思い想う(人はそれを思想と呼ぶことがある)

 浄土真宗、親鸞上人つまりは浄土について学ぼうとする傍ら、息詰まりやすい性格の誰かはパンセを息抜きに少しずつ読み進めてることにしています。
自らにとって現状理解できないものを進めるとき、一見関係ない真反対に位置するようなものを関係ないのに関係させて進めることが私には理解できないという自らの愚かさを知らしめる行為として痛い自らの現実と理解できないものを違う理解できないものを並べ、私と一見反対に位置する二つの理解できないものの三者が漠然と浮かび上がれば、そこに何かと愚かな私が浮かび上がり、悲しみ喜び、今までにみようとしてもみえなかったものが見えるような感覚が出現します。

けれどそれはやはり虚構のものです。

その瞬間の私は愚かであるが故に、それが真理であり、真実であり、理想であり、誰もがそう信じてやまないことだと確信しています。時が経ち、私が自らの愚かさを見つめる行為を持続しているのであれば、虚構であり真理であり真実であり、悲しみであり、ただわが身の愚かさということをそこにみることになります。

皮肉な現象です。

私は私の不出来であり・至らなさであり・愚かであり・努力の足らなさであり、私の不足を思い知らされれば知らされるほど、その深淵(どん底)が深ければ深いほど、その反対に位置する極をみています。その高さ・広さ・美しさ・善さ、それは本当にどうしようもない私をみせつけられその高さ高ければ高いほど美しければ美しいほど、広ければ広いほど、全ての時代を貫いているものであれその貫きの圧倒的であればあるほど、それは我が身に帰り、私は狭い井の中の蛙であることを思い知らされています。

それをパスカルは自らの言葉で

「人は考える葦である」

大風でも簡単に折れ、火がつけば簡単に燃える存在であり、儚く脆く、けれどそこに生きて、わずかながらの蒸気でもいとも簡単になくなってしまう存在、けれど考えることができる葦だと言うのです。

「なぜなら、そもそも自然の中における人間というものは、いったい何なのだろう。無限にしては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべての中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がその中へ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。」

『パスカル (著)  前田 陽一 (翻訳), 由木 康 (翻訳)中央文庫出版より引用 』


 
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 台風も近づいており、他国からは物騒なものが発射され、メディアも一色に染まっている日です。

変わり者の私は、台風も他の事も大変ですが、身近で起きていることに気をとられ、何かと考えざるをえません。
これからすることが何か、それを見失わず、当初に戻り、一つずつ関係者と少しずつでも進んでいかねば、後ろ向きや悪いことにとらわれれば、どうにもならず、負の感情にとらわれてしまえば、問題より負の感情をどこかへやらなければいけない力も相当必要となることがあります。

大したことができなくてもいいです。

初心を忘れなければいいです。

愚直にできることを進めていけばいいです。

おたのみすることは信じてお頼み申さなければ前にはすすめないです。

とんでもないことだけれど、信じ楽しめればそれでいいです。


愚かな私は、最後まで信じるしか他になく、ただ自分ができることはあきらめない。そう思う日です。

いつ

 過剰評価と過小評価が大抵の方は知らずに知っていても目前にいる方どなたにも行っています。
そういう私は誰よりも偏り大きく、目前にいる方が誰であれそれを普通の方以上に独断と偏見で行っています。何をもってそれが正しくて誤りであるか、実際はどなたにも決められないことです。

それがわかっていたとしても、私はそれを必要以上に行う私をみます。

確認できないものを確認しようとして、必要以上に力を割き、誰にも頼まれていないことなのに自らで疲弊してしまうことばかりです。


けれど生きていれば、私だけでなくどなたもが、自らを心から理解欲しいと願い、何かを発し続けています。


ここには縁というか、波長というか、相性というか、偶然と呼ぶのか、出会いがあります。


出会えば別れる定めと決まっています。


愚かな私はその別れが無くなってしまえばいいと愚かすぎるがゆえに常に願います。


「この理解しあえる瞬間が永遠であるように」


皮肉な現状として、刻一刻と私は現在の私を保てず少しずつ老いを避けることができず、生まれた者は死へと近づいています。更なる愚かな私は、それから目を背け続け、できればそんなことはないのではないか、そんなことを言い聞かせていることばかりです。


私はいつになれば、愚か者でなくなるのか・・・・


 連休明けの仕事、変わらずしっかりと仕事を行う。夏は暑く、この暑さはしばらく続くでしょう。見方を変えれば冷たく、さらに変えれば熱く、夏です。 
後になって言い訳をしないように、やり残したことのないように、悔いのないように

あらかじめ なされるべき努力 まさにそれである



私の過去(こころ)をみれば、いとも簡単に理由がわかります。

「楽に逃げてよいことはなく

目先の問題から目をそらしてよいことはなく

誰かのせいにしてその時を終わらし先延ばしにしてよいことはなく

誰かを責め立てるだけで済ませてよいことはなく」

私の中に「誰かと何かのせいにして、逃げ続けてきた私」がそびえたつ山のように、隠したいけれど隠せずあるのです。


背負うことをやめて、楽に走っていることすら気づかないその時の私

誰かのせいにして文句を言って、何もしていないことから目をそらす私




物事が終わってしまえば、もうどうしようもない現実が訪れるだけです。



 今日も暑いです。今年の蓮の花は一気に咲いてすぐ散ってしまいましたが、次へつながる種子が育っています。花が散れば葉も緑、茎も緑、花托も緑、種子も緑、青々としてそれはそれで美しく、そう思う瞬間は暑さを忘れていました。 

ここのところいろいろあって、こころの浮き沈みが激しく、一喜一憂の連続です。


一生懸命身体を動かし、汗を流し、知恵を絞り、日々努力する方をみて、花ひらくように


気が付けば同じことを書き続け、理解できないことを理解しようとして理解できるわけもないことにとらわれる自らをみるとき、どっと疲れます。

できるだけのことをしていくことにします。

〇〇の日

  六月十八日 (第三週)日曜日 梅雨なのに快晴

 「○〇の日」があって、天皇誕生日、緑の日、土用丑の日、行きつけのスーパーの特売日、お気に入りなものの(発売)日、私的記念の日、絶賛小さな親切余計なお節介をふりまこうの日、キリストの(誕生)日、ブッダの(誕生)日、仏陀入滅の日、覚りを開かれた記念の日、仏教が日本に伝わり真言密教の根本道場である高野山そしてそれを伝えた弘法大師(空海)の誕生の日、いろいろな記念の日が世の中にあります(きっとさりげなくそして気づかれることなく言いたいところへ持って行けたはずです)。

それはともかく今日は日本全国の現代に生き仕事を頑張って家族の生計を立てている旦那様(虐げられることの多い)を祝う日です。

「父」という言葉は、「子」がなくして、「父」となれない言葉です。
つまりは父に比べて後から生まれてくる「子」の存在が重要なのです。「あの子がいたから私は父となれた」どちらが先に生まれたから偉いという話ではなく、後から生まれてくれた人がいるから父となれ、先に生きて家族のために時間を子供達より長く時間を費やしているから、尊敬の対象として今日という日があるのだと思います。
だから父が偉いということではないです。父だからといってあたりまえのことを成さず、父らしい言葉や行動がなければ、世の中にいるひとは父を父として認識してくれることはないです。

分相応です。

父は父らしく、母は母らしく、子は子らしく、それぞれ立場は時に応じて移り変わり、変わりゆく現状で分を弁え

「(父)ぶるのではなく、(父)らしゅうせよ」



どなたの言葉であったか酔っぱらいは忘れていますが、(父)カッコ内の言葉は自らの立場に応じて変えて問題ない言葉です。


私は私の父からすれば、私は子です。私の父には父がいて、それはどこまで遡れるのか、遡って計算する必要もないことです。


「父と子」





偉大なる父、そのみなにおいて

 毎日の時間、誰もが平等で限られたもので、私はその使い方がよくわからなくなることが多く、無益な使い方をして「今日は一体何をやったのだろうか」家族にとって役に立っていることを行っていて「有難う」と言われたとしても、そのことが虚ろなものに思え、昨晩は眠れないので、歩くのも走るより、自転車を全力で走らせ夜と夜風を感じてから寝床へ。

今日お休みをいただいていたのに、これといって何をしたのか、洗濯と晩御飯を作って今にいたり、明日仕事が忙しいことがわかっています。一つ一つしっかりとこなして一日一日が無事に過ぎていけばと願います。

子供達(長男と次男)は中総体が明日始まるので、少しいつもより雰囲気が違いました。トーナメント表を見せてもらい

「一回でも多く勝つといいね」

私としては悔しくて次へつながる負けでも、勝手嬉しくても、次につながるのならなんて考えながら

「がんばってね」

明日のことは明日にしかわからないことです。


何事にも限度や引き際があることがあります。分を弁えること、欲深くなり過ぎないこと、悔い改めること、慎みをもつこと、品性をたもつこと、嘘を必要以上につきすぎないこと、悪事を重ねすぎないこと

いろいろとみせられ本当に考えさせられます。

シチューかき回しの刑

 本日は休日をいただいていましたが、朝から何やら家内と子供達が大騒ぎをしていて、それの片付け・洗濯などをして、役場・銀行に用事を済ませ、それからさらに残っている洗濯と掃除にとりかかりました。

家内が働き出して息詰まるようになってから、休日は私が主夫をせねば家族皆で笑っている時間が減って、それは現実から目を背けゴロゴロばかりしている誰かに尊敬の反対の冷たい視線や気持ちが送られてきます。よってゴロゴロは今日だけ封印なのです。

平日も代わりに先にあまり料理をしないのですが作れる料理数も片手ほどもないのに、比較的手が付けやすい、ハヤシライスを作ったり、カレラーイスを作ってみたり、そういえば同じような感じのもので作れるじゃないと安易な発想で、昨晩からずっとシチューを作り続け、一日かけて完成、なんと最後の味付けには「大企業が手間暇かけて開発したシチューの素」なるものを入れれば、魔法のように味が整い、単にいただいた野菜が多かったので鍋に二杯、都合二回作ったので時間がかかっただけとも言います。

いずれにしても、地元でとれた野菜をふんだんに使った(シチュー本体の8割が野菜)で、シェフ納得のものができました。大企業と地元の方と自然に感謝です。
もう少し作れる品を増やさねばなんて思いますが、思いついた瞬間にそれを忘れることができる私です。簡単で美味しくいただけるということは有り難いことですね。

昨晩と今日と本当に焦がさないようにかき回し、今日も美味しそうな匂いを嗅ぎながら家族が帰ってくるのを待ちながら何度もかき回していました。



早くいろんなことが普通になってくれるといいです。

今日は思いのたけを全て友人たちに遠慮なく言えた素晴らしいい日でした.

ただその代償は発言した私は報いを受け取らなければいけないといく日でもありました。

友人たちのこれからのますますの発展お祈り申上げます。

そんな日した。

 日々いろいろないのですが、いろいろあります。
私にとって目まぐるしく景色や人や場所が変わるというような勤務ではありません。それでもここ一年の内に周りは猫の目のように移り変わり、早く人工衛星が安定軌道に入ってくればみたいなことを願っています。

言葉にすればそれはいたって簡単なことです。自らの過去や現在の言動の責任をとるというシンプルなことで安定軌道に入ります。皆とはいいません。他人を巻き込んで自らの欲に走りすぎた方だけでいいです。他人まで責任を持てというようなことも言わないです。自らの続けてきたことを正しく認識して現在に生きているのであれば現在の善悪・道徳・法律に照らし合わせてその範囲内であれば問題が無くなるというだけのことです。私の家内はずっと私が愚か者ですから

「人を変えるというのは並大抵の努力ではできない」

なんて私に私のことを私に向けてよく言っていました。家内がではなく、私は果てしなく困った人です。

自らを他人事のよう(客観的)に見つめることができれば、幾分ましになるでしょう。およそ悪いことになることの棚上げや特別扱いや自らの言動に目を背け続ける時間が長ければ長いほど、その方もそうですがその近くにいる方は甚大な影響を受けます。当人が受け取らない分余計に影響があります。

知らない人は誰が本当のことを言っているのか、誰が信用に足る人物なのか、見知らぬ人にも初めから嘘をつき続ける人などいないと大抵の人は思っています。

改善しようとか通常に戻そうとか、誰かへ本当のことを理解してもらい良い方向へ行ってもらいたいと思う人は、相手がひどければひどいほど並大抵のことではうまくいかないと思います。

月並みにですがそれしかないので、(事実をあきらかにみて)

ただ「継続は力なり」そうとしか言いようがありません。

 ゴールデンウィークが始まって仕事でしたが、人が沢山来てくれたことは有り難いことでした。
周囲のことです。問題が多すぎ枝葉末節に目が行き気をとられ、本質にたどり着かず終始することばかりであれば徒に時だけが空しく過ぎていき、さらに問題が増えてしまえば、一見すると皆目見当がつかないとなって、解決どころではなくなります。

残業が終わって自宅に帰れば子供達は家内の両親やいとこに会いに泊りで出かけていて、静かでした。

現実逃避がてら一冊本を読み終え、一杯やりながらさらに現実逃避して、今なさなければならないことを考えず、明日のことを考えているようで考えていない私をみて、どうにでもなるかなんて思いながら一杯すすめていくのです。

仕事を大切に、学び多く、できるだけ不用意なことは避け、よく笑っていたいです。

根本的解決が早くできればと何もせずに願ってもかなうことはほとんどないのに、ほんの少しそう願います。

 迂闊なことで迷惑をお掛けしました。午前中には何やら避けたいことを避けれず、また首を出してしまい激しく後味が悪い一日となっていました。
新しいことに取り組もうなんてことをしばらく前に考えていたこともぼんやりどころかその姿も形も見えなくなって、何を考えたらよいのかすら、右往左往していることが増えていたように思います。

もうしばらくは考えられないようなこと、不測の事態というか、善いことであれば言うことはないのですが、その反対のことばかり続く気配、あとは近くにいるできた方に一任し決断を仰ぐことにします。目前のことを一つ一つ、先のことはできるだけ準備を怠らず、忘れないように忘れないように

昨日長い時間話した友人がまた近くへ来ると言っていましたが、明日は約束をしていないから偶然休みですが、無理言って時間をとる必要もないでしょうし彼にも都合があるでしょうから偶然に期待せず家事・用事を進めていき、調べ物も本腰を入れなければさっぱりですなんてばかリも言ってられません。

しかし、複数の人の前ではっきりありのまま(よくないことですが)を明言してしまったので、本当複雑です。言わなければ誰もが理解せず、言えばはっきりとした現実が皆の前に現れそれは厳しいもの。

大人になりたいです。

 三月六日 曇り

夜になれば風が強く、休日に取り立てて洗濯や探し物をして探し物が見つからず何をしたかわからず、ゴロゴロを満喫しすぎて腰が痛い年齢になったことを痛感しました。

「これは運動不足です。」

原因がわかっても私は運動をしたいと思わず、いったい私はどうしたいのかよくわからない日です。とりあえずごまかし程度に「けいくん」を歩いて幼稚園に迎えに行って、家内と晩にウォーキングへ行って、運動を少しはしたふりをしてみます。次男のスポーツを送り迎えすれば、その体育館では60過ぎの人達が激しくバドミントンをしていてしばらくそれを眺め、その横では若者(中学生)がバスケットボールを楽しんでいました。
私は運動音痴ですし、スポーツをずっと嫌っています。どうもそれは小学校の頃から卓球を初め中学になっても続けている長男もスポーツを嫌っているようです。そこは私の血を色濃く受け継いでいるようです。私の父は今でも三つくらい野球のチームを掛け持ちするほどにスポーツを愛しているのにおかしい話です。
私は最近になって本が好きですし、仏教関係のものが大好きだということがよくわかってきました。それなのにここは最近仏教関係があまり出ていないということは、ちっとも真剣に勉強していないということを物語っています。
けれどちょっぴりは進めていますよ、そんな言い訳をしてみますが、私に容赦なく月日が襲ってきて、学ぶより大切なことを忘れ続けているのは事実です。
忘れるより多く学ぶことが疎かになっているだけです。

趣味(現実逃避)に夢中になって、大切なことを忘れないで逝こうと思います。そうでなければきっと私は私でなくなると思う夜です。

わかりやすく

先日あまりよくないことがあったことの世間話の中で

「それは、そこがないな」

と言われ、少し私が知る底無しの意味と違う感じの言葉でしたから

「その『そこがない』は詳しくどういう(意味ですか)」

と尋ねれば

「そのままだよ、深さ(厚さ)がまったくないから(みたまま底が感じられるほどの厚みも深さも無い)」

そう教えてくれました。それから私が酔って偏りと押しつけを他の方へ発生させるのを見て

「(おしつけはよくない自らが善いと思う)好きなことをやったらいい」

そう教えてくれました。

自らが求めこれではないかと思うことが具体的な形は無いのだけれどかたちが出た時、他者とのかたちや出現方法などの違いに、何気ない会話で肯定・否定や流したり、雰囲気や行動にでることでこちらへその微妙な差を示してくれているようです。

最近、以前よりおしつけと偏りを離れ自らの利益より離れ、それでも何かをということへの問いに、はっきりとした答えをされてくる方が増えたように感じます。

あたりまえのことをあたりまえと答えてくれる方と、あたりまえではなくもっと善い方向へという方と、あたりまえより悪い方向へいくのだと雰囲気や言葉で示してくれる方と言えばわかりやすいかもしれません。

善くなってほしいというより、あたりまえありたいです。




もっとわかりやすく言えば、悪いことや嘘は勘弁です。

 二月二十六日(日)

 日曜は大抵仕事です。ただ家族は皆休日で、特に平日が仕事である家内は、休日には家の中の用事がたまって、残業が終わって帰れば、今日一日いろいろと家の中のことをして時間が経つのが早かったことを教えてくれます。

久しぶりに遅い時間まで残業をしていましたが、相性が悪いと私が勝手に思う方やこれまた勝手に根性が悪すぎるなんて思う方と一緒に仕事であれば、その時間は苦痛で、一分が一時間に思えるほどです。
逆もまたしかり、残業であるとしても気心が知れていれば、その時間が長い時間になっていたとしても一時間が10分位に思えてしまうほどです。

本当に私のこころは、身勝手だと思い知らされます。時間の流れは皆に平等で、同じだけ歳をとり、変わらないものです。いくら一日が一時間程の体感であったとしても、私は皆と変わらぬ時間の経過だけ若さを失っています。

ただ一つ願いがあって、どんどん老けていく私ですが、老人になったとしても中身というかこころは高貴な子供のままでありたいです。

もっと欲張りな事も願います。

無邪気に笑って、素直に意見を言って、嘘を言わず、柔軟に現実に対応でき、優しく笑っていたいです。


本当それは理想です。

 久しぶりに皆が揃って何気ないことで笑いました。阿呆になって笑えることはしあわせでもあり楽しくもあり、私にとっては大切なことの一つです。
仕事が終わって帰宅すれば、「けいくん」が走って寄ってきて、今日の出来事でその瞬間の最大の関心ごとを教えてくれます。こころに突き動かされ、言葉がおいつかないほど、とにかく伝えたいようです。

以前次男坊へたずねた言葉を思い出します。

「人は理解されるために生きているのか、生きるために理解されたいのかどちらだろうか」

次男は即答で

「お父さんそんなの決まってるじゃない、理解されるために生きているんだよ」

「けいくん(末っ子三男)」は一生懸命たどたどしいですが、自らの思いを私に楽しそうに教えてくれます。それを見ると次男が即答したことは間違いではないなと思います。

私も自らが問われて即答できなくて悩みますが、自らの考えや思い体験など話したくてしょうがないと思っている代表の一人ですから、同じことです。

理解しあえること

理解しあえないこと

どちらにしても共存はできるのに、他者を害うようなことをすれば共存は難しいと思い、理解という言葉は無いのではないかとすら思います。

その辺り理解はさておき、一緒に笑いたいです。けれどこちらが笑えばあちらは不機嫌になり、あちらが笑えばこちらが不機嫌になるということは往々にしてあるものです。

できれば一緒に笑いたいです。

 いつも独りよがりな私です。私はあまり痛い思いをしたくないです。精神的にも肉体的にも、ただ誰にも頼まれいないのに自らの愚かな言動によって痛い思いは望んでいないのにすることばかりです。
きっと誰もがそれは同じことだと、これもまた誰に言われたわけではないけれどそのように思います。

近くにいる方に私は自らに問わなければいけない大切なことを代わりに問うのです。それは私に向けたことではありますが、何故かその問いを向けた方は真摯に現状をふまえ自らの生きてきたことやこれからどう生きるかをふまえて、雰囲気や言葉で私に答えてくれます。

本当は相手が要らない問答なのに卑怯な私がいます。自らに問い自らがその身に示せばいいだけのことです。

人によって震えるほどに涙がでそうになるほどに美しい答えをだされます。それは言葉を絶するほどその真反対の答えを出される方もいます。

当然その広い間に存在するさまざまな答えが人によってあるのです。


本当に自分本位で身勝手な私が出現しています。それはとりもなおさず愚かな私がそこにいるというだけの答えです。



あなた(私)に何かを真摯に問うのです。


私(あなた)が真摯に答えるしかないだけです。

 苦虫を噛み潰したような顔、実際に苦虫を潰した時の顔を見たことないですけれど、そのような顔だと思う顔をみればそうだと思ってます。
事務仕事ばかりから、以前渡して回数が極端に減った仕事へ戻りました。

以前と同じように真剣にと向き合います。向き合えばそこに理想があってそれに自らがどれだけすりよせられるかを終わってはじめておぼろげながら気が付かされます。
知り合いの方が来られた時が今日一番遠い結果であると感じ、反省せざるをえません。考えられる点は自らをよく見せたいという思いがいつもより強かったり、欲が出たり、目前の方を軽んじるような発言になっている自分であるとか、およそ欲が出て無駄な力が入りすぎた未熟な私がでていたからです。

終わってからでないとわからないことばかり、相変わらず自らの言動で痛い目にあわなければ前へ進めない現状はあまりのぞんでいません。今月終わりへ向けてもっとすりよせていくことにします。

いろいろなことをいろいろな方へ話しているうちに、そこに私が望むものや手を伸ばすものが形はないけれど形がみえてきます。
いつどこでも私は手を伸ばせばそこで何かを出せればと願います。

詳細などどうでもよく、息をもつかないほど圧倒的なうちからあふれでるものをもって、そこに何か深く果てしなく貫いていくものを一緒にみたいです。


欲張りなことで私は身の程を知り、けれど求めてやまない何かをみつめるのです。

 いろいろなことがみえる日でした。

同級生のこれまでや現状、友人の努力や決意、私を何故か気に入ってくれて声をかけてくれる方、行事が終わって話しかけてくれる方、話をわざわざたずねてくれる方、電話をくれる方、何やら強がりや訳の分からない根拠を声を大にして言われる方々。

いろいろあり続けてそれはまだ終わっていないのだけれど、優しく助けて、私は無名中の無名で地位・肩書・名誉・恩恵もほとんどないけれど、一人の人間として私をみてくれる方に感謝しています。

明日からもまた、礼を失わず感謝を忘れず、余計なことは口にせず、感情に流されない発言の私でありたいです。

 予定では全て考えていたことが終わらせるという日でした。いつものパターンで可もなく不可もなく用事が終わりました。
全く理解できないこと出来事があり、自らの何かを優先して他を省みず善いこととは程遠い結論でもかまわないということだからと力説されても理解できず頭を抱えてしまいます。
以前そのようなことを誰かが誰かへ一言で尋ねていました。

「世の中でそのようなことがとおる(と思っている)のか」

「(世の中で)とおらんわ!(けどやめないんじゃ)」

本当に世の中はだから面白いのかもしれません。(いや巻き込まれている私はそれちっとも他人事でないので面白くありませんけどね)

どなたにも、ここまで来たら引くに引けないなんてことはあるのかもしれません。それによって誰か悪くなる人を用意したりしなければいけないとか、嘘をつかなければいけないとか、自らの成し続けてきた行動が(世間的にも客観的にも)悪ければどうにもならないものです。ただ自らが受け取る気もなく世の中と誰かが悪いなんて言い続ければ大切な何かは失われていくだけでしょう。

いつにもまして他人のことより私は私のことをしっかりしなければいけません。それに完璧に程遠い愚かな私ですから、偉そうに自
らのできていないことを棚に上げて人のことを言える身分ではないのです。

自らの言動・思考・願いをもっとしっかりみつめていくことにします。