一日

静かに時が流れ、仕事は終わっていきました。

一つ一つ、やはり一つずつ、そうでないとどうにもなりません。

進まねばならぬ道というものは、必ず目前にあり、自らの道を見失うとき、迷い・悩み・悲しみ・自惚れ・慢心・とらわれ・学ぼうとしていない・自らの(痛い)言動がはね返っているとき、戻りの多い浅知恵となり、進めていたとしてもどこに進んだやら、けれど何処でも何になっていてもいいのです。
気づきの少ないなかで気づいたことで、それが何になるかわからないとしても、愚直に何かを続けていくしかないのです。


いつしか、「よく迷い、よく悟る」そうありたいと願います。
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明日

 普段通りに振舞おうとする時点で、普段通りではないです。息を吸わないといけないので吸わないと、呼吸も普段通りも狙って普通にやらなければいけないなんて、おかしい私です。
明日に備えて仕事が終わってから、散髪をして髭を剃り、早めに就寝することにします。何もないという確率が高いですが、ひょっとすると、私には関係ないことですが意外なことが起こるかもしれません。

ここ一年半程同じようなことを言い続けてきました。やはり当たり前で簡単なことです。「自らの言動の報いは自らに帰る」それが善いことも悪いことも、何をその方がしてきたかによるだけのことです。信頼できる銀行へ自らの資産を貯蓄するようなもので、他の方が引き出そうとしてもダメなのです。

「悪いことは受け取りたくないです」それもまた無理で、他に誰も受け取り手がいないのであるべきところへ帰っていくだけです。善いことや普通のことだったらいいですね。

昨晩はいろいろと昂って、夜遅くまでお酒を飲んでいました。明日も仕事ですから今日は早めに就寝します。明日どうなるかは明日にならないとわからないことです。

いろいろと

朝から厳しいことばかり言わなければいけない日となりました。最も家内からすれば、結婚したばかりの頃からずっと「この人は激しいことを言う」なんて返ってきそうなので、何を厳しくという話はしないようにしておきます。
すぐやらなければいけないことを言い訳してしなかったり、なかったように振る舞ったり、何か趣味などに没頭して現実逃避する癖が多い私です。きっと、わたしの駄目なところや愚かさが多いだけ、又は自分の視野・考え・幅に余裕がなくつまりは小さ過ぎるから自らを棚に上げて、自分だけは逃げたり許しているのに、ついその私の愚かさの分だけ(またはそれ以上に)、誰かをみて感じれば、他ならぬ自分に言わなければいけない言葉を誰かに向けているだけだと、言葉を発し終わりしばらく経ってから気づかされます。
相変わらず小さな親切だという建前のままで、余計なお節介より悪いことにだって情ないけれどあります。

気づいてできるだけのことをして、また明日は明日で一つずつ進めていきたいです。

私は私の世界が狭いから、結局は私をみるしか他なく、見ていると進んでいるつもりが迷ったり、戻ったり、あらぬところに出たり、とんでもないものに遭遇したり、「道に迷うものは新しい道を知る」新しい道に出会いすぎて困っています。

晩は晩で次男と三男へ気づいたことを言わなければいけない日となりました。いろいろあるから楽しいですが、考えさせられる日です。

土へ

 庭にある家内用の家庭菜園へ、いつも野菜の切れ端などを土に返しています。よく私の祖父が畑に返してきなさいと言われて畑へ捨てに行っていました。
ずっと定期的に行っていると、家内が「もういいんじゃない」と言ってきました。「特に何も植えていないから問題ないじゃない。」といって、ひたすら切れ端で食べれないものや葉っぱの育ちすぎて食べれないもの、うっかりして時期が過ぎた野菜で食べれないものを畑に返して、続けていたら今度は長男坊が「お父さんもういいんじゃない」、私「なんで、まだ植えていないし栄養大事だよ」そう言って誰もいない今日もまた、ニンジンの切れ端や悪くなったものをこっそり耕しながら土に返してきました。
「むふふ」
土から土へ、そんなことを繰り返していたら私もいずれは土に帰るのだと考えさせられました。久しぶりに会う方が歳をとられたことにびっくりすれば、やはりその後に同じだけの月日が経っている私も以前より老けたことを考えさせられます。
子供たちがどんどん大きくなることは喜びです。彼等が無事に社会へはばたき独り立ちするまでは、なんて最近かんがえさせられます。もっとも最後に生まれてきた「けいくん」がまだ小学生ですから、彼が羽ばたく頃の時期を考えればあと二十年は仕事を頑張らないといけない。短いのか長いのか、そのころ私は60代中盤かなんて考えさせられ、現実の問題である今晩のご飯の支度にとりかかり、無事に皆食べて終わり、今日も一日が過ぎました。

無理せず、日々できるだけのことはしていこうと思います。

有難い恒例

 知り合いのおじさんに、この時期新鮮な人参を沢山いただきます。買えば何でもお金がかかるので本当に有難いです。
割と沢山いただきますので、先日は人参ゴロゴロカレーでした。家内はこの前天ぷらを山盛り作って出してくれました。さて私のレパートリーは少ないので、野菜(人参多め)炒めにしてみたり、定番のシチューにしてみました。

いつもは濃い目で作りますが、今日は素材を活かしたものです。言葉はいいようで、つまりは人参がゴロゴロしているシチューというだけの話です。
「さあ、たんと召し上がれ」
そう言ってお椀についで、だしました。どうやらシチューの味とあうようで、おかわりもしてくれました。
「しめしめ、人参がゴロゴロしていることにそれほど気が付かなかったか」
なんて思いながら、片付けや洗い物をしていると次男坊が
「今日のシチューさ、人参がゴロゴロというか、人参しか入ってないんじゃないの」
なんて言って、家内も同意見で、そのほかの長男やけいくんも同意見でした。私はニッコリして言うのです。

「素材を活かして、山のようにある人参を無駄にしないためには、ゴロゴロするほどにいれないとね」

人が参ると書いて「人参」


次はどれに入れて素材の良さをいかすか・・・・

 何か指摘・注意の時に、感情の起伏が伴えば、怒りの属性をもつ言葉になることよくあります。言うまでもなく私はその代表格で怒りが来れば、厳しく鋭く激しく、つまりは極端に激しい面があります。
残業が終わり家に帰れば、「けいくん」がどうやら嘘をつきすぎたり、宿題をしていなかったりと家内に注意を通り越したところまでいったと家内本人が私へ、家内は自己完結しませんから、必ず他人を巻き込みます。私と対照的です。

「けいくん」には末っ子で小さく愛らしいところがありますから、ずっと彼には優しく接してきました。その都度言ってきました。
「お父さんが、けいくんの言うことを聞いたり、優しく接するのは、けいくんがよい子だからだよ、悪いことばかりするようになったら、お父さんは優しくもしてあげられないし、欲しいものも買ってあげられないよ」
何度この言葉を言ってきたか、今日は流石にしばらく注意していましたが治らないので、あの子は悪いところが治って普通にできるまで、私は優しくしません。欲しいものも買ってあげれません。しばらくゲームや遊ぶことも禁止です。そう彼に伝えました。

本当は彼に優しくしたいし(可愛いから)かわいがってあげたいです。しばらく彼がどのように過ごすか観察することにします。彼も小学校次の学年にあがって、どうやら悪いことができるように成長しているみたいです。成長は喜ばしいです。ただ限度を超えてはだめです。

 「トーキョー、トーキョー」
幼少の頃から、鳥の鳴き声がいつもそう聞こえた。40も過ぎたのにやはり「トーキョートーキョー」と聞こえてしまいます。最近になってようやくその鳴き声が「ハト(キジバト)」だということに気がつかされました。
人によって聞こえ方が違うようですが、他の方にたずねないですから、やっぱりあの声は私にとって「トーキョー、トーキョー」聞こえいます。「ホー、ホケキョ」と鳴く鳥のように世間的に定着されれば別でしょうけれど、キジバトがこれから一世を風靡することもないでしょうから、ずっと(私の中だけで)変わらないでしょう。

先日お酒を酌み交わした方とお会いして、「あの時は随分飲みすぎましたね」と言いながら次の日二日酔いで仕事がつらかったことが蘇ってきました。
「今度は、ゆっくり自分のペースでまた一緒に飲みましょう」
その時(次回)が楽しみです。
先日家内が自宅に友人とそのご子息を招き、楽しそうでした。主婦だった頃は誰かを招かなくてもよく笑っていましたが、フルタイムで働くようになって随分と笑顔が減り、社会に出て働けば、何かに当って痛い思いをすることがあるように、もれなく家内もそうなっています。
「意味が分からない」
そう言いながら働き出して二年経ち、発言も仕事に対する姿勢も変わってきました。自分がどう変わったかはっきり気がつく頃には、仕事に慣れた頃だと私は思います。
善い出会い悪い出会い、助けられる、見捨てられる、困難に出会う、普通の時間がそれなりに過ぎていく、変わっていないようで変わっていて、自分が何を願い何を理解しようとして、自分がどうなのかを少しずつ誰かや何かを通して、自らを知ることを気づかないまま気づいていく時間の経過は大切です。

この「同時」(どうじ)、同じ時を過ごすこと難しいです。

善い・嬉しい・楽しい・気楽・普通・ではない、その反対の時は逃げ出してしまいそうな愚か者(私)です。


少しずつでも前向きにと願っています。

春雨

 「言いたいだけ」の言いたいことが相手を傷つけることもありますが、助けになることもあります。言葉は光ることもあり、相手を光らせることもあり、その逆もあり、難しいことの一つです。

聞くこと・理解すること・優しくすること・親切であること・他人事にしないことなど、つらい重荷を背負う方にとっては何よりも有難いことで、愚かな私は首から上だけの理解にもなっておらず、難しいことになっているという情けない私の現状です。根本的なところは変わらないというか変えにくいものだと実感もします。他人を見てもそう思わされることも多いです。

今日も仕事で風が強く、午後からは久しぶりに雨も降り、雨の有難さと春の暖かい風を感じる日でした。明日は今日より仕事も忙しいでしょう。明日特に何もなければ、明後日には何か変化があるでしょう。

私はこれから起こることを冷静に聞きみつめていくしかありません。

自らの過去から続く行いの連続は、当人が受け取るしかなく、まして悪いものであればどなたも引き受け手がないことです。

善と悪

 「それ自体が善であり、それ自体が悪である。」


この「それ」に入る言葉として、仏教では「貪」「瞋」「痴」(後者のそれ)・「慚」「愧」(前者のそれ)などをあげている。むさぼりつまりは怠惰、いかり慈悲(やさしさ)を根底としない個人的な理不尽ないかり、おろかさ(ここでのおろかさとは学べるのに学ぶことをしない又はせっかく学んだ知恵が病にかかった悪い状態の知恵をおろかさとよんでいる)。

*慚(ざん) *愧(ぎ)
(大善地法十種の中にある)それぞれ二様に解釈される。第一の理解によれば他者の徳に対する恭敬が慚であり、自己の罪に対する畏怖が愧である。
第二の理解によれば、みずからを観察することによって己の過失をはじるのが慚であり、他を観察することによっておのれの過失を恥じるのが愧である。
*無慚 *無愧 慚と愧の解釈の反対である。
存在の分析「アビダルマ」―仏教の思想〈2〉桜部建・上山春平 (著)より再度引用



世間話として自らを語ることがあり、(悪意無くその方のことをありのまま虚偽なく)客観的に第三者が語ること。その二つ、自らの認識が妥当であり、客観的な認識(理解・判断)と誤差が生じない、ありのままに近い状態をあらわすといってよい。だが「誤差なし」とどうしてもならない場合、どこかに現実との大きな差(又は相違)があることもある。

現実の例を出してみよう。

 ここに一人の20年以上も、周囲の方に優しく、ふれあう方へ野菜や自らの身体を使い、助けたり与えることを惜しまない方がいる。
「おじさん、いつもありがとう」
私はそう感謝の言葉を伝える。
「たいしたことはしとらん、御礼は言わんでいいよ、こちらはしたくてしてるだけのことだから気にしなくていい。」
とってつけたような言葉ではなく本心からいつも言われる。
自らの行動を自らで否定される。この行動が善の方向性を持つものであれば、(善の)否定はさらなる(善の)発展となる。

ある人がいる。15年以上自らのことだけしか考えず、物惜しみがひどく、優しいと他人が言ってくれるのを待てないので自らで「私は優しい」と言う。
この方に「あなたはケチですね」と過去からの言動をみてありのまま伝えると、「ケチでないわ」と返ってくる。自らの行動を自らの言動で否定される。この行動が悪の方向性を持つものであれば、(悪の)否定はさらなる(悪の)発展となる。

その本人の成してきた(それ自体が悪ともとられかねない)言動の連続を伝えても、現実と相違する言葉つまりは誰に頼まれるわけでもなく虚偽を上塗りすることになっている。

その方の行為が次のようになる。


「一つの悪が二重の悪へ移行する」


それ自体が関連して連鎖することではあるが、善であれば喜ばしいと理解されることが多い。

同じことばかり

 基本がおろそかになる私ですので、合間があれば基本に立ち返り、何度もおさらいをしています。何もわからなかった頃から少しわかるようになって、難解だということがわかるようになって、難解すぎて理解が追い付かないと思うようになり、再度基本に帰れば以前より幾分違うものが見えるようになっており、その基本がどれほどのものかということも思い知らされます。

私の道はいつも目前にあってまっすぐ行けばいいだけです。けれどそれが私にとってどれほど難しいことか思い知らされますが、私は目前の道を行くしかありません。紆余曲折ばかり、道草ばかりではあります。周囲の方の配慮に今日も感謝し、基本に没頭していました。先日お会いした方の話が私とは関係ないことばかりなのに私のことを考えさせられ、ただいつものようにしばらく待つことに気を取られている時間が割とあったことも事実です。

どうなるのか気がかりでもあり、恐ろしいことでもあり、けれどそれは自業自得であって、善いことが帰ってきてほしいなら普通かそれよりか少しでも善いことをすべきです。悪くなることばかりを行い自らにだけ都合よく存在する場を蝕み続けた結果が自分に跳ね返ってくる時がどうなるのか、目をそらすのも誰かのせいにするのも世の中のせいにするのも誰かを生贄に捧げるのも自由ですが、それが通じないときはやはり自らの過去からなし続けてきた言動の連続は本人へ帰るだけです。その時にその方がどのようなになるのか私は想像もつかないことです。周囲の優しい方善い方はずっと注意し助け続けてきたのに忠告も助言も善意も優しさも何一つ受け取るどころか、反対のことを黙って続けるとどうなるか少しでも考えれば誰にでも簡単にわかることです。

私はそんな恐ろしいことが自らへ跳ね返ってくることを望みません。だから普段からいろいろと注意・指摘・忠告もしてほしいですし、善くとはいいませんが普通のことをしていきたいと願います。


残業

 7日から10日の間、どうなるかわからないことを考えても仕方なく、けれど気になることは頼まれてもいないのに考えてしまっていることが続いています。

柳も青々となり、気がつけば桜だけでなく、沙羅(夏椿)の木にも緑が芽吹き、筍も沢山出てきていました。
いよいよ青葉の時期到来です。この時期幼虫も沢山出てきます。増えすぎれば足の踏み場もないなんてこともあるから要注意です。
あまり思わしくないことがあれば、ことさら私はしょうもないことを言い続ける始末です。

残業が遅くまであって帰宅すれば家族は夕食中でした。終わって子供達に今日どのような一日だったか、つまりは上の子二人は学校のテストが終わった感想を聞いてみました。まあ二人とも普通だという答えでしたが、今後に向けての目標をそれぞれ聞きながら父親らしい振舞をせねばと思う私は、余計なお節介としていろんな話をしました。
次男とは高校をどこを志望するかという話をしたり、それに向けて具体的にどうしていくかの目安などを話し、高校になった長男とは大学へ向けて具体的にどこの大学の何々学科で将来どのようなことに向けて進めていくか、それぞれの希望と現実などを聞いて、私の中学・高校時代と随分出来た答えが二人から帰ってきたことは素晴らしいことだと私ができていない分だけ感心しました。

 二人は当然長所・短所も人間が違いますから違います。同じ親から生まれたとしても当然違います。それぞれの好みや希望へ、サポートできればと願いますが、邪魔することになっていることも多いです。
厳しくもあり、楽しくもあり、楽しくもあり、頼りないところもあり、馬鹿なところもあり、あほなところもあり、感動するところもあり、いろいろなことをそれぞれと時間を持つようにしていこうと思う夜です。

環境

 進学年が子供達三人それぞれ始まりましたが、中学から高校へとなった長男が一番変化が大きくそれに戸惑っています。中学は一つ学年が上がっても次男は何もなかったかの如く、小学生の「けいくん」は一つ学年が上がって少しだけれど、お兄さんとなったことを意識しているようです。
家内は相変わらず職場の人間関係がネックのようで、私としてはこれからのことを考えれば、自らの仕事をしっかりと認識して、自らのことはくだらないものなどはねのける(又は受け取らず)スキルを獲得して、一層自分と仕事を磨いてもらいたいと願っています。

そんな上から偉そうなことばかり願い思う私はどうかといえば、ただじっと時を待っているだけです。そんな消極的なことは不本意です。けれど、たまには待つことも重要だといい聞かせながら、気にしすぎれば何も手につかないので、現実逃避で趣味へ没頭していました。

お腹一杯ご飯を食べて、後は洗い物をして明日に備えて寝ようと思います。

明日は上の子たち二人は試験が待っています。私の後ろで取り組んでいますが、心配です。彼らのこれからのことをいろいろ考えます。信じること、褒めること、認めること、駄目なものは駄目だということ、許すということ、よく遊びよく学ぶこと、できるだけあの子達の為ではなくて私のために彼等に大切だと思うことは話し合う時間をもっていこうと思います。

学び舎

 偶然休日が家内と重なりましたが、家内は長男の入学式へ行くために仕事はお休みを取っていたようです。子供達三人新しいクラスが始まりますから、帰ってくると
「何組になった」
「今まで一番仲良かった友達と一緒のクラスなの」
「先生はどんな人」
長男には新しい高校だから
「クラスに美人な子いた」
とかね、本当に取るに足らないことを聞きました。入学式が終わって明日の仕事の準備のために、職場へ家内はいって。私は子供達のために、晩御飯の用意や家事を代わりにすすめ、明日もまた休日をいただいているという心の余裕からか、お酒を飲んでまったりしていると、全てを忘れて趣味に没頭し満喫する代わりに、もう日付が変わっていました。

ただ、けいくんの友達も遊びに来てゆっくりしていました。明日も私が家にいますからまた遊びに来るでしょう。遊ぶだけじゃなく、学ぶこともしっかりさせようと思います。

ただそれは私にとっても同じことです・・・・

割と

 私にとって春は一年の中で忙しい(仕事の)季節です。今日も有難いことに遅くまで残業になり、そんな時はいつも仕事をする方と話をします。付き合いも長くなっていますから、双方にとってどれくらいのことを知っているか知らないか、どこまでどのことを理解していて理解していないかの前提も既に必要のない時間が過ぎています。

よって、瞬時にお互いの核心を言い合える関係とも言えます。お互い全てを言い合える関係とは言いませんがいろいろなことを知っているので、楽です。もっともそれは私がそう思っているだけのことで、彼はそこまで思っていないかもしれません。私が歳上であり先輩でもあるからです。

いろんなことに遭遇し、泣くとき、笑うとき、幸せだと思うとき、嬉しい時、怒るとき、恨むとき、つらいとき、とんでもない事態に遭遇しこの世界全てが激しく揺れ動いている中に包まれているかのように感じるとき、いろいろなことがあって、今までと同じことに遭遇しても対応がお互い以前とは違うようになりました。
簡単に言えば、小さなことと普通のことと大きなこと、その幅が広がり深まったというだけです。

今まで大きくてとんでもないことだと思っていたことが、普通かそこまでいかないかとある種のことに関して変わっただけです。何も世の中や周囲が変わったとかではないです。ただ変わったからそれが終わりや成長が止まったというわけでもないです。
これからだって徐々に何かが変わっていくでしょう。おそらく私が変化しなくなったとすれば、成長が無くなったか、いのちが尽きたかくらいのことかだと思います。

これから十日間位で周囲でまた何かありそうです。私はそれによってまたどう思い変わるのか。


いずれにしても、自らの意思で動かれる方達は、私の思い通りにも予想もできないことです。

あるもんやね

 仕事から帰って一人留守番していた長男は、真面目に学校からの課題に取り組んでいました。
「しっかりやってるんだね」
「だって、必死にやらないと終わらないから」
彼はこの春休み計画的という言葉を忘れるほどに受験が終わってから羽を伸ばし、課題(宿題)のことを甘く見て
「いやあ、お父さんこの春休みは僕は結構忙しかった(遊んだ)よ」
返答に困るのです。今の調子だと月曜から始まる新しい高校生活にケチが付きそうです。けれど計画を立てることが上手な彼は、明日友達と体を鍛える予定、つまりは自転車で遠出する予定にしています。
「明日予定通り出かけたら、間に合わないんじゃないの」
「でも、今まで断ってばかりで気まずかったから、明日はいかないと」
「間に合うの」
「どうかな・・・」
「いずれにしても、私にはあなたを信じることしかできないから、予定は貴方が決めなさい」
どうやら終わっていなくてもいくつもりのようです。それも自由です。
「無事に高校受かって、入学前の課題をしっかりやるかやらないかは自由だけど、貴方の二人の友人は既に終わらせると聞いたけど、新しい学校そしてクラスでクラスで貴方だけ課題が終わっていなくて提出できなかったら、クラス中の春のような温かいまなざしと憐みの心をむけてくれるんじゃないの、まあいいか、貴方の弟が同じように課題をおろそかにしようとしたら、お兄ちゃんのようになるから気を付けた方がいいって実際例としてあげれるから、貴方のその身を捨てた献身的とも呼べる行いは無駄にはならないから、自己責任だけど、なかなか自分を捨てて具体例を示すってできないことだから、素晴らしいことだね」

「お父さん、言いかたってあるもんやね」



「ただの一つの事実だよ」