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勘違い

 好天の日曜、予定もそこそこつまっており一つずつ一つずつ目前にあることを確認して進めていき、よく聞かれている方が多いことに助けられ励まされ慰められ、それぞれ自らのためにされていることで満足されておられ、そのことが私にとって有難い日でした。
難しく書きましたが、自らの仕事に満足できる金銭ではなく、大切なものをこちらにかたちはないけれど向けてくれたことであり、 取り巻く現実が何か変わったのかと言えばほとんど変わっておらず、うまくいっていない問題が好転したのかといえば好転はしていないけれど、今日の青空のように、自らのこころや思いが高く青く澄みわたるようにおもえたというだけのことです。
 いつだって私が望みを自らで絶つか、願い求め動いていくか、現実は私だけでなく誰にでも思うようにいかないことばかりです。どうあってもなんとかしようと願わないと私の為にもあの子達の為にもしなければいけないことです。
今日感じることや願い、自分なりの現実の正しい認識、それが愚かな私の大きな勘違いだとしても、願い笑って目前の一つ一つをこなし進めていかねばいけないことです。

 求めるこころがあれば、それはどこにだって存在しているのに、そのことを助けてくれたり示してくれる方がいてようやくその素晴らしさに遅れて気づかされるなんて勘違いのような思いをしている今日の私でした。
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 偶然に外へでて、しばらく木々を眺めていました。夕闇がそこまで迫ってくるなかに佇む木々は昼にみせる顔とは異なる顔、自らの影により大きなシルエットをもって立ち、しばらくしてようやく柳の葉が落ちていることに気が付き、その前を去り建物の中へ入りました。

 いろいろなことが起こっている中で、何かが何かわからず、答えを探しに出かけていたのですが、手ぶらでよりもこころなくして、考えることもなくして、仕事に戻りました。

これからどうなるかと様々なことを考えますが、身勝手に自分にとって都合がよくなる結果を考えては消して、やはり最悪な結果を考えることになります。どうなっても笑っていたいです。答えは変わらずやれるだけのことはやって、子供達や家内にとって恥ずかしくない父親でありたいと願います。

なるようにしかならないのですから、そうなったときにそのまま逆らわず流れていくことにしています。

早くに

 気候はとてもよいのですが、自らをとりまく風は重たく強いというよりは、息苦しいとはいいませんが、不穏な空気というのでしょうか。
昨晩はいつものように一人で自宅で飲みすぎてしまい寝付くことができず、気がつけば三時を回って「今日の仕事に支障が・・」
仕事を無事終え、迎えに行き、家事を済ませ洗い物などを済ませた後、夜早くに就寝しました。
夜更かしなどが続けば体調不良になりやすいうえに他にも影響がでるので、二回ほど日付が変わる前に起きましたが、そのまま寝続ける日となりました。

有難う

 家族皆いつもお世話になっている方がいて、今日も美味しい食事を子供達お腹一杯ご馳走してくれて、本当に有難いことです。
自分が大変なのに誰かに善いことをできる方、なかなか真似ができない同じことしか言えませんが感謝しかないです。

今日も一日仕事は充実して過ぎていきました。それもまた有難く、どれだけそれが続くかわからないことは考えず、一日一日できるだけのことをと思います。
家内がご馳走してくれていた方が明るくなかったので、心配していました。「それは仕方ない事情だから」としか言えず、できるだけのことを行い、どうなるかだけです。

先を考えすぎても何も考えれないので、考えるのは今日もやめておきます。

 二日ぶりの仕事は何故かいろいろなことが新鮮で、一つのことをやり遂げ、さらに一つずつ片付けていくと、気が付けばそれなりに仕事が片付いているだけでなく、時間も矢のように過ぎており、とらわれになりそうなことは極力膝から上にあげず、さらりと流し、笑顔で楽しく、いつもこのようなこころもちの私であれば、何の問題もありません。
 明日もさらりと流して、一つ一つの仕事に集中して、気が付けば仕事が終わる時間といきたいものです。いつものように仕事帰りに「けいくん」を迎えに行き、二人でまだ明るい空に浮かぶ綺麗に半分だけ光るお月様をみながら帰ってきました。
段々と朝晩は冷え込んできています。

どちらさまもお風邪など召されないように

(私も気を付けることにします)

たよりなく動けない私

 今週の仕事のお休みは連休をいただいておりました。必要最低限のことを終えて、主婦の悩みである「今日の晩御飯は何にしよう」とりあえず、今までいろいろありましたが最近も特にいろいろあり、未だ決まっていないことをあれこれと考え、最悪の時はどうしようかと考えれば、今夜のご飯を何にするかが、結局仕事から家内が帰ってくるまで決まらず、家内が横で手伝ってくれたので二人で作り、それからいろいろあることでのことを話しました。
かなりとんでもないことを言ったのですが、彼女はそんなにびっくりもせず、割と普通でした。思っていた最悪のことを話して少し楽になれる私がいて、家内へあらためて感謝しました。
これからどうなるかなんて、誰にも分らないことだから、考えすぎず毎日を一生懸命でもなく普通に過ごすことにします。

「なんとかなるもんよ」

何があっても笑ってそう言えるような私でありたいです。

とらわれ

 とらわれているものは大切なものをみることができない。


 仏教者の著作の中に書かれていた言葉で、大好きというよりも、落ち着けば自らへの戒めとしてその言葉を口にしています。感情的になり激怒しているとき、その瞬間だけでも怨み骨髄にといったとき、途方もない悲しみ、間違ったものを見つめ続け正しい物へ目を背けているとき、自惚れ・慢心・驕り、よく大切なものをみるどころか、その大切なものというのは身近に存在しているすべてのものでもあり、自分自身を正しくみることができていないために、自らが大切なものであるのに見誤り、自らを自らで害い、近くにいる大切な方を時に聞こえはいい無自覚に傷つけてしまっていることもみることができていません。

何もみえない私はとりあえず、おやすみをいただきましたからいつものようにゴロゴロしようとしたのに、とらわれ過ぎて眠れず、何も思いつかないので、仕方なく時間を無駄にしないように洗濯物を全て洗って干しながら、掃除機をかけ、夕ご飯の支度を買い出しへでかけ、本当ならば休みの日には「けいくん」がお友達と遊ぶ日ですが、家内があの子の歯医者を予約していましたので、自転車で二人でサイクリングがてら行ってきました。柿食えば鐘がなるとか言いたいくらい、その辺りで柿がなって、大体の田ではもう稲刈りが終わって、次の耕作の準備が進められ、自動車に気を付けながら無事に帰ってきました。

帰って何も考えずその辺りの野菜を切って、偶然安く買っていたオリーブオイルを使ってお肉と炒め、簡単にスープを作るという何にも考えずただ、オリーブオイルといただいていた多めにカボスを絞って、醤油をかけて食べてもらいました。やっぱり何も考えれないので、洗濯物をたたんで、洗い物を全ておわってもやはりさっぱりです。

 たとえようのないことが起きて、大きな出来事であり、そこまでしてしまえばということになると、いろいろな意味で「それはおわりだろう」という例えが、あまり起きてほしくないけれど起きるたびにその時はそう思っていました。
そんなことが長くなれば、おわりだろうなんてつい言ってしまいますがおわりではないです。長引くか新しいことの始まりです。
 先の事なんて私は予測というか予知もできるわけがないのに、勝手に予測したり思い込みすぎることばかりですが、わかっていることだと言い聞かせても、実際に目の当たりにすれば、言葉や考えを失う私がいました。保身・打算・きれいごと、いろいろなことを考えてしまいますが、なるようにしかならないというか、私一人ではありませんのでなんとかしないといけません。

 

千里

 遠く果てしない距離のたとえの言葉に千里や幾千里と思うことがあります。

惚れて通えば千里も一里(ほれてかよえばせんりもいちり)



この諺の意味は、私が家内になる前のあの人に出会って、駆け落ちしてでも一緒になろうとしたような私の過去に近い言葉です。訳す必要もそれほどない、好きな人に合いに行くのなら、どれほど遠くても苦にならないといった意味で、私が結婚しようとするときは双方の両親が大反対でしたから、二人にとっての障害や距離はかえって愛が盛り上がるというねえ・・・

千里の道も一歩から(せんりのみちもいっぽから)



これが一番有名な千里の例えではないかと私は思っていて、理想・願いなどが無理に思えるものでも、一歩ずつ進めていけばやがて千里に達する。つまりは「少年(少女)よ大志を抱け」目標や理想ができたら日々の努力や実践、これは素晴らしいことですけれど、私に一番難しい言葉となっているので、それは他ならぬ私の問題です。

悪事千里を走る(あくじせんりをはしる)



悪い意味ではこちらの方がよく使われるのかもしれません。善いことより悪いことの方が広がる速度も早く、またその届く距離も長い。つまりは悪いことはできないということを戒める先人たちの言葉だと認識しています。

好事門を出でず悪事千里を行く(こうじもんをいでずあくじせんりをゆく)



上記と同じ意味のような、善いことは素晴らしいことで人間として成さなければいけないものだが、人には知られにくいといったことが強めで、善いことが広がらないからといって、簡単に善いことを続けることをやめてはいけない。なんて人間社会が無法地帯にならないような戒めだと私は思います。

なにやらいろいろと他に違うことを書こうと思っていましたが、今日はこれで寝るのです。

 昨日早くもなく遅すぎもせず就寝しました。けれどおやすみという言葉が頭に浮かべば私は人より長めに睡眠を楽しむことができます。
ただそれでは家族に悪いので、別に家内が何もしていないという眼差しが怖いというだけではありません。洗濯物を全てすませそれなりに片付け、私の仕事のお休みを楽しみにしている「けいくん」が学校から友達と一緒に帰ってきて、カラスが鳴くまで楽しく二人で遊んでいました。

時期的に段々と値下がりしてきたので、秋刀魚を購入して、明日の朝食が簡単に済むようにパンを購入して、お弁当や明日のお昼に食べれるように鳥のささみをカツにして用意しました。

私の趣味やゴロゴロタイムを確保するためには、それなりの成果をなさなければ、我が身を滅ぼし自由が無くなっていくものです。後は食器を洗って洗濯物をたためば、晴れて自由の身となるはずです。

いろいろ驚くことはありますが、笑っていくしかないです。腹を決めて貫いていくことにします。

夜長

 昨晩の私は、お酒を飲みすぎてしまう傾向もありますし、夜も寝付けず深夜二時過も過ぎ、これ以上お酒を飲めば仕事に差し障りがでるので、飲むのをやめたのですが、眠れずに雨が降る深夜に傘をさしてしばらく歩いていました。二・三十分程歩いて流石にこれ以上歩いているとやはりもうすでに日付は変わっていましたから今日の仕事に差し障るということで、帰って布団にもぐりこみ、眠い朝を迎え、家内が作ってくれているお弁当を持って出勤しました。
 特に変わったことも問題もなく、ただ寝不足とお酒の飲みすぎによる疲れは自業自得ですが一日無事に過ぎました。明日はお休みをいただいているので今日の夜は早めに就寝することにします。
ただ家内の家事の手伝いや、頼まれたこともあるのでそれが終わってからゆっくりすることにします。とりあえず相変わらずいろいろありますが感情的にならず、冷静にできることを続けていきたいです。

願い

 自らが何をしているのかを気づいて行っているのか、それとも何をしているか理解できなくてしているのか、今となってはそれはどちらでもよいことです。自らの言動の責任はその本人へ帰属するものです。

ことを公にしたいのであればその本人も携わった人も全てが公に出ていくだけのことです。今日の知人へ来た通知をみておかしくてしょうがない日でした。

内々に納めたくないと関係者各位が配慮されていることも気づかないのであれば、全ての情報が様々なところへ出ていくのも止めることができない事態となります。

「よかったですね」

私も今日は本当に笑うことができました。すっきりしたので最後まで、私のために尽力してくれた知人のために真実だけを貫いていくことにします。


「アリとキリギリス」

キリギリスが厳しい大地も凍てつく冬に困り果て、アリさんへ懇願するのです。

「どうかわたしを助けてくださいアリさん」

真夏の間、酷暑の中ひたすら勤勉実直に働くアリさんを馬鹿にして歌って踊り続けていたキリギリスをみてアリさんは言うのです。

「キリギリスさん貴方は私たちが汗水たらして働いている夏の間、貴方は歌って踊っていたのだから、凍てつくこの冬で食べ物がなくても飢えていても足が凍り付いても、歌って踊っていたらいいです。」



そんな話が世界偉人が残された名言集の中にあったのを何故か思い出したので、今日の何かとしてここに記すのです。

淀み

 誤まった情報を伝えてしまい迷惑を掛けてしまい、何度か謝罪をしました。若い頃は誤った情報と気づくこともなく迷惑をかけたこともあるし、謝らなければいけないことでも素直になれずしっかりとした対応ができてなかったことを時折思い出して反省し、その時に迷惑をかけた相手ににお会いできればしっかりと謝罪したいと思うことがあります。私の愚かさや激しさや頑ななところは、稀に善いことにもなりますが、大抵は反省と改善が必要なことばかりです。「私のミスですから、私の責任です。すみませんでした。」と頭を下げる私を許し追及されない方達でした。もっとしっかりしなければいけないです。

一昨日から少し気が立っていて、周囲の方に角やトゲになるような私が出ているようで、昨晩は私に「何かあったの」と近くへ来たのに関係ないことで関係ない人にあたることを避けるために、それを上手く説明できない私は更なる角がある対応になって、こういうのを「ちょっと今は一人にしてくれたら助かる」と優しく言えばいいのに、角があり言葉足らずな言葉と空気しかでない私でした。
今日はこれ以上そんな私もみたくないので、もっと気楽に流れていくことにします。

(私は本当に感情的です)

偏る長め

 普段より手段を選ばず、自らの損得勘定のみとしかとられない言動を最優先する行動が目の届く範囲内にて頻繁に行われれば
その場や自らの品性などを重んじる方であれば、行為の連続回数やその行われ続ける時間に比例してかたちなきところに一つの答え(かたち)が行為をする方それをみる方に出現するものです。
人間の中に謙虚であること・奥ゆかしさ、他人を慮ること、全てではないにしてもどの時代にもどこにでも存在していることは確かです。

「人間であること」これには幾つかの重要な事柄が含まれており、「考える」ことができることによって人間は偉大であることができて、「偉大である」これに悪いことを考えることができることを意味するわけではなく、悪いことを周囲の方も巻き込み行うことを「人間の偉大さ」と呼ぶことはありません。

人には当然のごとく個性があり、それは花に色があるように、白があり、赤があり、黄があり、桃があり、紫があり、色とりどりに咲くが故に、百花繚乱となり人が集まればそこに美しき花園があらわれ、ここに悪いことばかりする花ばかりであれば、花園とは誰も例えず、地獄絵図であるとか、地獄のようであると表現されることも人類の歴史が物語っています。

一人の人が何気なく普段から話す言葉には、その人の傾向が出てくることも確かです。善いことをよく言う人、普通のことを言う人、悪いことばかり言う人、善いことを言い続けたとしてもその言葉と反対の行動を続けているのであれば嘘つき・虚言壁・理想ばかりで自らを省みていない、それは言葉は大切であるけれど行動(善なる行為の連続)が伴ってこそ善い言葉は光を放つものです。

「自らの言動は、自らにぴたりと寄り添い付き従う影」



これは善人にも悪人にもその間に存在する人、つまりは全ての人にあてはまり、善いことを何度もしているのにそんなことをしていないと自らで否定しても、帰るべきところは当人にしか返らず、悪いことを何度もしているのにそんなことをしていないと自らで否定しても、やはり同じく当人にしか返るべきところがありません。

悪い影を隠そうとすれば、影がない暗黒の中に身を置けば影はあるのにみえず、悪いことも隠して行えるので、悪事や悪人というのは暗黒や闇という表現をもってあらわされることが多く、影響が大きくなれば「その闇は深い」とあらわされたりして、光という対をもって存在しています。

「白日のもとにさらされる」



闇の中にある影、知られていないことが問題の解決とならないとき、あらわれる言葉です。善いことや普通のことをしていれば、お日様(光・公)の当たる場所へ出ても何の問題にもならないことです。眩しさと日焼けと水分不足に注意といったほどです。

都合が悪い方は更なる虚言を用いたり、関係ない誰かを生贄にしようとしたり、中には周知されていても何食わぬ顔で悪しきことを続ける方もいます。このとき卑しく愚かな私は「面の皮があつい」という言葉をみて、日差しにも・冷静な判断で追及されている目が複数むけられたとしても、面の皮があついことによって守られているのではないかと、またその一見複雑にみえるけれどシンプルな構造による数々のことは「木の葉を隠すなら森の中」で、一つの悪いことも数あれば、周囲の目くらましであるとか、問題のすり替えのためにしているのではないか、現実にある目を疑うような光景を何度かみて思ったことです。

いずれにせよ、幼子の笑顔や存在、純粋なこころ、優れた智慧、深い慈悲・慈愛、そのどれもが光をもって、私の目に映るものです。光という言葉は対があるということを小難しく長めに言葉としたまでです。

瞬間

 夏から連続した台風の出現によって、もちろんそれだけではないのですが、細かなことに気がついておらず「けいくん」が楽しそうな顔で走って来てが家内へ

「(玄関の)ドアを開けたら風がつよくふいているんだけど、風にのっていいかおりがするんだ。それでね、それがどこからきてるのかと思ったらとなり家のとなりにある木から凄くいいかおりがきてるんだよ」

てのひらに金木犀の花びらを幾つかのせて、嬉しそうにみせてくれて、また走って外にでかけていきました。
今度は手のひらにいっぱい金木犀の花びらを集めてきたのをみせて、家内が小さな透明のビニール袋を用意して、それに入れて何度も何度も匂いをかいで、うっとりしながらしばらく宝物のように持っていました。

細かなことに気がつかないということの一端を幼い彼を見ていると教えてくれることが有難いし、何が大切かということを知らずに教えてくれます。
彼はその他にもよく私へそのとき何が輝いてみえているかを自分はよくそのことを知らないのに教えてくれます。もっとも、それをきいて「けいくん、それはちょっと・・・」なんてこともありますが、瞬間的であっても「こころから楽しい」ということがどういうものか何度も彼は笑顔で伝えてきます。