開き直って

 予定していたことを一つずつこなしていくうちに、一つ予定を忘れていることに終わる前に気が付き、焦ってしなければならず、尚且つ今日中に終わらせて帰りました。
外に出れば秋から冬へ、曇り空ということもあってまだ夕方五時過ぎだというのにもう薄暗いどころか晩遅くのように感じながら「けいくん」を迎えに行き、二人で

「お空がまっくらだね」

「けいくん、一人でこんなに暗く帰るとなると、怖いんじゃない」

なんてちょっと意地悪なことを言ってみたりしながら一緒にいつものようにバイクに乗せて「けいくん」とバイク(原付)を押しながら家に帰りました。

今日は昨日のお休みの不規則な生活時間がたたって、リズムがなんとなくつかめず、帰って怠けて趣味に没頭していたのでここもとんどもなく遅い時間に更新、内容もナイヨウといったていたらく・・・。

ただ進まないようでいて進みつつ、もどかしい日々が続いています。一日も早く不穏なことがなくなり、安心ではなく普通の日が遅れることをやはり願う日でした。そうでないと出勤のことや他のことにしても普通のことが言いにくい現状です。

さらに一杯やることにするのです
スポンサーサイト

定番

 相変わらずの平日に仕事のお休みをいただくことが多いですから、仕事から帰ってくる家内のためにいつも晩御飯を用意して待っておくことにしています。
いつの間にかそんなことが当番ではなく、決まり事でもないのに、決まってしまっているようなことになって、つまりは私の出番が増えて、料理のレパートリーなんて片手の指位しかないのに出番が増えれば偏りがあり、良い言葉であらわせば「定番」でしょうか。

しょうがないので買い物へ行く前に、冷蔵庫をにらんで(中身を確認して)、無い必要な野菜だけを近くの地産地消のお店へ行って、三つほどたりないものを購入して帰宅、けれどメニューは決まらず、洗濯物を干していれば考えも決まると思っていても決まらず、洗い物を片付ければ決まると思い決まらず、早出だった家内が帰ってくる寸前にメニュー決定、当初の予定と違い帰ってくるまでに用意は破綻なので、メニューはアツアツのものを出したかったからという建前を用意するメニューにしました。

「今日は出来立ての天ぷらを食べてもらいたかったから、一杯やったらいいんじゃない」

それから五人分と朝の分など大目に、しばらく揚げ物を続け先ほど無事に終了、皆喜んでくれ、「けいくん」は

「おとうさん、つぎも天ぷらにして」

リクエストが来るというのは私にとっての最高の賛辞です。(かといって続くと嫌がります)

寒い時に温かくておいしいものを食べて、いただいた野菜は土地の時期の野菜だからそんなにお値段もかからず、お腹一杯になればそれが一番幸せです。

過去より今、今この時、今を楽しめないことの多い私は、その時をできるだけいろんなことがあるけれどそれにとらわれなく、笑って楽しんでいきたいと願う夜です。

対応

 普段より冷え込み、冷えているうえに風もあって日中でも寒かったと仕事が終わって伝えると「今日は例年の大晦日ほどの冷え込みだとか」といったことをどこかで言っていたことを教えてくれました。

日もよく寒いけれど晴れていた日曜日ということもあって、忙しく仕事が過ぎていき、無事に終わったとほっとしていると、私のミスがあって即座に対処しました。その方が出来た方ということもあって、上司に全てを報告し明日への伝達を済ませ一日を終えました。
私が今と違って若い頃つまりは果てしなく愚かで努力もしていなかった頃、ミスが出ればそのことを報告することを嫌がって、余計に問題が悪化したことが何度かあります。
最近は善いこともふつうのことも悪いこと(つまりは私のミス)や悪い現状など、後の憂いとならぬよう即座に報告することにしています。知っていて何もしなかったこと、私だけが知ることでそれにより問題が悪く広がることを防ぐために、結果それは私や周囲と職場を守ることにもつながるということが少しずつ理解が進んだように考えます。

今日も怒っているのではなく、現在の問題における今後の対応について、忌憚なく方針を伝え一日が終わりました。後はできることをできるだけ行い、過ぎたつまりは過去にとらわれるでもなく、未来を来ないように又は望みすぎたりせず、今この時を楽しみかつ惜しむこともなく望みすぎることをしない、つまりは様々なことを思い考えたとしてもそれにとらわれないこの瞬間があればいいだけです。

家内が実家から炬燵(コタツ)をいただいてきてくれたので、仕事が終わって模様替えをしました。けいくんはそれをみて

「ぼく、こたつだいすきなんだー。」

そう言って、コタツにもぐりこんで隠れていました。家の中にコタツが来ると冬のイメージが強くなり、そこではミカンやお正月、二月などのイメージが私の頭の中で勝手に膨らんでいきます。

家内はぼそっと

「お父さんがそこで酔いつぶれて、寝ることが増えそう・・・」


どうやら今この時を生きる私達、未来は何一つわからないのに、手に取るようにそこに私の姿をみてしまい

「そんなことないだろう」

そんなことはある気がしますが、礼儀として家内に答えておきました。

怒り

 あれほど駄目なのに、ここのところ私は怒っていて、その怒りの炎は周囲に熱さ又は火の粉などが及びます。周囲の方にあたりちらすわけではありませんが、感情の起伏が激しい特に怒りの熱量は、自慢できないことに人より激しいように思います。それは自らの愚かな振舞が原因を私が気付かずに怒れば、全て自らへ跳ね返り、私の怒りの熱量の激しさを身をもって思い知らされてきたからです。
怒りにとらわれる私はその怒りが静まるために、時間や何かしら人とのやり取りが必要となる面倒さがあって、あらためてこのように文章化すると、いつもの如く愚か者の私ということが簡単に自己紹介されている始末です。

  五十四 怒 り

疾走する車輪を止めるように、まさに起こった怒りを[制する]者を、わたしは名づけて馭者という。そのほかの人びとは手綱を手にする[にすぎない]。 (法句二二二)

ひとは怒ることなくして怒りに打ち勝ち、善によって、不善に打ち勝ち、与えることによって物惜しみに打ち勝ち、真実をもって虚言に打ち勝つがよい。(法句二二三)            『真理の花たば』法句経入門  著 宮坂有勝


 私が敬愛する宮坂先生のいつもの言葉を改めて読み返し、それでも怒りの感情が収まらない私は、その文章を自らが都合の良いような解釈をしようという、「何かにとらわれた私」がそこにいて、「とらわれているものは、大切なものを見ることができない」その代表者として存在しており、恥ずかしいことです。

先生が言うように「相手の怒りを止めるより、まずは自らの怒りを止めよ、それには勇気をもって、自らの品性を損なうことなく」を忘れないようしていきたいです。落ち着けばそのことを思い出すのに、きっと愚かな私はとんでもないことをされれば、やはり誰よりも先に怒ってしまいます。

品性を損なうことなく、勇気をもって、本当に私は忘れてはいけないことです。
 

睡眠は大切

 少しずつか、最近であればかなり朝晩冷え込み、私の活動が鈍くなってきています。もっとも温かくても活動が活発かどうかはふれないほうがいいことの一つです。
お休みをいただいた今日は「けいくん」もお休みで、朝からすべてを忘れて寝ていると、皆学校や職場にいって残された私のベッドにやってきて、隣にきて一緒にそのまま寝ていました。そのままずっと眠っていたかったのですが、さすがに家の中の用事を済ませなければ、よからぬ災いが私の上に降りかかってくるので、あせりながら洗濯物を全部干して、買い物へ行き、晩御飯を用意して子供達や家内が帰ってくるのを「けいくん」と二人で待っていました。

私からすれば不可解なことで、昨日も昨晩も何か引っかかるどころか、これまであったような他人がとんでもない目に遭っていることを意にも介さず、とんでもない行為を助長させる行為を続けるということを何故行うのか、そのことは私にとって引っ掛かるどころではないのですが、当人にとってはそれが普通でもあり、これまでもそうして、これからもそうするのでしょう。

ただとんでもないことがその方自らの上に降りかかってくればなんというのか、そんな問いはどこへその方はやってしまったのか。そんなことを考えてもしょうがないことなのに考え続けているようで、それと寒いことを理由にじっとしていました。

今日こそ早く寝ようと思います。

変わらず

 今まで起こってきたことは、しっかりと足跡が残っていてもう消すことができないのに、それがもう今は存在しないかのように振舞われる方々がいて、目線をそらす言動ばかりというか、責任を取る気配がない言動ばかりというか、まるで何もしていなかったといわんばかりの話で蔓延させる雰囲気を出し、さらには当事者でも話が当事者だからと通じず、まして当事者に近い方の話も味方しているとと勝手に決めつけ、事実ありのままを言ったとしても受け取らない方々がいます。それは本当に疲れます。
「貴方がしたことではないのだから、問題をされた方の責任をとられるのですか」
その質問に対しての答えは
「私はとりません」
それなのに、何の恩恵があるのか不適切なことをされた方をかばう言動が出現してきます。
「説明も関係者にできず、責任も取れないのなら、その問題を起こされた方は大人なのだからそれぞれ自らで説明も責任もとられるから、もうかばえないですよ」
そんなことをあと何回かしなければいけないような空気がその辺りに漂っています。
その場と関係者に迷惑が掛からず問題にもならず、良くなっていくのであれば何も言う必要はありません。反対のことです。問題がなくならず、普通の状態にすらいけていなければ、その場所と普通の状態にしようとしていく方が不遇な目にあうことを自分は関係ないと見捨てることはできず、見過ごすこともできず、やがて悪くなりすぎればとんでもない事態になるのが明白です。
いずれにしても仕事で疲れるのではなくて、そんな話が疲れます。

 本当に面倒くさいことなので、それぞれ大人なのだから自らの言動は自らで説明と責任を果たしてもらわなければ問題は解決しません。


有難い

 誠に有難いことがあって、何か善い物をいただくとき、「欲しいなあ」と思っているときには一つもなくて、思っていないときに重なってきて、それはどうとっても有難いということしかなくて、なんていうか有難いのです。

いただきものについて、私も当然嬉しいのですが、私より家族の中で家内が一番喜びます。その喜び方は嬉しいと感じる子供達と大人げなく奪い合うほどに嬉しい感情が出ています。
一例「やったー(お母さんの声)、やったー(子供達の声)
これは僕の(子供達)何で勝手に決めてるのこれはお母さんが(お母さん)」
私「・・・・・・」
大人が大人であることを忘れ、子供と純粋に取り合うという瞬間も生きていくに必要なのでしょう。そんなことが何度かやりとりがあってから、いただきものは家内に最初に一番渡して
私「お母さんに渡しとけば、子供達に平等にわけてくれるから」
そう言っておけば安心です。あとは皆で安心して子供三人と家内が眼を光らせながら配分していく儀式が厳かに執り行われていくのです。

私はあまり厳かすぎる儀式は苦手で、時折そんな儀式から遠ざかってひとりでいることがあります。たまに元気で気分が乗ればその儀式に参加します。大人も子供の頃があり、時折童心に帰ることがある。そんな素晴らしいひと時です。

何か善いものがあるから、そんな楽しい光景が存在することは確かです。私は贈り物や貰い物(善いものであればなおさら)大好きです。(誰だってこれは大好きだという当たり前のことを当たり前に書いてみました)

楽しい声、笑い声などは、段々と気温が下がって寒いことをその時わすれさせてくれます。こころも体もあったかい方がこれからしばらくはいいでしょう。(ここを読んでおられる奇特な方達へ「温かくして、お身体気を付けてください」)







お客さん

 いつものように(といっても平日の暇な日を選ぶので流動性あり)仕事のお休みの日、学校と仕事へ家族は皆でかけ、私一人残され、ゴミを出し洗濯を仕掛け、現実逃避という名の趣味に没頭して、晩御飯の買い出しが遅れ、慌ただしく買い物を済ませ、掃除をして夕ご飯を「けいくん」が友人を連れて来ていましたから、作りながら話をして楽しいひと時が過ぎていきました。
誰かが家に訪ねてくるというのは大変なこともありますが、新しい風が入ってくるのでその風を楽しめれば心地よく、いつもと変わらない家なのに、全く違った景色にみえます。

それからお客さんも入れ替わり、一緒に晩御飯を食べて、他愛もない話をして、お腹一杯になればそれで私は満足です。家内が主婦の頃は家の中のことはほとんどしてくれましたが、働くようになって、全てを家内一人に望みすぎるのは大変ですから、私ができることは私がして、家内には負担をほとんどかけないほうが、不平・不満・愚痴もでず皆が誰か来たとしても楽しく笑って過ごせ、終わっても楽しくなれます。

私にとっては何も変わらない、とりたてて何もない日でありましたが、来客が二組と他愛もない話をして、それぞれ皆いろいろあって、些細なことで驚いて・笑って・楽しんで・仲を深めて・何かをお互いに伝えることができたような気になれば、それはそれで中身は本当になんでもよいです。

以前は来客へ、私が誰にも頼まれていないのに何か必要以上のものを望みすぎて、その望みすぎる面倒な幅というか深さだけ自らにそれが帰ってきて、やられてしまい、最悪なのはそのやられたことを相手のせいにして自らの責任だと気づかず考えることもない時期が割とありました。(たまにはそんな時もありますが、以前ほどではないと言い訳しておきます)

おもひで

 思いがけないことで、仕事もですが大切なことでもそうですが、先輩方にお会いしました。知人・友人・職場の方・私の家族の前では何でもというか時折偉くないのに偉そうな言動が多い私です。けれど先輩方の前では蛇ににらまれた何とかで、この軽い口も慎ましやかとどころか閉ざされることが増えます。

ただ先輩方に遭えば学生時代やその後過ごした先輩と後輩の様々な思い出がよみがえります。嫌だったこと・とても嫌だったこと・すごく嫌だったこと、つらかったこと・とてもつらかったこと・凄くつらかったこと、逃げたかったこと・とても逃げていたこと・凄く逃げ回っていたこと、それは今になると全てが笑い話で楽しいひと時を思い出します。

他人と家族の違いという観念についてさまざまな見解があります。私は小学校を卒業して親元を離れ寮に入り、高校では下宿をして、大学では先輩方後輩達と一つ屋根の下で長く過ごし、つまりは家族といるより他人と一緒に寝食を共にする時間がかなり長めで育ってきましたから、割と初対面でも楽しく過ごすことができるという恩恵があることに最近気が付きました。

まあ、先輩方の前では何も言えませんので、けれどさまざまなことを思い出します。相変わらず優しく自分達が居た場所を気にかけておられました。

冷たい私も少し心配になりましたが、今いる場所をしっかり守るだけが精一杯です。私の身体が二つではないので同じ時間に違う場所のことを真剣に同時にできない見苦しい言い訳をして、おかれたというか自らが選んでいるこの場所においてできることを増やしていきたいです。

先輩方

「道中お気をつけて」

今日も

 十一月十五日といえば、七五三この時期神社やお寺など子供さんを連れてお参りされる光景を見ることができ、若い頃はそれをみてあまり何も考えることはありませんでしたが、子供達とその両親祖父母、幼子の晴れ姿が今日の晴れ空と似合いまぶしいものでした。

今日も仕事でしたが、充実しており時が過ぎていくのも早く、ただ外に向いては昨日に続いて善いものでしたが、内向きでは善い進展もなく、相変わらず愚痴の多い愚かな私がその忙しい仕事の合間に出現して、誰も受け取れない角がありすぎる言葉たちがそのあたりに散乱する始末で、けれど合間にそれが止まらないといったこともありましたが、平均すれば普通より上でしょうか。
明日は少し何か慌ただしくなりそうな気配、仕事が忙しいだけならそれは有難いこと、角のある言葉や行動と雰囲気にならないよう、急がずに返事をせず、慌てて行動をせず、ごまかさず、逃げず、礼を失くことなく、慎重な判断をしていきたいです。

ちっとも役に立たない趣味へ現実逃避してばかりで、学ぶことから遠ざかる姿を私と家族達へ見せ続ける日々となっているのに、そのことがわかっていて更に目を背け、没頭して時間と体力を浪費し、挙句は睡眠不足とお酒がすすみすぎて、何かしらの悪影響がでることがわかっているのに、慎めないという愚か者が今日もここにいます。

いつものこと

 何人かの子供たちの仕草・言葉・動きに心から笑顔になれるひとときを過ごせました。子供たちの透き通るような言葉や行動はまぶしく光り輝いてみえました。大人でも光り輝いてみえる方もおられます。けれど大人の比率より幼い子供達は輝いています。

「子供は素晴らしいね」

何人かで遠巻きに眺めながら、同じ言葉を言っていました。秋晴れの中、家族で記念に写真を撮っている姿、子供が何かに夢中になっているさま、ちょこんとこしかけているさま、とことこと歩いている姿、両親や祖父母へ駆け寄っている姿、空のように心が澄み渡るようなひと時でした。

いつもではなくても週に一・二回位そんな光景を職場で見かけることができればなんて、また欲張りなことを願ていました。仕事が終わって「けいくん」も同じようにまだ幼いですが、彼は随分成長して幼子から児童へ、つまりは小学生になって団体生活の中でもまれ、随分人間としての様々なことを学び、必要に応じて学ばされ、私や兄たちに少しづつ近づいています。
少し前に、長男が「けいくん」に「そのうち(すべてのものにいのちがあるごとくものが)みえなくなるよ」そう言っていたことを思い出していました。

彼にも次男にも長男にも、大人になる前にできるだけのことをしてあげないと、そう思いますが気を抜くとというか、いつも怠けて趣味に没頭し、彼等のことがおろそかになって一人で満喫している始末です。

特に次男と「けいくん」に時間をもっと明日からかけてあげようと思います。私みたいに怠けて逃げてばかりでは困ったことが増えすぎて仕方ないです。(カエルの子はなんとやらといいますけどね・・・)

いつの間

 子供たちと私と家内と、つまりは家族全員をよく夕食に招待してくれる有難い方がいます。その時間を気にすることはあまりなかったのですが、私が連れていくようなお店ではないので、そこに行く回数は子供達のそれぞれの言動が思い出となって、初めはまだ「けいくん」が生まれて赤ちゃんの頃で、クーハンの中でミルクしかまだ飲めない頃だからお兄ちゃんや家内や私と友人が美味しくいただいている頃彼はそこの中ですやすやと寝ていました。
あれから「けいくん」は小学生になって、大人に負けないほどよく食べるようになり、よく笑って、よくふざけて、楽しめるような時が過ぎたことを帰ってきて思いました。

同じだけの年数が過ぎていけば、長男が無事に入れていれば大学生になる頃です。それまで皆自分のために自分の中身を鍛える時間をできるだけ増やしてほしいと私は押し付けるように願っています。

家内が仕事を始めるようになって、丸二年が過ぎ、いろいろあることにまだ慣れず、けれど自分なりに前に進もうとして頑張っています。相変わらず根性が悪い人達に囲まれると精神的に随分まいって愚痴もとまらず、それは家内だけでなく仕事を先にしている私だって同じことです。よく笑って、楽しめるようになれば、随分仕事も楽になれますが、それには時間と経験と優しい方が必要となり、求めても求めているときには現れず、思っていないときに現れ、計算ができないことです。

美味しいものをたくさんいただけて、家族皆しあわせなひとときを過ごせました。本当に有難いことです。

今日は何故かお酒があまりのめなくて、帰ってからもあまり飲めないという日でした。(何故だろう・・・)

逃避

 思いもよらぬどころではなく、とんでもないことになれば自らが続けてきたことの説明や責任をとらなければいけないことになり、逃げれば逃げるほど、誰かのせいにすればするほど、さらに画策すればするほど、底なし沼のように自らの行為の連続の報いでずぶずぶと深みにはまり、身動きができなくなっていき、そのような事態になってもさらに目を背け自らの行為の報いから目を背け続けることを見せられる人がいて、心の底から

 「私は悪いことをしていなくてよかった・・・」

重く重く本心よりさらに本心のような言葉を何度か聞きました。

近くにいる人が普通のことを教えてあげないのか、それとも伝えているけれど何一つ受け取らないのか、これから問題が片付くまでどんどんとおしよせてくるのにまだ何とかなると思っているのか

それが理解できなくても、理解する気がなくても、理解から必死に逃げていても、私にとっては心底冷たいと思われるでしょうがどうでもいいことです。皆が優しく注意したり助け続けたり守り続けたりすることが何回何十回何百回何千回何万回あったか、自らは助けられ続け、守られ続け、恩恵に浴びせられ続けてきたことを悪く利用する自らの行動の報い、その報いは自らの影のように離れることはなく、自らの影を離れろと言い続けるのか、しばらく私はそれをみせられ続けるような気がします。

知らずに行ったこと、知っていて行ったこと、誰よりも知り尽くし行ったこと、現状や周囲やその場が自らの欲望を優先させすぎたために尋常ならざる事態になることを知っていて行ったこと、周囲が正しくどのようであったかを把握すればその方の状況にあったその方の言動に対する報いをむけてくれます。

「善い言動の連続には素晴らしい善いことを」

反対のことは書く必要がないことです。



あれこれ

 いつもと同じことですが、いつもと違う場所で行う日となり、昨晩明け方四時まで起きていて、あまり寝ていなかったけれど、気づかれず無事に仕事も問題なく終え、帰っても家事や「けいくん」と一緒に本を読んで、セミの生態に詳しくなって、昆虫の本をもう一冊一緒に読んで、掃除機や洗い物を終え、途中趣味の時間を挟んで怠けていたのですることが遅くなり今になってしまいました。

欲張ってあれこれと手を出しても、時間に追われるというか、時間を一つ集中しているものにとられ、結局いろいろおろそかになることがあって、ただ約束していることはしっかり果たさないと、約束した私自身に帰ってきますので、形ばかりでも終わらせ、今日は早く寝なければいけません。

少しというか、割と今日話す機会があって深刻なことも、世間話も、お遍路の話も、美味しい食べ物のすすめなどの話をして盛り上がりました。また教わらなければいけないことを教わり、ただ一回聞いてメモをしなかった私は再度またよろしくお願いしますと頭を下げて、今日は終わっていきます。

親鸞上人についての本を読み終え、道元禅師についての本を一緒に読み進めていました。龍樹も残りあとわずかですが、まだまだ読まなければいけない本がそれこそ山のようで、これもまた怠けて現実逃避しているから人より読むことが遅くなっています。

もっとあれこれと私は調べて読んで、あれこれと悩んで、あれこれと手を出して、あれこれと話して、お酒を飲んで日々が進んでいます。

有難う

 それなりに充実した仕事の時間を送れました。一つ気がかりだったのは私の不注意によることを頼んで帰ってきたことです。快諾してくれたことに救われました。

自由気ままな発言を受け止めてくれる方とはどなたも相性が良いと考えます。

欲、好み、自然に行っているその人の計算方法、生きかた、理解、願い、信じるもの、全員が同じではないことなのに私はよく善いもの、美くしいもの、この上なきごとき智慧、優しさを突き抜けていく慈悲、それは誰もが理解でき求めるものと誰よりも思うときがあります。

人にはそれぞれの個性があり、同じではなく、同じ人だとしても状況・年齢・感情など様々な要因によって同じに思えないことなどもあるのに、私はよく「万人が理解し求めるものだろう」強く強く思うときがあります。実際はそうであるし、そうでないこともあり、懲りない私はまた同じように、強くおもうことがあります。

「大きな勘違い」

学びが浅く、努力が足らず、継続していなければ、そんな言葉が私の目前に雨のように降り注ぎ、めげずに続けていれば少しずつその雨は少なくなりますが、それは私のことを長く知っている人や理解しようとする人、信じる人だけが雨がやんでいます。

わかっていない私、それは私の中に大きく常に存在し、私にとって相性が悪い方・理解しようと思わない方などにとって本当に私は、わかってない私かわかりたくない私か邪魔になる私のように思われていることもよくあります。

プラス思考な私ですから、あまり悪い方向のことは考えず、笑って楽しくできることを考えています。余計にこれは理解できないかもしれません。

何であれ、笑えればいいです。