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肌寒い夜風

 顔の腫れもほとんどなくなり、今朝は痛みや腫れのことを考えなくて眠れる朝になり、お休みをいただいておりましたのでそのまま問題なく寝れることをいいことに、一回起きてから再びぐっすり寝ていました。
時間を忘れたころに起きて、家内に「やっと起きてきた」そういいながら、起こしに来ないで寝かせてくれたことに感謝です。申し訳なくその辺りの洗い物を片付け、子供達に指示を出し、遅めの朝ご飯を食べ薬を飲んでから、ゆっくりしている間、子供達は家内の祖父母に会いに行く準備をして出かけていき、私は明日仕事ですから留守番、それからしばらくして歯医者へ行って診ていただき消毒して食材と明日の食料を購入して帰ってきました。
 ここのところ腫れと痛みのことしかみえておらず、随分視野が元に戻ってきました。来週には普通にもどれるのではないかと思います。玄関を出て雑草が生えていたのをようやく抜く気になったので少しだけ抜き、洗濯物を取り込んで、干していた布団を取り込み、後は食事をして、一人の夜です。気のせいか風が少し夏の終わりのような感じに変わってきたように感じます。風が生暖かいのではなく肌を冷やしてくれる風です。
 誰もいない上に、お酒も飲めない上に、まだ万全でない上に、明日は仕事ですから、やっぱり早めに寝ようと思います。いろいろと残っていますが、そこばかりみて怒ったり恨んだり、早期的な解決をと願いすぎる私は、どこかに弊害をもたらしていますので、現状が何一つ変わらなくても、ふつうにありのままにありたいです。
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困った

 気づかぬうちに、実のところはそれは自覚があって、不遇な目に合わせる方をみると、正義感とか助けたいとかではなく、そこは気がつく前に既に怒っている私がいます。
そのような現象は、自らの眼でその不遇な目をしようとする方も遇わされる方も見ていなければ発生しません。
世の中には偶然という言葉があります。一度なら偶然、二度めを見かければまあ偶然かな、三度目は二度あることは三度あるっていうし偶然だろう・・・、四度・五度・六度、それ以上になれば誰もが偶然という言葉を発することが無くなり、困ったことに愚かな私は頼まれてもいないのに誰よりも怒っていることがあります。

 身の程をわきまえれば、従業員(その中の平社員)が怒ったとしても、組織というのは何か劇的に変わるわけでもなく怒りや事実をありのままにいう私が一番被害が大きくなります。そこまでいってもやはり根本から発生するその大本がとんでもないことを関係ない誰かにおしつけようとすれば、さらに困ったことに私は怒っています。まあつまりは身の程知らずで考えなしの愚かな私という、いつもの自己紹介になってしまいます。

 流れゆく月日は20代のワタシを40半ばへ、仕事の継続の年数などは、こんな愚かな私にも心配したり、止めてくれたり、支えようとしてくれる方がいるということを、若さを失う代わりにそのような素敵なものがあり、いつの時も困った愚かな私がそこにいます。

 私の怒りも、違う素晴らしい何かにうつりかわっていくよう、そうでないと心配・支え・理解・優しくされる方に私のことでご迷惑をかけるのはあまりにも忍びないことです。

肝心な時に私は全て(の大切なこと)を忘れ、怒っている。きっとそれは私の生き方なのだろうと否定したりするより、認めて共に生きていこうと願っています。


短く一行で言えば、「肝心な時に考えなしで感情に流されている」つまりはそんな私を人は「怒っている」と呼びます。


本当困った誰かです・・・

はいしゃ(何回目・・・)

 生きているから、いろいろあり、避けて通っている先でも何かに出くわし、では元の道へ帰っても何かが待ち構えていて、善い・ふつう・悪いの三つのどれか選べないことが多く、どれかに遭遇すれば、挨拶をしてみたり、避けて通ろうとして避けれることもあれば、どうやっても避けれないこともあり、そこもいろいろあって、善いこともその中に時折含まれているから退屈な時に
「何かないかな」
と知らずに言葉に出ていて、悪いことに遭遇してしまえば、前言撤回しようにもどうにもならず、善いことであれば
「また(善いことが)あるといいのに」
なんて、虫が良すぎる(欲張り)な私がそこにいて、何もなければ無いで退屈だと不平不満愚痴をこぼし悪すぎることに出会えば(そんなものはいらないと)不平不満愚痴をこぼし、善いことに出会えれば、こんなことばかりであればいいのに、世の中に善いことだけが普通という国があるなら、善い悪いなんて対の観念や言葉は存在しないのだから、つまりはおかしいことを言う(願う)か、不平不満愚痴をこぼすかのどちらかの私がよくそこに存在して、終わって落ち着くことができれば、そんな私がおかしくて笑ってしまうときがあります。

 ここのところ歯の影響で顔が腫れ上がり、子供達にも家内にも
「お父さん、痛そうな顔をしてる」
そう今朝も言われました。痛くないと言えば大嘘になりますからつい弱音を吐いて
「だって、相当痛い・・・」
と言いながら、彼らは痛そうな顔をする私を再度みていました。

昨日の予報では降水確率70パーセントを超えていましたが、今日になって意外と雨は降っておらず、それはそれで仕事でしたから有難いことでした。今日は流石に薬も切れたので歯医者へ、今日は今までに痛みに耐えたおかげで随分と処置ができるようになり、楽になれました。しばらくこまめに歯医者へ通うことになります。



何度目かのはいしゃ(の私)

右の頬が痛いが故に我あり

 昨晩から強めの風が吹き、割と大きめの「けいくん専用ぷーる」が、飛ばされ、雨も風と共に少しずつ強めに降っており、朝起きて風は少し強く、雨もまばらに降っている中、プールを倉庫に入れといてと長男に頼んで出勤しました。

お盆も明日でこちらは終わります。その準備をして、お盆前から頼まれていたものを調べ始めました。変わらず朝起きてからずっと、まだ少し晴れている頬辺りが疼き、日に日にましになっているとはいえ、腫れと痛みが一日も早く引いてほしいと願います。

 特定の人物達から関係ないことをこちらのせいにされることは、二年前位からうんざり、もうこりごりです。明日が無事終わればお盆も終わって、17日の仕事が終わればようやく休みがあります。その代わり下旬は中旬にとれなかった分だけ休日がいつもより大目にと配慮され、ただその連勤の長さと夜更かしの代償が腫れた頬へ・・・

まあ長い言い訳です。歳をとったからということもあるでしょうし、偶然ということもあります。

今日も完全に(治っていないので)早めに就寝することにします。

あたりまえのことが

 お盆がやってきて、ここ(徳島)であれば、連日阿波踊りの状況が報道されていることで、そろそろお盆も終わりが近づいていることを、教えてくれます。
仕事が終わってお粥を食べ、明日に備えようとしていたら、長男は友人達と阿波踊りを見に行くと楽しそうでした。私の調子があまりよくないので、他の子供達も見に行くとすれば家内と一緒に見に行くだろうと思います。
あと少し仕事が続きますから、顔もまだ腫れがひいてませんし、痛くないと言えば嘘にしかならず、食べることも楽しみではなくおっくうとなっていて、子供達の食事の心配をした後は、早めに寝るだけでした。
今日もあまりかわらないです。たかが口の中だけなのに、お酒も止められ、噛むのも禁止され、熱も出て、顔も腫れ、痛いし、いつもの如くあたりまえの結論になります。

元気でお酒を飲めてご飯がおいしく食べれるというのは、有難いことです。

しばらく、美味しいものやお酒が目前にあっても見えないものであるし、あってもないものとしかならないです。

配慮

 顔を腫らしていると、人の顔の微妙な変化には気づかれる方が多く、めったにそんなことがないので皆が優しくしてくれました。全体とか左右対称ならわかりにくいでしょうけれど、右下片方だけが腫れていますから目立ちます・・・・。

いつも優しい方が何日かぶりに出勤が一緒でしたが、このお盆で休日ばかり病院の中関係者をたどって、開いている病院を紹介してくれました。職場の理解あって行くことができ、食事をするのも少しましになったのは助かりました。しばらく右側の化膿や腫れなどで荒れている影響で右側の歯はしばらく使えないので、それでも見てもらう前より随分いろんなことで楽になれました。有難いことです。

 他にいろんなことがあるなか、心配してくれたり何か手伝おうとしてくれたりする方がおられるということに気が付けるのもこんな時です。
普段から気が付いていればいいのに、大切なことは愚かであるがゆえに私は忘れてしまっています。まだ腫れなどのせいで微熱があって、明日もしごとですから、感謝して気を付けれることは気を付け、歯科医の先生が言われたことは守って、お酒を飲まずに右側はしばらく使わずに、薬をしっかり飲んで、早めに就寝することにします。

逃げ

 お盆期間ということもあって、どの歯医者も閉まっており、お盆明けまでこの激しい痛みをどうにか耐えなければと決めていました。
朝起きて昨日より激しい痛みが消えていたのは幸いでしたが、かみ合わせるだけでも激痛、どうも頬を触れば少し腫れているようですし、やはり熱もあります。仕方がないのでおかゆを作ってもらい、熱いものはしみて激痛がするので、山ほどおかゆに氷を入れてのみほし、昼は10秒チャージで済ませようと朝出勤前に買いに行き、お昼になり上司が戻るとどうも家内が私の状態を昨晩はなしていたらしく、救急の歯科医へ行ってくるようにと言われ、背に腹はかえられないのでいってきました。とりあえずの応急処置で随分痛みも違います。後はお盆明けにかかりつけの歯科医へ通うことになりそうです。

 日頃の不摂生や歯医者嫌いなど、反省すべきことは山ほどありますが、同じことを二度もしないように気を付けたいです。お酒もしばらく飲めませんし、昨日より楽になったとはいえ、痛いことにかわりはないし腫れています。まだ仕事も何日も続きますから当然お酒は飲まないし、早めに寝ることにします。

ツケ

 えー、いろいろありすぎることを言い訳にして、夜遅くまでお酒を飲んで夜更かしをしたのがいけなかったのか、ここのところ仕事が続いているのですが、歯がとんでもなく痛み出し、あまりの痛さに昨日は仕事が終わって歯を磨いてお風呂で体を洗って、夕方6時にはベッドにもぐりこみ一日が過ぎました。
教訓、お酒の飲みすぎと夜更かしと現実逃避はほどほどがいいです・・・・

○○のせい

 自らの行いが善いとも普通ともいえず、どちらかといえばではなく、あからさまに悪いことを続ければ、やがては自らの言動には責任が伴っておりますので、ことが大きくなればなるほど、追及があるのは仕方ないことです。

 確信が何かわかっていないときはそうでもありませんが、明らかになればなるほど、自らの言動によってその結果があるのに
「○○のせい」
と言って逃げようとする方がおられます。
その○○の中に、「世の中(又は社会)」であるとか「(関係ない)誰か」であるとか、「政治家のせい」、裁判官の判決が不服ならば
「裁判官のせい」、既に明らかとなっているのに、関係ない「○○のせい」にすることにどんなメリットがあるのか、私はよくわかりませんでした。
 本人が認めてしまえば、それはそこで終わりです。受けていた恩恵が認めることによってなくなるのであれば、認めないというシンプルなその人の理論であったり、又は虚言を続け関係ない誰かを生贄にすることで、これまで問題を収束させてきたという懲りない悪質な手法をとっているだけということもあります。

いずれにせよ、生贄に捧げられる関係ない誰かは災難と一言で片づけられるような話ではないです。

本当のことを言って、その方の悪しき連続が出てしまえば、本当のことを言った人が悪くなるように仕向けたり、これには面白い言葉があります。
「おまえが(本当のことを)言うからだ」
実際耳にした言葉です。
さらには、その本当の方が実は悪い正体だといって生贄にするようなことを最近もみました。
客観的事実が幾つも幾つもでて、証言をされる方が多数いれば、事実に反することを言えば言うほど、嘘つきであるとか、極悪であるとかを自らで出し続けれることになり、自らの立場はさらに悪化していくことも教えてくれました。

素直であること

感謝すること

信じるということ

嘘をつかないということ

あたりまえの大切さを今日も反対の言動で教えてくれる日でした。

一つの偏る答え

 日々何事も変わらないようでいて移ろいかわりゆくものですが、自らのこころほどこんなに変わるものかと我ながら思わされる日です。
安堵から不安、不安から懸念、懸念から疑心、そうかといえば全てを忘れて笑って、ふとしたことでありのままにみれば、憂いが払拭できず、また全てを忘れるかのように趣味へ没頭して、時は過ぎ、繰り返されています。

 お経の解釈を幾つもみていると、そこに前世や来世について幾つも語られ、現代に生きる私としてはそれがしっくりこないので、あれこれと書物をあさっている中に、それは輪廻思想は仏教が興ったインドに古くから根付く思想であり

インド思想史をひもとくと (中略) 人間の現在の生存は過去から未来にわたる無限の生存の系列の中の一様相にすぎない、というのがその根底にある考えである。したがって、現在の生存は過去の生存の結果として生じたものであり、同時に未来の生存の原因になる。その最も通俗的な形としては幸不幸は過去の善悪によって定められたものであり、現在の行為の如何によって、来世において天国、人間界、地獄その他に再生すると言われるのである。しかし、問題をもっと論理的に考察する人々にとっては、現在の生存における道徳的不公平を調整する方法として、過去と未来との両方向へ生存を拡張するという要請が輪廻思想なのであった。「われわれが今考察しようとする西暦前六世紀には、輪廻思想はすでに一般に常識として承認されていた。少数の唯物論者は現世のみしか認めず、しかも感覚的事実だけしか実在と考えず前世や来世の思想を嘲笑していた。しかし、それ以外の人々はたとえ立場を異にしても、輪廻という事実を認めるという点では一致していた。
 人々が特に恐れたのは現世の死よりも来世から来世へと無限に連る死の連続であった。キリスト教を信ずる人々は来世における復活をこいねがったが、インドの人々はむしろ来世における「再死」を恐れたのであった。
インド思想は、ほとんどすべてこの点に関心を向けている。そこでインドの宗教思想は「如何にして再死を免れることができるか」という課題を中心に発達した。仏教もその出発点においては同じことである。
「佛教のあゆみ」 インド篇中国篇 渡辺照宏著 大法輪閣刊より引用



よく質問をされる中に

「どうしてあの人は悪いことをしているのに、(生きているうちに)悪い目にあってないの」

愚かな私は以前怨みにとらわれ悩み迷って出た一つの答えを言うしか能がありませんでした。

「たとえ現実に罰が当たっていなくても、もうすでに罰は当たっているんです。すでにあの方の過去から続く非道な行いを知る貴方は、その方を悪人だと認識しており、無論当人も自らの過去や現実をなかったかのごとく目を背け、時に虚言をもって人の眼をくらまし続け、あろうことか関係ない他人へ罪を着せていけにえとすることもあることを知っている時点で、もうすでに悪い目にあっているし、罰は当たっているのです。だから真似しようとする人も少ないのです。」

もう十年も前になるでしょうか、そんな答えを短く「もう罰はあたっているのです」とよく言っていました。

一体これが輪廻思想と何の関係がとも思うかもしれません。

ただ生きていたり又は亡くなった祖母が根性が悪く、虚言多く、物惜しみ激しく、下品で粗野な言葉を用いる人であれば、生きている時も、亡くなったとしても当時を知る人達は、その方の話になれば生きている時にその方がされてきたありのままをあらわす言葉を放つものです。

「善人であれば、あの方はただの善人であった。」

「あの方は悪人ではなく、極悪人であった。」

時折その影響は生きている親族にも降りかかるほどです。


善い報いとしての恩恵で有れば感謝する方は多いです。

悪い報いとして誹謗中傷や不利益、不干渉が降りかかれば、その悪いことをされた方を嘆き悲しみ悔やむ方も多いです。



私としては生きておられれば、成されてきた双方へ同じ問いが向かいます。


「どうしてあなたはそのような方であったのか」


理由はさておき、悪いものが山ほど降ってくるのは自分にも見ていてもつらいものです。

おさない子

 二歳ほどのお子様を連れたご両親と、しばらく個人的な見解を話しました。

「何故、赤ちゃんや幼子の笑顔一つで、周りの人はしあわせになれるのか」

「二歳ほどのお子様が、大好きといえば言われた方はこころがみたされるのか」

「幼子が大したことはできないのに、しあわせにしたいと願う短い言葉を言うと聞いておられる方は一も二もなくしあわせになれるのか」

それに対する見解を他にも具体例をだし、話をしました。

答えは簡単です。

 「幼い子は本心から、自分のこころがおもうままに瞬時に相手に伝えていて、それは損得勘定がなく、真摯に自らの心がおもうままを素直に相手に伝えており、特筆すべき点は、それを我々大人と違って考えて言うのではなく考えずに思った瞬間伝えているだけだからです。
 考えずにすばらしいことを言っていることに自分が気がついていないのに微笑んだり言葉にしたり体全体で相手に伝えてるからです。」

成長して人間味がでれば、損得勘定が入ってきていることも相手にばれやすいですし、こころからの思いかどうかも相手にはすぐにわかることです。

ただ、どうでしょうか大人でもそれを見習うことはでき、こころからの誰もが否定できない真摯な思いを言葉にすることは可能です。
それを考えずに瞬時に行えば、彼等(幼子)と同じような現象がそこに現れるのも確かです。

 私には三人の子供がいて、それぞれにいろいろなことを彼らに教えてもらっています。純粋な思い、こころと身体の距離が無いに等しい思いや言葉、笑顔、優しさ、大好きだということがどれほどのことか、当然行っている幼子は自分が何を言って何をしているかを考え理解して行っていないからおぼえていません。

学び努力し智慧を深めていき、自らが何を願い何を成し、それがどういうことになるかを自らで把握しての言動であれば本人は失敗も成功も覚えていることも確かです。


 私はシンプルにいきたいです。


「あの幼子のように、考えずに真摯な願いや言葉を出せれば」

それでいいと願うことが多いです。

お盆

 暑い日が続きます。
お盆とよばれる期間が近づいています。早いところでは7月から、郷里や現在住んでいる場所では8月の中旬、徳島であれば阿波踊り、あれは阿波の盆踊り略で、阿波踊りだと私は認識しています。
お盆のお祭りの仕方は地域により異なりますが、ルーツ・根底は同じでしょう。
四国へきて、郷里から随分離れ次男ということもあり近くに知人も親戚もいない私としてはお盆の行事の思いでやイメージは郷里のままです。
 仏教が流入した国々において、顕著な事例は土着の宗教・思想・信仰をもあわせて共に時が流れていく、お盆の行事においても、仏教的解釈だけでは全て割り切れない点があります。
 有名な目連尊者の話、神通力により餓鬼道へ落ちた母を助けるために、大いなる布施(施し)を行うことにより餓鬼道より救われ喜び、手を上げて喜んで踊ったことが盆踊りのという話もあります。
精霊棚をまつり、祖先の霊をお迎えして、供物をささげ、お土産をもってかえっていただく。これはどうもアイヌ民族の風習にもよく似ています。
神をおまつりして供物をささげ土産を持たせ、おまつりする方達に繁栄を約束してもらう。また祖霊が神となったものが悪い神にならないように定期的に供養をするということにも私としてはとれます。

所説あってもいいし、実際のところ元が何でもいいです。

 子供の頃、夕方になると縁側に幾つもつられた大きく長い提灯が風に揺られ、新しくお盆を迎える家に夕方暗くなるとその風流な提灯を目印に尋ねてお参りをしました。実家でも墓参りを済ませ、たいまつによってなくなったご先祖様をお墓からお迎えして縁側に提灯が沢山つられた頃、毎年親戚が訪れて仏壇に御供えをして、普段にはない珍しいお土産やご馳走をいただくのが好きでした。
 親族に葬式だけであうのではなく、お盆や正月にはそうやって家長を継ぐ家に親戚は訪れられていたことをおぼえています。
暗くなる中、灯明のあかりによって揺れる提灯、くるくるまわる飾りの燈籠、親戚の御供が何であるか、お仏壇におそなえしてあるおいしそうなものが少しでも早く食べたかったこと、難しいことはそこに必要ないです。

 郷里は長崎、最終日精霊流しが盛大に行われ、お墓に祖先の霊をお迎えに行くとき、送り出す船などの時には盛大に花火を行うことも子供の頃の楽しみでした。

「盂蘭盆会」(うらぼんえ)略してお盆ですが、こちらではそれを僧侶が読経へ行く又は来てもらうことを、棚経に行く、又は棚経にきてもらうと言います。
郷里では祖父がお盆用に池の近くに生える決まった草を刈って干し、それを編んで仏壇に敷き、精霊棚としていました。
こちら(四国・徳島)では外に棚をこしらえそこへお供え物をのせてまつられているところと、お仏壇にまつられている所の両方があります。
いずれにせよ、迎え火や送り火は同様に行われており、郷里はお墓から火をつけてそのあかりをたよりに家まで連れてくる用の長いたいまつをこしらえ、最終日は同様にたいまつに火をつけて、父が「おじいさんおばあさん帰るよ」そう言って、幼い私はその普段使わない藁で作られたたいまつが珍しいことと、他所の家でも同様に送られた後に残る燃えた藁をみて、父が「他所も送って来てるんだな」と言っていたことをおぼえています。

人間死んでしまえば終わりだといわれます。無事に結婚できて子供ができれば姉妹兄弟ができる方もいて、亡くなったとしても後に残る方がいて、残った方もいつかは送られる側になります。

そうやっていのちを紡いでくることを認識する行事の一つであると、幼い頃思わなかったことを最近は思います。

続くとらわれ

 いまだに理解できないことがあり、何十年も恩恵にあずかりながら、それに対してあだなす行為を続け、破滅へ自分達で向かう。
私がしていることではなく、その方達がしていることなのであって、違う人間であれば理解することの難解なこともあるのはあたりまえなことですが、長く過去から続く現在の行為をみて、やはり理解に苦しみます。

よく調えられた正しい自らのこころ、または過去・現在・未来を貫く真理(法)を拠り所とするのなら、賛同も出来ます。

自らが火をつけ大火となったものをどうやって拠り所として、それが安心できるものであるし、それをみる方を納得させられるのか

仏教におけるむさぼり・いかり・おろかさにとらわれた状態を「顛倒している」と呼ぶこともあります。物事を正しくありのままにではなく、さかさまにみている状態です。

ある人が正しいものをみて

「こうすれば(皆が)喜び安心でき、繁栄できる。」

顛倒している人が同じものをみて

「こうすれば(皆は関係なく自らが特に)喜び安心でき、繁栄できる。」

注釈を加えなければ、同じ言葉です。ありのままの現実としては反対の行いが出現します。
自らまいた種は、自らが刈り取らなければいけません。まして誰もさわることができない悪しき種が発芽し、大いなる悪しきものへと成長したならば誰も手が付けれないものとなります。

いつになれば、ありのままにみることができるかずっと悩み考えてきました。

ある人が私に言うのです。

「それはあなたが考え悩むことではなくて、その成してきた方達が悩み・考え・帳尻をあわせなければいけないことだ」と




愚かな私はやはり悩み考えてしまいます。

誰よりも

 過去から長くつづき、さらには現実生活においても自らに多大なる恩恵をあたえつづけてくれる方へ、恩を恩ともあらわせず、むしろその恩ある方と自分が地獄へ共に落ちていく指示や自らの言動を続けている方のことを眼に耳にしています。
双方が共に感謝して、身の丈に合わないことでは無く、今の自分にできることで、相手をしあわせにというか楽しく過ごせるようにしなければいけないのに、極悪へ落ちるような指示を続けることがどのようなものか、注意を何度も何度もして助けることを続けても、聞く耳もみる目もありながらもたず、さらに身勝手なことを続ければ、皆が助けようとしても、自らで落ち続けて距離が離れていくさまをみて、言葉がなくなってしまうことがあります。

 相手のことを悪くいうとかではないです。「ふつうに笑って楽しめるような生活であってほしい」身近な特定の人たちをこの短い言葉を
であらわすのではなく、少し詳しく説明するとそうなっているだけのことです。

違う方がその現状をみて「一体あの人達は何がしたいのか」どんどん苦しみが増え自らの言動によって首がしまり苦しむことが増えていくことをみてそう言われる方がいます。

戦争に行く人も、ケンカをする人も、博打に全てをなげうつ人も、強盗も、正解平和をうったえることも、身近な方達にやさしくできることをすることも、全ての人がパスカルの言うように、「誰もがしあわせをもとめていることに間違いがない」、違うのはその人たちの身の上にある現状、天変地異・気候変動・自然災害・不慮の事故・病・寿命など、およそ悪いことはあって欲しくないのに不意におとずれることを除いて、自らの言動の連続、自らの心に突き動かされそれぞれ自らの言動があることは確かです。

本当に自分のことですら、自分の心ですら把握して、調えることは難しいことであるのに、まして願いの方向性が異なる方であればどれほどのことだろうかと、考えてはいけないことなの考えてしまうことがあります。
いずれにせよ、私は私なりに生きていくしかなく、できることを言い訳にして逃げ続ける訳にもいきません。

ただ現実逃避の天才である私は、晩はお酒や趣味と夜更かしが進んでしかたないという、愚かさすら捨てれていません。本当人に対して偉そうなことをいえないのに、自分を忘れれば、しあわせであるようにとかたよったものがでています。

誰よりもしあわせを時に願うのに愚かな人です。

はす

 育てている蓮に、その可憐に咲くさまをみて、芽吹くさまをみて、立ち葉(浮き葉)の生い茂るさまをみて、仏教における仏は大抵が蓮の上(蓮台)に座られておられることをいつも考えさせられます。

私にとって神様や仏様ではないかと思える方は、ある種の傾向があります。

「いつも優しい方」

「無名な私を(損得を考えず)理解しようと努めておられる方」

「善いことをしようと努める方」

「私にかかわることなのに、その問題をを必死に解決しようとされる方」

「悲しみに打ちひしがれる愚かな私を放っておかず一緒に悲しまれたりなんとかしようとされる方」

「私の数少ないよい所を認め、それをわがことのように喜び、広めようとされる方」

これは他にもあるのですが、言葉が違うだけで同じことを続けようとされる方と解しています。
そのような方を前にして、一つの傾向が出現しています。

「素直(真摯)な姿勢がそこに出現している」

「理解できないことでも理解しようと努めている」

「信じる(又は認めようとする)姿勢が一貫している」

「心から出る光が目に見えず手に取って掴めないけれど、そこに確かに存在している」

「言葉によるごまかしがない」

ほとけ様が蓮の上に座られたり立たれているのは、汚泥の中にあってその汚泥に何一つ染まらず、それをむしろ養分として
どの場においても美しく咲いているようにみえるからだということを、あの美しくあかく咲く華をみて思います。

誰にでも必ずあり、自分が存在しているかどうかもわかっていないのに、その染まらず咲いている華をみつけ、その人全てを輝かすようにと理解してくれる方もほとけ様ではないかとも思います。

人に花にほとけ様に光をみる方も同様です。


怨みの中にあって、怨みに染まらず、そこに愛(優しさ・光・よいもの)をみることができれば、現状は変わらずとも、いくぶんこころが楽になれることは確かです。




(今日の不出来な行いの懺悔として、ここに記すのです。)