌っています。どうもそれは小学校の頃から卓球を初め中学になっても続けている長男もスポーツを嫌っているようです。そこは私の血を色濃く受け継いでいるようです。私の父は今でも三つくらい野球のチームを掛け持ちするほどにスポーツを愛しているのにおかしい話です。
私は最近になって本が好きですし、仏教関係のものが大好きだということがよくわかってきました。それなのにここは最近仏教関係があまり出ていないということは、ちっとも真剣に勉強していないということを物語っています。
けれどちょっぴりは進めていますよ、そんな言い訳をしてみますが、私に容赦なく月日が襲ってきて、学ぶより大切なことを忘れ続けているのは事実です。
忘れるより多く学ぶことが疎かになっているだけです。

趣味(現実逃避)に夢中になって、大切なことを忘れないで逝こうと思います。そうでなければきっと私は私でなくなると思う夜です。
スポンサーサイト

わかりやすく

先日あまりよくないことがあったことの世間話の中で

「それは、そこがないな」

と言われ、少し私が知る底無しの意味と違う感じの言葉でしたから

「その『そこがない』は詳しくどういう(意味ですか)」

と尋ねれば

「そのままだよ、深さ(厚さ)がまったくないから(みたまま底が感じられるほどの厚みも深さも無い)」

そう教えてくれました。それから私が酔って偏りと押しつけを他の方へ発生させるのを見て

「(おしつけはよくない自らが善いと思う)好きなことをやったらいい」

そう教えてくれました。

自らが求めこれではないかと思うことが具体的な形は無いのだけれどかたちが出た時、他者とのかたちや出現方法などの違いに、何気ない会話で肯定・否定や流したり、雰囲気や行動にでることでこちらへその微妙な差を示してくれているようです。

最近、以前よりおしつけと偏りを離れ自らの利益より離れ、それでも何かをということへの問いに、はっきりとした答えをされてくる方が増えたように感じます。

あたりまえのことをあたりまえと答えてくれる方と、あたりまえではなくもっと善い方向へという方と、あたりまえより悪い方向へいくのだと雰囲気や言葉で示してくれる方と言えばわかりやすいかもしれません。

善くなってほしいというより、あたりまえありたいです。




もっとわかりやすく言えば、悪いことや嘘は勘弁です。

 二月二十六日(日)

 日曜は大抵仕事です。ただ家族は皆休日で、特に平日が仕事である家内は、休日には家の中の用事がたまって、残業が終わって帰れば、今日一日いろいろと家の中のことをして時間が経つのが早かったことを教えてくれます。

久しぶりに遅い時間まで残業をしていましたが、相性が悪いと私が勝手に思う方やこれまた勝手に根性が悪すぎるなんて思う方と一緒に仕事であれば、その時間は苦痛で、一分が一時間に思えるほどです。
逆もまたしかり、残業であるとしても気心が知れていれば、その時間が長い時間になっていたとしても一時間が10分位に思えてしまうほどです。

本当に私のこころは、身勝手だと思い知らされます。時間の流れは皆に平等で、同じだけ歳をとり、変わらないものです。いくら一日が一時間程の体感であったとしても、私は皆と変わらぬ時間の経過だけ若さを失っています。

ただ一つ願いがあって、どんどん老けていく私ですが、老人になったとしても中身というかこころは高貴な子供のままでありたいです。

もっと欲張りな事も願います。

無邪気に笑って、素直に意見を言って、嘘を言わず、柔軟に現実に対応でき、優しく笑っていたいです。


本当それは理想です。

 久しぶりに皆が揃って何気ないことで笑いました。阿呆になって笑えることはしあわせでもあり楽しくもあり、私にとっては大切なことの一つです。
仕事が終わって帰宅すれば、「けいくん」が走って寄ってきて、今日の出来事でその瞬間の最大の関心ごとを教えてくれます。こころに突き動かされ、言葉がおいつかないほど、とにかく伝えたいようです。

以前次男坊へたずねた言葉を思い出します。

「人は理解されるために生きているのか、生きるために理解されたいのかどちらだろうか」

次男は即答で

「お父さんそんなの決まってるじゃない、理解されるために生きているんだよ」

「けいくん(末っ子三男)」は一生懸命たどたどしいですが、自らの思いを私に楽しそうに教えてくれます。それを見ると次男が即答したことは間違いではないなと思います。

私も自らが問われて即答できなくて悩みますが、自らの考えや思い体験など話したくてしょうがないと思っている代表の一人ですから、同じことです。

理解しあえること

理解しあえないこと

どちらにしても共存はできるのに、他者を害うようなことをすれば共存は難しいと思い、理解という言葉は無いのではないかとすら思います。

その辺り理解はさておき、一緒に笑いたいです。けれどこちらが笑えばあちらは不機嫌になり、あちらが笑えばこちらが不機嫌になるということは往々にしてあるものです。

できれば一緒に笑いたいです。

 いつも独りよがりな私です。私はあまり痛い思いをしたくないです。精神的にも肉体的にも、ただ誰にも頼まれいないのに自らの愚かな言動によって痛い思いは望んでいないのにすることばかりです。
きっと誰もがそれは同じことだと、これもまた誰に言われたわけではないけれどそのように思います。

近くにいる方に私は自らに問わなければいけない大切なことを代わりに問うのです。それは私に向けたことではありますが、何故かその問いを向けた方は真摯に現状をふまえ自らの生きてきたことやこれからどう生きるかをふまえて、雰囲気や言葉で私に答えてくれます。

本当は相手が要らない問答なのに卑怯な私がいます。自らに問い自らがその身に示せばいいだけのことです。

人によって震えるほどに涙がでそうになるほどに美しい答えをだされます。それは言葉を絶するほどその真反対の答えを出される方もいます。

当然その広い間に存在するさまざまな答えが人によってあるのです。


本当に自分本位で身勝手な私が出現しています。それはとりもなおさず愚かな私がそこにいるというだけの答えです。



あなた(私)に何かを真摯に問うのです。


私(あなた)が真摯に答えるしかないだけです。

 苦虫を噛み潰したような顔、実際に苦虫を潰した時の顔を見たことないですけれど、そのような顔だと思う顔をみればそうだと思ってます。
事務仕事ばかりから、以前渡して回数が極端に減った仕事へ戻りました。

以前と同じように真剣にと向き合います。向き合えばそこに理想があってそれに自らがどれだけすりよせられるかを終わってはじめておぼろげながら気が付かされます。
知り合いの方が来られた時が今日一番遠い結果であると感じ、反省せざるをえません。考えられる点は自らをよく見せたいという思いがいつもより強かったり、欲が出たり、目前の方を軽んじるような発言になっている自分であるとか、およそ欲が出て無駄な力が入りすぎた未熟な私がでていたからです。

終わってからでないとわからないことばかり、相変わらず自らの言動で痛い目にあわなければ前へ進めない現状はあまりのぞんでいません。今月終わりへ向けてもっとすりよせていくことにします。

いろいろなことをいろいろな方へ話しているうちに、そこに私が望むものや手を伸ばすものが形はないけれど形がみえてきます。
いつどこでも私は手を伸ばせばそこで何かを出せればと願います。

詳細などどうでもよく、息をもつかないほど圧倒的なうちからあふれでるものをもって、そこに何か深く果てしなく貫いていくものを一緒にみたいです。


欲張りなことで私は身の程を知り、けれど求めてやまない何かをみつめるのです。

 いろいろなことがみえる日でした。

同級生のこれまでや現状、友人の努力や決意、私を何故か気に入ってくれて声をかけてくれる方、行事が終わって話しかけてくれる方、話をわざわざたずねてくれる方、電話をくれる方、何やら強がりや訳の分からない根拠を声を大にして言われる方々。

いろいろあり続けてそれはまだ終わっていないのだけれど、優しく助けて、私は無名中の無名で地位・肩書・名誉・恩恵もほとんどないけれど、一人の人間として私をみてくれる方に感謝しています。

明日からもまた、礼を失わず感謝を忘れず、余計なことは口にせず、感情に流されない発言の私でありたいです。

 予定では全て考えていたことが終わらせるという日でした。いつものパターンで可もなく不可もなく用事が終わりました。
全く理解できないこと出来事があり、自らの何かを優先して他を省みず善いこととは程遠い結論でもかまわないということだからと力説されても理解できず頭を抱えてしまいます。
以前そのようなことを誰かが誰かへ一言で尋ねていました。

「世の中でそのようなことがとおる(と思っている)のか」

「(世の中で)とおらんわ!(けどやめないんじゃ)」

本当に世の中はだから面白いのかもしれません。(いや巻き込まれている私はそれちっとも他人事でないので面白くありませんけどね)

どなたにも、ここまで来たら引くに引けないなんてことはあるのかもしれません。それによって誰か悪くなる人を用意したりしなければいけないとか、嘘をつかなければいけないとか、自らの成し続けてきた行動が(世間的にも客観的にも)悪ければどうにもならないものです。ただ自らが受け取る気もなく世の中と誰かが悪いなんて言い続ければ大切な何かは失われていくだけでしょう。

いつにもまして他人のことより私は私のことをしっかりしなければいけません。それに完璧に程遠い愚かな私ですから、偉そうに自
らのできていないことを棚に上げて人のことを言える身分ではないのです。

自らの言動・思考・願いをもっとしっかりみつめていくことにします。

 地面と屋根や道路以外には雪がうっすらと積もっている朝、地面も凍っている場所もあり、こんな日は渋滞する上に事故も多くなります。
気を付けて出勤していれば、家内が車で事故をしたと電話が職場にあって驚きましたが幸いなことに相手の人も車も大したことなく、こちらも大事にならずに済んだのは何よりです。本人も車もですがへこんでいます。

仕事が終わって雪がちらつく中、バイク(原付)で迎えに行って帰りは子供を座席に乗せて歩いて帰ってくることがよくあります。

「おとうさん、雪はサンタさんがふらせてるんだよ」

「そう、じゃあ雨は」

「カミナリさまだよ」

「そっか」

「明日朝起きたら雪がいっぱいつもってるといいよね」

(うーんそれだと事故がいっぱい起きるし、交通は大渋滞だし、お母さんかなりこまるけど)

「お父さんも子供の頃、いっぱい積もったらカマクラとか雪だるまとか雪合戦したいと楽しみにまってたなあ(実際はちっとも積もったことないけど)」

雪があまり積もらない場所の子供の考えることは同じのようです。

帰ってくる家内は落ち込んでいるだろうから、子供たちと家事を分担して、晩御飯を作って帰りを待っていました。おなか一杯食べて、飲んでよく休むといいです。

大人になると(今日だけでなく本当に)いろいろあるのですから

 予期せぬ出来事の連続が日常という言葉だと私に教えてくれます。もっともっと湧き上がる余計な邪魔になる感情を抑えなければどうにもなりません。

「品性」と「礼」と「感謝」と「笑顔」と「行動」

これでしか私も相手もどうにもならなくなります。

いらないことを喋りすぎるこの口は災いの元で、「(私という無名の)人間を人間としてみていただける方で、奇特にもそのような時間を過ごしたい」そんなことを思ってくれる人にしか、この口は開いてはどうにもならないです。

ここは相変わらず自由です。

真っ白なキャンパスがあって、そこに「無限のものを紡ぎだしていい」日々私へ問いかけてきます。私は相変わらず何年たってもそこに「何か」とはの答えを縦横無尽に出していきたいのに、わたくしごとでいっぱいいっぱいという現状が書き連ねられ、時にそれを懐かしく見たとき、その瞬間を思い出し泣いて、笑って、大泣きして、悔やんで、大切なものをそこにみて、泣いて、笑って、私をみます。

もっと礼と感謝を即座に出せる私を明日見たいです。

 あたりまえですが、日々移ろい変わりゆきます。私は子供に対しては歳を多くとっています。私の両親からすれば私は子供で年齢も若く見られます。同じ世代で学校も一緒であれば、同級生で若くても同級生、年をとってもお互い同級生です。

相対の多い中で、普遍的なものを超え、さらに貫いていくようなものをどうやってみたらいいかもわからないのにみようなんて思います。

相対と絶対、絶対を超えるのではないかのもの、そこからまた相対へ、相対から私へ

逃避か現実を見たくないだけか、理想か絵に描いた餅であるか

わからないことを必死に考え、何一つわからず、現実の私へもどり、それが全くの無駄であったか、何も進んでないけれど、何か違っていたり、暗闇の中をもがく私を見てしまいます。あがけばあがくほど愚かで稚拙な行動となり、自らのくびをしめていきます。

良くないことで深い深いものを感じて、その暗黒の果てしない暗さに負けてしまえば、大人であるのに泣いています。本当はあの美しく青くどこまでも広い空を際限なく照らす光をみたいです。まぶしくてまぶしくてまともに見れないけれど光をそこにみたいです。



冬の

 朝は凍りそうな雨、仕事帰宅時は凍っている雨でした。
風も強い中、次男をスポーツへ送っていき、帰ってお風呂に入れば「けいくん」(三男)が

「おとうさーん、ぼくもいっしょにはいる」

「どうぞどうぞ」

最近の彼は、気になったことを何でも質問してきます。今まで彼の兄たち(長男と次男)が私に質問を向けてもその重要さを理解していないため、「あとで」とか「今忙しいから」心ない答えを返してくれた償いの如く、彼には一生懸命答えることにしています。

一つ一つ六歳の彼が納得できるように、説明します。考え深い顔をして聞いています。彼の兄達には本当に申し訳ないことをしたなとそれをみて反省させられます。ただ自らへ必要以上今大変だ・忙しい・疲れたと言い聞かせ、逃げていたことを再認識させられることです。
それはともかく、彼の質問はとどまるところもなさそうなので、のぼせる前にタイミングを見計らってお風呂を出ました。

質問の内容の一つ

「すいどうのまえは、どうやってみずがでていたの」

答えていたら、その次はさらにそこに出てきた言葉の一つ

「土はどうやってできるの」

真剣に間もなく幼稚園卒業の子に話すのは頭を使います。もっともそれは私が普段していないことだからといえます。


今日もまたいろいろありました。まだ外の風の取り巻く風も内なる風も冬の風のように冷たく吹き荒れています。
感謝と礼と品性と笑顔を忘れないでいなければ私はさらにどうしようもなくなるでしょう。忘れないように忘れないように(私)

 昨晩遅くまで眠れず、休日だけれど休日にならなくなり、子供の幼稚園行事と迎えと、お話しを伺いにいくということで帰宅が遅れました。正直何を考えているのか何を考えたらいいのか、時間が過ぎているのか過ぎていないのか
ただ昨日ほとんど寝れなかったので、今日は有り難いことによく寝れそうです。しばらくいろんなことがだめです

しっかりと

 あれこれとよくないことを考え、もがけばもがくほど更なる網に絡まり、夜あまり眠れず朝になって仕事でした。慌ただしいほど仕事があって、また早く時間が過ぎ言葉を出せたけれど、余計なことを言う口が少し出て、もっと流れにのり、何にもあたらないありさまでありたいと願っていました。

また近くの方に一つ助けていただき二人で昨日より少し微笑むことが出来、有難さが身に沁みます。邪魔にならない相手の余計な重荷にもならない乾いた砂地へ染み込みべたつくこともない感謝の言葉を自然にだせるようにありたいです。

別に誰かを気付つける気もないのに、相手にそのように伝わってしまったのであれば私の言動が思わずそうなっていたのでしょう。もっと角もなく素直に、問題が多いからこころも言葉も態度もまるくまるくやわらかく。

問題にならないようにと慎重に進めていたのに、問題になって困り果てています。もうこのままあったままの事実を伝え流れに流されて生き続けるしかと何度も何度もおなじようなことが頭の中をぐるぐる回り続け時が仕事とはうってかわって遅く遅く遅く過ぎているようです。

昨日はお酒はやめていたので、今日は少しだけのんでしっかりと寝るようにします。

 早朝から現実、過去にあった現実、幾度か話をして人前なのに話しては涙をこぼし、話しては泣き、仕事の合間にも複雑な涙が勝手に流れ、忙しいのに幾度も泣く日となり、帰って家内と話をして全てを受け止めることをまんぞくにできたかどうか、けれど月曜にもう一度大事なことを伝えなければいけない日。

ただ話を聞いて自らに置き換え怒り心頭で理解してくれる方がおられたことが救いです。夜空に浮かぶ月が高く見えました。

家では父であるから、家であの子達や家内の前でしっかりしなければ

 朝から少し頭を打って痛い日となり、最後まで慌ただしい日となりました。出張も無事終わったみたいで、早くに帰ってきてくれて助かりました。本当に最近予期せぬことが多くあり、感情の処理が追い付きません。

捨てたと思っても、また余計な思いまでつけて拾って拡大させ、ようやくそれを小さくして捨て、そんなことを何度も何度も繰り返し、なかなかいつものようにできる余裕がありません。忙しいから時が早く過ぎていることと、不幸中の幸いは理解してくれる方がいてくれることにただ感謝しています。

礼と感謝を忘れず行動して行かなければと思います。こないだ糸のように細い月であったのに、半分より少し大きい月が浮かんでいるのが見えました。

何にも考えれないせいか打ち付けてしまったのか、それとも何かが大きすぎたのかズキズキと痛みます

 そんなに暗くない曇り空、小雨が降る中今日はゴミの日でしたから出してきました。今日は休日でありましたから「けいくん」を幼稚園へ送って行こうと思っていましたが家内が仕事に行くついでに送って行ってくれました。私は昨晩遅くまで飲んでいましたからまた気が付けばパソコンの前で酔いつぶれて寝てしまい、朝早くにこっそり寝床へ行き寝ていました。つまりは少し寝不足で少しヘロヘロな朝です。
ただ今日は家内に「打ち合わせに行かないけれどあなたにお願いします」そう言われていましたからゴロゴロせず、約束の場所へ出かけてました。

特に用事なんて望んでおらず、ゴロゴロマッタリしたいものです。終わって何やらぼーっと過ごしていればあっという間にお迎えに行かねばいけない時間、私は相変わらず時間を無駄に過ごせる天才だなんて笑えないですが、それでも時は過ぎていきます。用事が無事に終わっただけの日でした。

ただあの子と「けいさん」を一緒にやって、家事を申し訳ない程度にこなし、ようやく3時ごろに朝と昼ご飯を兼ねて食べ、それから布団に潜り込み、家内が返ってくる前にあの子に起こされご飯を炊き、スポーツの送り迎えや家内と食材を買い出しに行きようやくお風呂に入って、今です。

気が付かなくても最近「何か」については何も進んでいません。ウイスキーが好きな私はウイスキーへ逃避することにします。


「ウイスキーがお好きです」

もう少し飲むことにします。(今日は夜更かしやその辺りで酔いつぶれないようにしたいです)

 ある(の中に)になく ないの(中に)にあり
 あるのでもなく ないのでもない
 ないところのなかにそれはある

余計なお節介としてしておたずねする。

「(肝心なことが無いように感じられるけれど)大丈夫ですか」

「(肝心なものがありますから)大丈夫です」

余計なお節介で終わり、その方が大丈夫なら問題ない。


誰かが素晴らしい言葉を放っている。その言葉を切り取ってみる。
その言葉に確かに力があるのだけれど、
本当に大切なことは放つ本人がその根拠を有しているかどうかの一点が問題となる。

「その言葉を凌駕するだけのこころが伴っているか」
これもまた難しいその判断は自らに委ねられるところが多い。自己申告されれば人は信じる方が多い。いや相手の言うことを信じなさすぎる方は問題が多いということもある。

いつものこと、他の誰かが問題ではなく何より誰より私にとって難しい。

私にとってわからない・むずかしいことを知り、

「わからないことが多いうえに難しすぎて、困っているんです(何とかしたいですけどね)」と微笑んで最低限言えるようになりたい。

 「ない袖は振れぬ」ちっとも格好良くないのに、無いものねだりではなくあるものでなんとかという意味合いで私のことをよく知っている人には使います。

また懲りずに夜更かしして眠い日でした。

子供たちは皆元気ですが、家内が少し仕事や体調がおもわしくないようでした。早く元気になってくれれば。体調がよくないのにいろいろと相談や大切なことを決めていかないといけないことが重なっていたので、明日元気になっていれば冷静にすすめていこうと思います。

よく知っている方には状況の説明が必要なく、「何故・どうして」という質問やその答えに時間をとられたりすることもなく、踏み入って現状を少し言えば理解できてくれる関係というのは本当に助かります。

わからないことはもう少ししっかり聞いて進めていこうと思います。そのためにはまず今日しっかり私は寝ること、お酒はほどほどに、できることをしっかりやること。

相手にとって譲れないことがあるように、私にだって譲れないことがあるのに相手のことだけ悪く思ったりする都合のよすぎる私の出現はできるだけ減らしていかないと。まるで近くにいる相手を悪く言えば自らがよくなるなんてことを続ける人に近づいてしまいます。

ちゃんとしないと(私)

 悪いことを(一応表面上、隠し)行い続けている方がいて、ちっとも悪いことはしていないのに、
何故かやっぱり(問題が出てくれば出てくるほど)よくないことを行い続けるかたと一緒ではないかと周囲が納得してしまうこと。

いくつかの条件というかそれは簡単な理由によるように思う。

一つに、口ぐせとして何か悪いことがあれば(本人すらきづいておらず)周囲のせいにする。

悪いことをしていることを言葉にすれば、ただその方の現状を言っているだけなのだけれども現状を言う方の普段から人以上の忍耐・努力をしていないと
何故かよくないことをしている人の分までけがれを受ける。



完全無欠の善人・悪人などいないだろう。だから人は些細なことであれば信じ、ゆるす。ゆるすからこそ生きていける。


私はこの「信じる」「ゆるす」に甘えがちであって、ともすればそこだけにすがり、自らの現状を正しく認識することから目を背けてしまう。


何だろう

悪い方と同じことをしていないのに、「それでは一緒ではないか」「(あの方たちとあなたは)変わらない」と受けるのは
ただ自らの行動せねばならぬこと、正しく自らをみつめねばならぬことから逃げていることをこれまた必死に周囲に顕現させているだけのこと。


ただ皮肉にしかならない。

そんな私だとしても「美しい」「まこと」「よろこび」にふれ、涙してよろこぶ。


この自らの内とすぐ外にある、自らが正しくみつめれるか


もっとも、調べたりみつめようとして、私はまた徒に時を費やしている。