何もない日

 仕事の休みは大抵平日で、その休日ががやってきて、いろいろあったことに家内が気を使って、今日はゆっくりするようにと配慮してくれていました。ある程度実際はある程度以上に、ゴロゴロというより布団より出ず、けれど落ち着かないので洗濯物を干して、掃除をして、家の中で片づけやすい場所から手を付け、外に回って少し片づけて、夕食の一品にスープを作り(これがまたちょっと薄味でした)いつの間にか夜になっていました。

静かに過ごす日になるだろうと思っていました、少しだけ心騒がすようなことがありましたが、有難いことに穏やかに過ぎていきました。
あれこれといって、悪くない人を悪く言うことには本当に腹が立つという私をみて、変わらないことを感じ、思い出してやはり腹を立てていました。これからは少し難しくなりそうです。

もうしないだろうといってしているのなら、何もかわっていないということです。近くの人にもっと現実と周囲とこれからをみつめるようにお伝えすることにします。
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 お酒を飲みすぎたり、調子にのりすぎたり、物事が上手くいっていると思い込みすぎれば人は饒舌になります。他に代表的なものに何かをごまかす時でさえ饒舌になる人もいます。その他にも良いことで饒舌になる時などありますが、いずれにしても私はよく身を滅ぼすようなことを頼まれてもないのにしやすい傾向にありますので、自らが気を付けなければいけませんなどと考えているそばからお酒を飲んでいればさっき思っていたことは月よりも遠い位置に存在するかのようです。

うっかりしなくても私はぼろが出ます。ぼろとは私の隠しているあるがままともいえ、あるがままの方がそれは楽です。大人になり仕事をしていれば、ぼろのままでは問題が続出するような私は、それなりの品性を借りてこねばいけない始末、本当に阿呆です。

人が楽しめないことを笑ってみたり、人が許せないことを許せる一面もあり、後で考えれば思い返して笑えることもあれば、情けなさに涙しか出ないこともあり、悔いにしかならず、それは時折ひかりをみることもあります。

人の目は光っていないもの光ってみることができる、これは目というより脳というより、受け取るこころが目に映るものや感じたものに光をみるといった方が私にはぴたりときます。

その光は一つではなく、優しさ、こころの美しさ・純粋さ・真摯であること、何物も貫いていく姿勢、あるがままであること、数え切れない種類でしょうが、光は光です。

光をみるというより、光に包まれている私そのものを見るといった感覚が適切で、私はその時自らをみることができず、不思議に思います。

ここからはもっと変な私の世界がはじまっていきます。そこに何かを指さしそこに光を一緒に見たいと願います。理想はおろかな私を指さすとそこに光と真理が相手にうつっていれば、愚かな私の存在も笑って時を過ごせしあわせになれます。
「私は私の愚を守ろう」そんなことを山頭火が言っていたことにあこがれてやまないです。

誰もがあたりまえなのでしょうが特に今日は

 いろんなことがあって、落ち着かない年となっているのは確かです。明日のことも明後日のことも確実なことは何もわからないことばかりなのは、予定・予想という言葉通りで、あたりまえのことなのに、明日のことを考えると不安です。

不安を忘れるかのように、少し遠くまでウォーキングへ行き、帰って少し疲れたことと時が一時間程すぎたことに気が付かされ、とりあえず紛らわすために、お酒を飲もうとしたら家内が何か察したのか
「飲みすぎないように」
「わかりました」
飲みすぎないように注意しようと思います。今年になっていろいろあって、ただ変わらぬことは誰かを信じるしかないということです。それは楽天的な信じるではないです。
たとえハッピーエンドにならなくても、自らが信じた人やものに最後までついていくという安易な考えに身を投じるだけのことです。沈むなら最後まで一緒に、笑うなら一緒に、泣くなら一緒に、恨むときも一緒に、ただ死ぬときは一緒にというのは自らにも相手にも望んではいけないことだし、望むことはないです。それはその時勝手にそれぞれにいつかはわからないけれど訪れるだけでしょう。

安易で愚かな私は、誰かに重荷を背負わせ、信じるという重荷を背負わせ、今宵はそれで眠ることにします。

おでかけ

 昨日の台風も夕方には乗っているバイク(原付)で帰宅時には、吹き飛ばされそうになり、久しぶりに祝日に休日で家族がそろいましたから、家内は皆でお出かけすることを楽しみにしているようでしたから、あまりお金のかからない砂浜と海を見にいくことにしました。

ずっと子供たちはこの三連休家のなかだったので、皆(家族五人)連れ出して、ドリンクだけは先に買って、いくら快晴といっても台風の翌日ですから、人が少ないかと思えば、まだ少し波が高いことを目当てにサーファーの方たちが目につき、確かにいつもより激しい海でいつもと違う砂浜と波が見え、しばらく打ち寄せる高い波のしぶきと海風をこれもまた久しぶりに波打ち際でしばらく立ちその感触を、海というより波と風と砂と青い空がなんとも言えず、いいものだと思ってしまいました。
長男と次男は最初おとなしかったものの、段々とエスカレートしていき、半ズボンの裾が最初濡れただけであったのに、次見たときにはズボンが随分濡れていて、その次には高い波が来るたびに波にぶつかって遊んで、着替えもないのに二人とも波を満喫して、その楽しさにあてられたのか、「けいくん」も波打ち際で低い波を体全体で受け止め楽しんでいました。

着替えのこととか、タオルのこととか、帰りはどうするんだとか、楽しければどうでもいい三人を見て随分笑いました。帰りは車中にあったタオルを巻き付け、裸の子三人を隠しながら家につき、夕方が近づいていました。楽しいこと、よいことだけであれば本当誰もが何も言うことはないです。

 まだ何やらいろいろと続きそうなので、そこに目や意識が向けば、晴れた海とは反対印象で塗りこめられそうな感じがします。

今日もまた

 望んでいないことですが、内も外も台風が吹き荒れる日でした。
私は本当に計算ができず、言わなくていいところで後のことを考えず自らが正しいと信ずることについ気が付くより前に身を投じています。投じた後に私が気付いたとしても、それはやはり投じた後で、後で悔いても過去のことに属することがらになり、終わったことはどうしようもないことです。

愚直に真摯に、一つずつ、欲張らず、素直であってほしいと誰かに願う日となりました。

邪魔になるものは大切なもののために捨てこれから臨んでほしいそう願う日でもありました。

これからそれぞれ関係した方々には、自らの言動の一つ一つの意味を問われることが続くことになります。善いことをした人にはご褒美があって、普通の人には普通のことがあって、善いことの反対をした人には善いことの反対のご褒美がやってくるというだけのことです。

私はいつになったら、計算が上手にできるのか、そう自らに問う日でした。

思い想う(人はそれを思想と呼ぶことがある)

 浄土真宗、親鸞上人つまりは浄土について学ぼうとする傍ら、息詰まりやすい性格の誰かはパンセを息抜きに少しずつ読み進めてることにしています。
自らにとって現状理解できないものを進めるとき、一見関係ない真反対に位置するようなものを関係ないのに関係させて進めることが私には理解できないという自らの愚かさを知らしめる行為として痛い自らの現実と理解できないものを違う理解できないものを並べ、私と一見反対に位置する二つの理解できないものの三者が漠然と浮かび上がれば、そこに何かと愚かな私が浮かび上がり、悲しみ喜び、今までにみようとしてもみえなかったものが見えるような感覚が出現します。

けれどそれはやはり虚構のものです。

その瞬間の私は愚かであるが故に、それが真理であり、真実であり、理想であり、誰もがそう信じてやまないことだと確信しています。時が経ち、私が自らの愚かさを見つめる行為を持続しているのであれば、虚構であり真理であり真実であり、悲しみであり、ただわが身の愚かさということをそこにみることになります。

皮肉な現象です。

私は私の不出来であり・至らなさであり・愚かであり・努力の足らなさであり、私の不足を思い知らされれば知らされるほど、その深淵(どん底)が深ければ深いほど、その反対に位置する極をみています。その高さ・広さ・美しさ・善さ、それは本当にどうしようもない私をみせつけられその高さ高ければ高いほど美しければ美しいほど、広ければ広いほど、全ての時代を貫いているものであれその貫きの圧倒的であればあるほど、それは我が身に帰り、私は狭い井の中の蛙であることを思い知らされています。

それをパスカルは自らの言葉で

「人は考える葦である」

大風でも簡単に折れ、火がつけば簡単に燃える存在であり、儚く脆く、けれどそこに生きて、わずかながらの蒸気でもいとも簡単になくなってしまう存在、けれど考えることができる葦だと言うのです。

「なぜなら、そもそも自然の中における人間というものは、いったい何なのだろう。無限にしては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべての中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がその中へ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。」

『パスカル (著)  前田 陽一 (翻訳), 由木 康 (翻訳)中央文庫出版より引用 』


 

 台風も近づいており、他国からは物騒なものが発射され、メディアも一色に染まっている日です。

変わり者の私は、台風も他の事も大変ですが、身近で起きていることに気をとられ、何かと考えざるをえません。
これからすることが何か、それを見失わず、当初に戻り、一つずつ関係者と少しずつでも進んでいかねば、後ろ向きや悪いことにとらわれれば、どうにもならず、負の感情にとらわれてしまえば、問題より負の感情をどこかへやらなければいけない力も相当必要となることがあります。

大したことができなくてもいいです。

初心を忘れなければいいです。

愚直にできることを進めていけばいいです。

おたのみすることは信じてお頼み申さなければ前にはすすめないです。

とんでもないことだけれど、信じ楽しめればそれでいいです。


愚かな私は、最後まで信じるしか他になく、ただ自分ができることはあきらめない。そう思う日です。

感情的

 余裕がないせいか、焦りのせいか、私の中身がないせいといえばそれまでですが、感情的になればその感情に振り回され、しばらく落ち着くのに困った時間が必要な日でもありました。

私だけが私の感情に振り回されるのであれば、被害は最小限といいたいですが、近くにいる人もその感情に振り回されるかその余波を受けるか、いずれにしても困ったものというか、困った私としかなりません。

同じことを言うにしても、落ち着いて冷静に伝えることと、感情がほとばしりすぎて冷静さを失い伝えることでは随分印象も受け取り方もいろんなことが変わってくるでしょうし、感情的なことが全て悪いとは私は思っていません。時に感情的なことだって何より必要不可欠なものであるとも信じています。
でもまあ、私にはもっと冷静さが必要です。品性を損なわず、礼を失わず、嘘を言わず、本当のことを言いすぎず、言葉も長くも短くもなく、なんて理想をかいてみます。

現実は話は無駄にながいこともあり、言葉が少なすぎというかなくなっていたり、軽んじている態度や言葉が出て、気が付いたときにはその報いを私が受けて痛い思いをしています。

本当馬鹿だし愚か者です。

秋の気配ならぬ何かの

 休日でしたが、急用が入ったらしく、そのため休日だけれども充実していました。特にお金が入ってくるとかいうことではないのですが、いつもとかよくだときっと私は嫌になりますがたまには無給奉仕もいいものだと思いました。(たまにはですよ)

ここのところというか昨年末からずっと、さまざまなこと、いろいろありすぎて、その波もまた今まで生きてきた中でも割と高波ばかり続き、波に乗るどころか、溺れそうになり、必死にやり過ごそうとしたり、おさまることを待ってもまだおさまりそうもなく、長くなっています。

これだけの話になると、関わる人の判断が容易となる特異なことが起きています。善か悪かその間か、およそここまで三つに綺麗に素早く分かれるようなことは珍しいとしかいいようがないです。
知らずに判断がなされ、知って判断がなされ、そのことが続けば、その方がどのような方かわかりやすい問題、他にもわかりやすいことが幾つかでてきて、考えさせられます。

「何気ない日常が懐かしく有難い、早く何気ない日常へ戻りたい。」

そんな言葉が思い浮かび、またその回数が増えるような時を過ごしているとも言えます。じっとしていてもよくないので家内と一時間弱ほど健康のためとあれこれ考えすぎないように、ウォーキングへ行ってきました。

平静に保たねばいけないと思わなければいけない。しばらくそんなことの回数が増えそうな気配です。

質問

 私は自分のこと自分の過去のことを都合のよい棚にあげ、子供たちに自分の後悔が多いから、必要以上に願うことがあります。

その代表的なものの一つ

「試験が終わってから、もっと勉強しておけばよかった」

「希望通りの進路に進むことができなくて、もっとああしておけばよかった」

「真面目に人より先に頑張って、自分の道を進んでいる方を見て、同じ時に怠けすぎた過去を悔やむ」

要約しますと世間であまり言っても効き目がなく逆効果である短絡的な私が言い放つ、ちゃんとやることやりなさい、つまりは

「勉強しなさい」

となっています。これが逆効果となることも多く、言われて爆発的に意欲もわきません。よいことを思いつかなければその本人たちへ聞いてみました。まずは次男坊から

私「ねね、お父さんさ、ちょっと質問があるんだけど

あなたは、どんな時に『おれ勉強する』ってなるかな」

次男「(照れながら)そんな時ないよ」

どうやら照れ屋だからあるんでしょうけれど、真実を教えてくれません。仕方ないのでもう一度真摯に問うてみました。

私「本当のところ、あるでしょ。『オレ今めっちゃ勉強したい気分だ』って時、お父さん是非今後は参考にしたいし協力するから、あるでしょ教えて」

次男「(笑いながら)ないよー」

本当日本人らしく慎ましやかで本音を語らないところがある子です。仕方ないので隣にいた「けいくん」小1の三男へ聞いてみました。

私「けいくんはどんな時が、勉強したいなんて思うの」

けいくん「(照れながら)えっとね、むずかしいテストで99点とかとったときは、勉強したいっておもうかな」

私「へーそうなんだ、ちょっと条件揃えるの難しいねえ」

高校の受験が近くなってきた、長男へたずねてみました。

私「あなたはどんな時が、勉強したいなんて思うの、真剣に参考にするので教えてね」

長男「えー、そんな時ないよ」

本当に「けいくん」以外は照れ屋で本当のことを教えてくれません。よって長男へ指令をだしておきました。普通の子や賢そうな子に「どんな時に勉強したいって思う」その答えを複数集めてくるように、きっとお父さんやあなた達の中の誰かにそれは役に立つかもしれないから。

馬鹿なことを言って、現実の問題から私は気分転換をしますが、現実に変えれば考えなければならないことが山積みです。

 ある人をみて、考える生き物である人間であれば、そこに何かを考える。

ある人が嘘を言えば、それが本当のことなのか嘘であるか、そう考える。

真実ではなく嘘(虚言)であれば、考える人はなぜその人は嘘を言わなければいけないのか考える。

この世に生きる人たちが、人間的完成(覚り)へ向かうために自らがどうなってもいいから嘘を言っているのであれば、嘘も方便であって、その方の嘘は嘘とならない。

ただ、皆が善くなるではなく、自らだけが不正に利益を得ようとつまりは嘘をつくといった手段を択ばず、嘘をついているのであれば、何故そんな誰もが採用しないことを採用するのか考えさせられる。そこには明確な原因が精査すれば出てくるだろう。

善い行いばかりしていれば、嘘を言う必要もない。今までしてきた本当のことを言えばいい。皆が信じてくれるだろう。

皆を嘘を言って信じさせ、利益だけを自らが手放したくない。手段は択ばない。周囲は考えさせられる。


嘘には人間的完成(さとり)へその方を向かわせるためについていいことと、誰もが聞いて可愛らしく許せる嘘がある。

一人の社会に生きる人間として、大人として、ついてはいけない嘘は明確に存在している。


自分自身・自らをとりまく現実・自らが行い続けてきた誰にも消すことができない過去から目を背け、さらに嘘を言い続ける方がいる。

何もわかっていない理解できない愚か者ばかりではない、世に生きる人は理解している。


自らの結末は自らどのようにするのかを誰もがみている。

易と難

    九月十日 (日) 晴
 今日も有難いことに、仕事は忙しく、ふと今日は体育祭の長男と次男それを見物へ行く家内と「けいくん」がどうしているか気になりましたが、気にしたところで仕事ですから見に行かないので気にするのをやめ本業に専念、忙しければ時間はあっという間に過ぎ、いつの間にか夕方になって、最後もまたいろいろとやらなければいけないことがあったので、慌ただしく最後終わらせて帰りました。

 近くの人へ難しいことを言うことをやめ、易しいことを多くではなく一つだけ言うことを心掛ける日となりました。思えば難しいことを複数求めるにしても、易しいことを一つ求め、けれど結果は同じ事を求めている私をみて、それは自らに向けてどうなのか問われれば、本当に自分勝手な私です。

けれど誰かが何かを求めているのであれば、余計なお節介として考えれるだけのことは考えてみます。

自らが思う答えが出ないなんてことはよくあることで、誰かがこころから満足する答えが出せたかなんてそれもまた難しいこと。
何かにとらわれる前に、明日しなければいけない用事を忘れないように書き出し、家内が仕事から帰ってきて笑ってくれるようなくらいは何かしないとです。


もっと同じ言葉や行動に見えたとしても、過去の私とは違う同じ言葉と行動の私が出現できるようにと願います。

もう少し

 休日明けの仕事、良く寝て仕事に臨み、しっかりと昨日終え、満足しすぎてお酒を飲みすぎの上に夜更かししてしまい、今日もそれなりに忙しく、無事に仕事が終わりましたが、ちょっと何かいろいろと処理がおいつきません。
いつもなら会話を聞けばツッコムことができるのに、聞こえてくる話の処理が苦痛になり、返事どころではなく、その場から離れる私を見て、飲み過ぎと夜更かしを再度反省いたしました。

よって今日はお酒を飲まないのです!(何回これを繰り返せばよいのか・・・)

ここ最近は浄土、特に浄土真宗について知識を深めているところです。浄土に囲まれて育っていないので、私に浄土の教えは難解で、親鸞聖人の文・手紙の言葉がピタリとなかなかこず、ありあまる有難い教えに悩まされています。

気が付けば私は真言宗の近くでそこが土台となり、かつ真言宗という井戸から世界を眺めています。私にとって、とらわれからの脱却も難解の中の難解です。

どれもが美しく素晴らしく、とらわれなく自由自在であれば、難解・迷い・悩み・苦しみは以前より消失しますが、美しいものをみつければそこにとらわれ、醜悪なるものをみればそこから離れようと、些細なことで一喜一憂し、うろたえ、さらなる迷いが私は頼んでいないのに自らで迷いを作り続けています。

いつものように開き直ることにしています。

迷うときは迷って、悩むときは悩んで、泣きたいときにはよく泣いて、笑うときには笑って


本当に今日は体調からくることもありますが頭を悩ませることがある日でした。もう少し悩んでみることにします。

時に同一のものに

 何度考えても、思い返しても、意味が分からない行動に遭遇、といってもそれはもう昨年から遭遇しているのですが、同じなのですが様々に形が変わっていて、本質は同じでも表面は違ったものに見えがちなだけのことです。これだけの時間が経過して、それに振り回されれば、何というかよくないけれど本当天晴です。

誰かにもその反対を貫き、天晴であって欲しいと願う日でした。

子供達は明日から休日、けれど文化祭や体育祭など、家内はそのお弁当や見学などの準備で大変です。私は仕事ですから仕事を頑張って行うだけです。

また今日はよくお世話になる方の一人に、「ここは戦国の世か、監視や盗み聞き、間者みたいなのがおるな」なんて言われていました。戦国の世も現代も人間が生きているのなら、変わらないことはあるので致し方ないことでござりまする。

私が信じて大好きな仏教も、その辺りからびっくりするほどの進化はしていません。(政治に利用されたり・利権による宗派の別れなどを除く)
燈明と線香とお堂と仏像と僧侶と仏教を愛する方・信ずる方・好む方・なんとなく仏教と共にある方・その他いろいろありますが、それは本当に何でもいいです。近代テクノロジーを利用して仏教の素晴らしさを広めている方もいます。
仏教はさとりを求めていくもので、「さとり」とは簡単にいえば完成された人間を目指していくことです。寛容融和をモットーとしていますから、お神様も仏様も同じ家の中で祀り、クリスマスやハロウィンでさえ拒むことはないという寛容融和を現し、根底にあるものさえ外さなければ、さらに寛容・融和・異端はさらに広がっていきます。

「さとりを目指す」

「慈しみのこころから出る、慈しみあふれる言動」

「自らがこの世で大切なものであるから、我が身にひきくらべて近くの方を大切にする」

「時に正しいものでも問題となるなら捨て去り、悪いものならなおさら捨てる」

「両極端のことにとらわられず、その間にある道を縦横無尽に進んでいく」

「生老病死、怨み怒り悲しみ幸せ笑い、意の如くならざるもの(苦しみ)の泥の中で、その泥を養分として美しく生き(咲い)ていく」

根底は他にもいろいろありますが幾つかあげてみました。


どうしても反対のものをみると、その反対に位置するものが鮮明にみえてしまいます。
闇があって光があり、光があって闇がある。闇も光も同一のものを時に指すものであることが思い知らされます。

 外が雨だと、外へ出て何かということのやる気が私はなくなり、今日は動かないことばかり、つまりはごろごろ、平日の休日だと子供達も家内も家にいない時間が多く、家の中は静かで、一人を満喫というかよく寝ました。
何かにとらわれ何をしていいかともならず、思いのほかゆっくりと流れ、明日のために夜もしっかり寝ないと明日にこたえます。

 工事の音、雨の音、子供達のにぎやかな声、家内の存在する音、静かに休憩したいときにすべての音から遠ざかりたいと考えることがあって、賑やかな音に近づきたい考えることもあって、カミナリが聞こえ強い雨脚は強くなり、ことさら私は外に出たくないと思い、休んでいましたと長い言い訳を記します。

自らの続けてきた足跡がその報いとなっているのに、自らの言動を認めず、目をそらし逃げ誰かと何かのせいにすることをやめない。本人よりも近くにいる方達がその言動を見てきたのだから、いくら本人が違うといってもどうしようもないことです。
信じて欲しいなら、どうして他人へ優しく、欲を慎み、良いことをしなかったのか、そんな簡単なことを忘れるではなく、そこからも目を背け続けているようです。

自らの行動も、言ったことも、それを消せる消しゴムはないです。

ここまできて、受け取らなければどうなるのか、私にもよくわからないことばかりです。